DAWN FANTASY
1章:心臓に茨、手に角燈 - 1 -
真っ暗な
目醒める瞬間は、決まって躰が魚のように跳ねる。心臓の鼓動は早く、全身にびっしょり汗を掻いていることもある。
落ちている最中は、早く目を醒まさなくてはと焦るのに、いざ目が醒めると、残念に思ったりする。ジェットコースターのようなスリルと、お腹がすぅっとする感覚とを、もっと味わいたかったと残念に思うのだ。
大抵は真っ暗な
いつだったか、落ちる夢の
だが、いき着いたことは一度もない。決まっていつも途中で目が醒めるのだ。
この日も、七海は落ちる夢を見た。
それ自体はよくあることだが、普段と違うのは、途中で目が醒めなかったことだ。
“ナ・ナ・ミ……”
暗黒を落ちていきながら、
(……誰?)
考えているうちに、脚裏に地面を感じた。硬い石の感触と、水の冷たさが伝わってくる。
「ん……?」
下を見ると、黄土色の巌の表面に薄く水が張られており、黄金の
どういうわけか七海は、眠りに就いた時と同じ格好で、素足で、水の張られた巨大な円形碑の上に立っていた。
石造りの円形碑には、秘密の儀式めいた文字が緻密に掘られており、
広い空間だ。
天井は薄暗くて見えず、湿った巌の匂い、ひんやりした空気と
「わ――……すごーい……」
呟きは、音響装置に増幅されたかのように、反響して聞こえた。
視線を彷徨わせていた七海は、思いがけず、碧氷の瞳と遭った。
円形碑の傍に、見知らぬ男性がいる。
神話の
すらりと長身で、
上品な異国の式服を纏っており、頸から膝上までを覆う外套、上衣、長靴と、全て深い青色で統一されている。傍目にも判る凝った縫製で、襟や袖にあしらわれた金刺繍や、白翡翠の宝飾が美しい。
衣装や、魔法遣いを彷彿させるような杖も目をひくが、神々しい美貌から目を離せない。彼は生きた人間なのだろうか?
(なんて綺麗な
年齢不詳の美貌で、二十代半ばにも見えるし、叡智を湛えた瞳からは、もっと年上にも見える。
(そっか、私、夢を見ているんだ……)
自分が冴えない女だという自覚はある。太っているし、器量も愛嬌もない。学校や職場で浮かないよう、いつでも付和雷同しながら生きてきた。
友人は少しいるけど、恋人はいない。その代わり、空想の恋を楽しんでいた。小説や映画のヒロインに憧れて、束の間甘い夢を見る……二十九歳になった今も、夢見がちな自覚はある。
だから、このように美しい
ぼぅっと美貌に
「っ!?」
どっくん。どっくん、
忌まわしい何かがこの胸に入りこみ、心臓を、茨の鎖に搦め捕られたような苦痛に貫かれる。
「痛っ、うぅ……」
躰をくの字に折り曲げ、膝から
「****」
顔をあげると、強い意志力を灯した碧氷の目とぶつかった。
「****エリキサ?」
「え?」
戸惑う七海の顔の前に、彼は掌を向けた。宙を撫でるように、上から下へすーっとすべらせる。
すると不思議なことに、掌に神妙な琥珀の光が集まりだして、刺すような痛みは
「ぁ……楽になった……?」
「****エリキサ?」
訝しげに心臓のうえに手を置く七海に、男は、再び訊ねた。
「すみません、今なんて?」
「****ウテ・カ・エリキサ******?」
よく響く韻の深い声は、静寂な空間のなか誇張されて聴こえた。非常にゆっくりと発音してくれたが、ウテ・カ・エリキサという響きしか聞き取れなかった。
「……English?」
訊ねながら、英語でないことは判っていた。
案の定、彼は小首を傾げた。その拍子に、さらりと肩からこぼれ落ちた白銀髪が、燭台の焔に照らされ琥珀色に煌めく。
(は――……なんて綺麗なの……)
幻想的な美しさに見惚れてしまい、ぽぅっとなっている七海を見下ろしながら、彼はさらに訊ねた。
「*****、*********?」
疑問口調ということは、なんとなく判るが、意味はさっぱり不明である。
「すみません、言葉が判りません……」
戸惑いながら長身を仰ぎ見て、背の高さにあらためて驚かされた。
百五十五センチの七海より、優に三十センチは高そうだ。果たして何頭身あるのだろう?
(うわぁ、同じ人間と思えない……)
スタイルの良さも
「****、**、****、****?」
今度は、細かい文節で、ゆっくり発音してくれた。
配慮はありがたいが、七海にとって、ただの音列に過ぎなかった。これまで耳にしたことのない、異国の響きだ。
(壮大な夢だなァ……自覚のある夢って久しぶり)
呑気な感想を抱いた時、地面がぞっとする唸り声をあげた。
「やだっ、地震!?」
耳を
咄嗟に目の前の男の腕に掴まった七海は、掌にしっかりとした衣の感触、硬い筋肉とを感じてはっと目を瞠った。
「すみませんっ」
反射的に躰を離そうとしたが、逆に腰を抱き寄せられた。さっと屈みこんだと思ったら、七海の膝裏に腕をさしいれて、軽々と横抱きに持ちあげた。
「へっ!?」
むっちりして小肥りな七海を、彼はしっかりと腕に抱えて、踵を返すなり走りだした。
「あのっ、ちょっと」
「****!」
慌てる七海をしっかり抱いたまま、彼は同じ響きを繰り返した。短い言葉は鋭く、緊張感があり、彼の視線の先を辿った七海は、息を飲んだ。
直上に持ちあがっている巨大な巌の扉が、おりようとしているのだ。