アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 8 -

 その晩、光希の意識は見知らぬ男のなかにあった。
 頭巾を被っており、ふたつの丸穴から覗く視界で、慈悲を求める人々を奇妙な形の台に固定している。何をしているのか最初は判らなかったが、磐のような拳が、刃に連結された綱を掴んだ瞬間に悟った。
(――よせっ!!)
 声にならぬ声で叫んだが、男は、ぱっと綱を離した。
 ザンッ。
 形容しがたい非情で残酷な音が耳に響いた。
 この男は刑吏だ。
 どういうわけか、光希の意識は処刑人の躰に縛りつけられていて、見たくもない景を男と共有している。
 転げ落ちた頸も、切り離された胴体も、滴る鮮血までもが青い燐を燃やしてかがやいている。
 これは夢だ。またしても悪夢を見ている。かくも明瞭なる悪夢を。
 掌に感じる縄、腕に感じる重み。むっとする汗と血の匂い、滴り落ちる血の温度まで感じられる。全てをはっきりと感知している。おまけに頭巾のせいで息苦しい。ざらついた麻布の感触と、しゅーっしゅーっという荒い呼吸音に、市街で攫われた時の悍ましい記憶が蘇った。
(厭だ厭だ厭だ――夢なら醒めろ、早く醒めろッ!)
 必死に抵抗するが、躰は勝手に動く。尋常ではない手際の良さで、次々に断頭台に固定していく。彼等にどんな罪があるのか知らないが、こうも無情に淡々と、頸を落とすこの処刑人の心はどうなっているのだろう?
 そう考えた時、男の意識に同調して、まったき暗黒の狂気に陥りかけた。
 それは荒れ狂う怒りでも、怪異なる心境でもなく、一種平穏とすら呼べる静かなものだった。
 無風。
 無明。
 無音。
 邪悪ななぎ
 この男は――おびただしい数の頸を撥ねてきたこの刑吏は――もはや何も感じていないのだ。
 どんな恐怖よりも恐ろしい、地獄のあなを覗いた心地がした。
「……き……光希」
 揺り起こされて、光希は目を覚ました。
「うわぁっ」
 悲鳴をあげて跳ね起きると、ジュリアスは心配そうな顔つきになった。
「大丈夫ですか?」
「……酷い夢を見た」
「また?」
「うん……怖かった」
 心臓はまだ音を立てて鳴っている。だが悪臭は臭わなくなり、凍えるような冷気も急速に引いていくのを感じた。
 夢で良かった……心の底から安堵する一方で、重い疲弊感に襲われた。偶然と思いたいが、療養所を慰問してからというもの、悪夢に苛まれている。
 内容は色々あるが、酷いものばかりだ。発疹が全身に広がる夢。見知らぬ男との姦淫。頸を締められる夢。自死……どれも道徳的な嫌悪感をもよおさずにはいられない。目が醒めたあとはいつも最悪の気分になる。
 ジュリアスや家人は気にかけてくれて、安眠効果のある香や茶をあれこれと渡してくれるのだが、今のところ効き目はない。
 昨夜もナフィーサにもらった香り袋を枕元に置いてみたのだが、残念ながら効果はえられなかった。
「もう大丈夫。夢ですよ」
「うん……」
「……しばらく傍にいましょうか?」
 ジュリアスが気遣わしげに訊ねた。
 一瞬そうしてほしいと光希は思ったが、既に軍服に着替えている彼を見て、頸をふった。
「ううん、大丈夫」
「そう……まだ早いですよ。もう少し眠ったら?」
「ジュリこそ、こんな早くからでかけるの?」
 ようやく星の仄めきの薄れ始めた暁闇だというのに、勤勉にもほどがある。
「少し調べたいことがあるので」
「大変だね、休日なのに……」
「仕方がありません、仕事が増えましたから」
「気をつけてね」
「ありがとう。夜までには戻ります」
 ジュリアスは身を屈めると、光希の額にくちびるをつけて囁いた。光希の頬をひと撫でして寝台をおりると、扉の前で光希を一瞥してから、部屋をでていった。
 光希は、寝台のなかから見送ったが、再び眠ることは躊躇われた。
 恐いのだ。
 また悪夢を見るかもしれないと思うと、うなじに冷や汗が湧いて、躰が緊張感に硬くなる。
 意識は尖っているが、こんな時間に起きだすと、家人に気を遣わせてしまうだろう。
 結局陽が昇るまで、ただ目をつむって寝台のうえに横たわっていた。
 勤勉な召使いたちが朝の仕事にとりかかり始めて、しばらく経ってから、光希は身を起こした。
 腕の袖をまくりあげると、依然、かわらぬ発疹がそこにあった。おまけに範囲が広がっている気がする。
「はぁ……」
 泥のような失望に浸されて、ごろりと寝台に仰臥ぎょうがする。肌の美しさにこだわりはないつもりでいたが、自信喪失している今は堪えた。
(まあ、肌の状態が良くなったところで、体型が変わるわけでもないんだけど……)
 せっかくの休日なのに最悪の気分で、寝台から起きあがるのにしばらく時間がかかった。
 昼まで懶惰らんだな猫のように部屋で過ごし、昼餉のあと、裾と袖口に刺繍のある真珠色の絹を羽織って、風呂へ向かった。
 すると浴室担当の召使い、ベルテがにこやかな笑みで迎えてくれる。
「こんにちは、殿下。ご機嫌いかがですか?」
「ありがとう、ベルテ。こんな時間にきてごめんね」
「うふふ、ご遠慮なさらず。いつでもいらしてくださいませ」
 瑞々しい十六歳のベルテは、新規感を覚えるむっくりとふとった体型をしている。顔立ちこそ地味だが、真珠のようになめらかな褐色の肌と、艷やかな青い瞳の持ち主だ。顔には善良の性が顕れ、笑うと両頬にえくぼができる。光希によく仕えてくれる、心優しい召使いである。
「殿下、新しい香油をお試しになりますか?」
「ありがとう」
 光希は笑顔で瓶を受け取ると、ラベルの文字に目を注いだ。
「柑橘系?」
「はい、お好きかと思って」
「好みだよ。ありがとう」
 ベルテは嬉しそうにはにかむと、深く額づいてから、静かに扉をしめた。光希が入浴をひとりで楽しむことは、クロッカス邸の召使たちに周知されているのだ。
 広々とした脱衣場に入ると、青磁の香炉が焚かれており、素馨ジャスミン檸檬レモンの心を蕩けさせる香りに満たされていた。
 服を脱いで、全身鏡の前に裸で立つと、思わずがっかりしてしまった。脂肪を纏った躰がいつもに増して醜く見える。
 今日はこれから流せるだけ汗を流そうと、気合と共に蒸し風呂に入った。
 液状石鹸で全身を洗い流したあと、石の寝台の上に横になる。むっとした熱気に包まれて、数分も経つと、早くも肌の毛穴が開いて汗が滲んできた。水を浴びると、皮膚の火照りが消えて呼吸が楽になる。そしてまた横になる。
 十年こもる気持ちでいたが、間もなく頭がくらくらしてきたので、水風呂に浸ってから蒸し風呂をでた。
 少々ふらつきながら籐の長椅子に寝そべり、ベルテにもらった香油で手揉み療法を始めた。以前やり方を彼女に教えてもらったのだ。
 両掌をつかって、腹の肉をこねるように塗りこむ。脂肪が少しでも燃焼するように、圧力をこめて。ジュリアスはいつも柔らかい肌を褒めてくれるが、これは憎き、成敗すべき脂肪なのである。
「光希」
 独楽こまのように振り返った光希は、きっとなった。
「でていって!」
 鋭くいったにも関わらず、ジュリアスは近づいてきた。素足で、上着を脱いでおり、帯剣もはずしている。
 慌てて繻子の長衣を羽織った光希だが、
「見せてください」
 隣に座ったジュリアスに看護者めいた口調でいわれると、渋々といった風に長衣を脱いだ。
「……腕の発疹が広がっている気がするんだ。肩にもある?」
「少し……でも、下の方は薄くなっていますよ」
「そうかな?」
「ええ……後ろは塗り辛いでしょう。手伝います」
 ジュリアスはタイを緩め、襟の釦をはずすと、袖をまくりあげた。
「いいよ、自分でやるから」
 光希は困惑げにいったが、ジュリアスは光希の手から瓶を奪いとった。
「遠慮しないで。ほら、背中を見せて?」
「遠慮じゃなくて……恥ずかしいんだってば。どうしてここにいるの? でかけたんじゃなかったの?」
 さりげなく繻子に伸ばそうとした手を、そっと掴まれた。
「少し時間が空いたので、光希の様子を見にきたのです。朝は調子悪そうでしたし、心配で……」
 指先に大切そうにくちびるを押しあてられ、心臓が高鳴る。
「背中を見せてください」
 涼しげな麗貌が凄艶せいえん面輪おもわに一変して、見惚れるほど美しいが、どこか危険を孕んで見える。
「……自分でやるから平気だよ。ジュリも忙しいでしょ?」
「休憩する時間くらいあります。ほら、横になって」
 ジュリアスは囁きながら光希の肩をそっと押して、長椅子にうつ伏せの格好で寝かせた。腰に薄い麻布を一枚かけると、瓶を手にとった。
「やっぱり……」
 起きあがろうとした光希の肩を、ジュリアスは優しく、だが強い意思をもって押さえた。
「いいから、ほら……力をぬいて」
 彼は光希の大腿を挟むようにして膝立ちになり、掌に香油を垂らして、首筋に押しあてた。
「私に任せてください」
「ん……」
 半ば諦めの境地で、光希は瞼を閉じた。