アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 7 -

 診察のつきそいを終えた後、ジュリアスは疾風迅雷しっぷうじんらいの行動力で、先ずサリヴァンに遣いをやった。鷹の脚に固定した革筒には、至急アッサラームに戻り、療養所の鏡を調べてほしい――そうしたためた手紙がおさめられている。
 星詠神官メジュラであるサリヴァンは今、地方の古文書保管所や修道院を経巡へめぐっているのだ。重要な責務とジュリアスも承知しているが、彼の協力なくして暗雲を祓うことはできないだろうと考えていた。
 それから現在抱えている諸々の案件を整理して部下に割り振り、手すきになった夕刻、アースレイヤの執務室を訪ねた。
「委任状をください」
 開口一番に告げると、アースレイヤは意外そうな顔つきになった。
「おやまぁ、気が変わったのですか?」
「事情が変わったのです。早急に片づけたい」
 アースレイヤは頷くと引きだしを開けて、紐で結ばれた委任状と共に、聖都の絶対指揮権の証である総監徽章きしょうを差しだした。この瞬間を予期していたような手際の良さである。
神剣闘士アンカラクスであるシャイターンには不要かもしれませんが、形式上つけておいてください」
 徽章きしょうを胸に留めながら、ジュリアスは訊ねた。
「現場の指揮は誰が執っているのですか?」
「第十三支部長のハイラートです。貴方に任せますが、なるべく現場と揉めずに協力してくださいね」
 聞き覚えのある名前だった。
 文官から武官に転向した男だ。頑健な体躯に恵まれていたので、筆より剣をとったのだろう。気骨もあり、聖戦と東西大戦の従軍に応じた後、聖都憲兵隊の支部長に就いたと聞いている。現場指揮を任されているということは、能力を高く評価されているのだろう。
「大所帯は歓迎されないでしょうから、私とヤシュムとナディアでいきます」
「よろしくお願いします」
 肩の荷がおりたような顔で、アースレイヤは鷹揚おうように頷いた。
 執務室を辞したジュリアスは、すぐに旧知の僚友を連れて、広大な宮殿敷地内にある聖都憲兵隊本部に向かった。
 先触れがあったため、本部関係者は総出でジュリアスたちを迎えた。
 期待と緊張と畏怖とがいりまじった数百もの眼差しが、ジュリアスたちの歩く姿を追った。
 中央最前列には、聖都失踪特捜班の面々が並んでおり、踵をあわせ背筋を伸ばし、固い敬礼と共に錚々そうそうたる顔ぶれに目を注いでいる。
「我々は、アースレイヤ皇太子から連続失踪人の調査及び解明を命じられ、ここへきました」
 ジュリアスが言葉を発すると、全員が緊張した面輪おもわで頷いた。ジュリアス、ナディア、ヤシュム。いずれも赫々かくかくたる名誉を賜った凱旋がいせん将軍である。この場に彼らを知らぬ者はいない。
「私は、捜査における絶対指揮権が与えられています」
 騎士たちは先ず、ジュリアスの光放つ美貌に目を奪われ、圧倒的な覇気に畏怖し、それから襟に留められた徽章きしょうに目をやった。
 本部の上級指揮官ですらお目にかかったことのない、聖都の絶対指揮権の徽章きしょうが燦然と輝いている。
 それがなくとも、額に青い宝石を煌めかせ、アッサラーム全軍最高指揮権、また西方諸国ただ一人の無期限の東方制覇大権徽章きしょう佩用者はいようしゃである。
 号令一つでアッサラーム全軍を動かせる、歴史に名を残す英雄が、目の前にいる。
 これが“シャイターン”。彼をおいて他に、覇者の気韻をそなえた者がいるだろうか――
「現場の業務を邪魔するつもりも、指図するつもりもありません。協力して、一刻も早く解決しましょう」
 そういってジュリアスが微笑を浮かべると、全員が目を輝かせた。昔は顔色一つ変えずに指揮を執っていたジュリアスだが、今では最初が肝心だと理解している。
 見回しながら、最前列にサリヴァンの五番目の息子、サンジャルがいることに気がついた。ユニヴァースの公開懲罰の際に遠くから一瞥したきりだが、こうして間近に見るとやはりサリヴァンの面影がある。
「よろしくお願いします」
 と、ナディアが柔和な笑みで挨拶をして、
「よろしく頼む」
 ヤシュムがにかっと笑うと、緊張はいい意味で緩んだ。
 挨拶を終えて、臨時に設けられた特捜班の調査室にジュリアスたちが入ると、堂々たる体躯の男が進みでた。
「聖都憲兵隊第十三支部長のハイラートと申します。お会いできて光栄に存じます」
 ジュリアスは軽く頷いた。
「楽にしてください。早速ですが、調書を見せていただけますか?」
「もちろんです。こちらをどうぞ」
 書類を受け取ったジュリアスは、素早く全ての項を一瞥した。
「失踪したピルヨムというのは、あなたの部下ですか?」
「はい。十日程前に療養所から失踪したと、彼の母親から相談を受けました。彼女の話によると、ピルヨムは既に死んでいるそうです」
「死んでいる?」
「最後に、魂となって母親の元を尋ねてきたそうです……病室を調べてみましたが、荷物はそっくり残ったままで、争った痕跡もなく、不審な点は見つけられませんでした。ですが、失踪が彼の意思によるものではないことだけは確かです。母親想いの男ですから、黙って姿を消したりしません」
「同じ病室に、痩身で身元不明の男性がいませんでしたか?」
 ハイラートは驚いた顔でジュリアスを見つめた。
「おります。口が利けない男なのですが、彼をご存知なのですか?」
「偶然ですが、昨日その病室を見ました。彼のことを詳しく調べてもらえますか?」
「かしこまりました」
 ハイラートは如才なく頷いた。一通り目を通してジュリアスが顔をあげると、彼は待ち構えていたように訊ねた。
「何から始めますか?」
「最初からです。神殿祈祷師シャトーマニが鑑識を行った現場を見せてください」
 ジュリアスの言葉に、幾人かが怯んだ様子を見せた。特捜班のなかで、一家失踪の家は呪われていると囁かれていたのだ。
 店がひしめくように並ぶ喧囂けんごうの大通りに、くだん鋳物いもの屋はあった。
 一家失踪の後、消魂鑑識を担当した神殿祈祷師シャトーマニも失踪したという、曰くつきの現場である。
 石造りの家屋の外観からは、陰惨な事件を彷彿させるようなものはなく、完全に往来に溶けこんでいる。ただ、入り口の胡桃材の扉は板で封鎖されており、立ち入り禁止の文字が彫られていた。
 板を剥がしてなかへ入ると、荒れた様子はなく、静謐せいひつな空気にたされていた。先入観のせいかもしれないが、日差しが射しこんでいるにも関わらず、部屋全体が薄暗く感じられた。
 時が凍りついている。
 飾り棚に割れ目を継ぎあわせた陶器の花瓶が置かれていて、活けられた薔薇の花は、しおれて花びらを床に落としている。
 報告書にある通り、少し埃をかぶっているが商品は整然と並んでおり、犯人がいるにしても単純な物盗ものとりが目的でないことは明らかだった。
 奥の廊下へいくと、壁に金の額縁が幾つか掛けられており、その先に細い階段が伸びていた。
 二階に着いたとたん、隊士たちは顔をしかめた。糜爛びらんした肉のような、えた匂いがかすかに漂っている。
 居間に入ると匂いは強烈になり、白い斑点はんてん模様で燦爛さんらんとしていた。壁や床に這うおびただしい蛆虫うじむしが、きらきらと奇妙な光を放っているのだ。
「呪われている……」
 醜穢しゅうわいな景に戦慄した捜査員が、気味悪げに呟いた。
 陰々滅々とした空気のなか、ジュリアスは薄蒼の焔――彼だけに扱える霊火で、悪疫あくえき息吹いぶきを焼きつくした。
 神妙を目の当たりにした捜査員たちが、驚きに目を瞠っている。
 虫が一掃されると、黒檀こくたんのような床に、儀式の痕跡が見てとれた。
 壁際に擦り切れた肘掛け椅子数脚と、丸卓が寄せられており、広く空けた床のうえに、黒色蝋燭、振り子や香などの呪具がそっくりそのまま残っていた。
 円陣のなかに銀盆に載せられた羚羊の頭が置いてある。これが蛆虫の原因であろう。報告通り、血生臭い儀式を行っていたようだ。
 一体なにが起きたのだろう?
 極度の恐怖、畏懼いく、絶望――悪しき気配と魂の残滓ざんしといった、混沌としたものがわだかまっている。
 霊感のある者は、その場に片膝をついて祈りの文句を唱え始めた。
「さがっていてください」
 彼等が距離をとるのを見て、ジュリアスは円陣の中央に立つと、床に青い焔を敷いた。
 驚きの声があがる。ジュリアスが静かにと目配せすると、全員が固唾を飲みこんで沈黙した。
 祈祷師マニが呪具と言葉を紡いで魂の残滓を読み取るように、ジュリアスは焔を使って記憶を浮きあがらせる。
 揺らめく青い焔は蝶のような鱗粉を舞いあがらせ、空恐ろしくもあり、また美しかった。
「我らの心は一つ。アッサラームの御導きによりて願い奉る。神殿祈祷師シャトーマニ、ツイ・イーの霊魂よ、呼びかけに応じ給え」
 ジュリアスが祈祷を唱えると、風もないのに蝋燭の火が揺らめいた。ぼぅっと暗がりに顕れた人影に、現場は騒然となった。
 反射的に剣の柄に手をやる者、または跪いて祈り文句を唱える者、様々だ。

“……触れてはいけない悪意だ。シャイターン……さだめられし夜に、地獄に囚われのものどもが解き放たれる……”

 不吉な警句を発した祈祷師マニの頸が、ごろりと転げ落ちた。幾人かが、ひっ、と小さな悲鳴をあげた。
 ハイラートは、かつて味わったことのない恐怖に凍りついていた。あのヤシュムですら無意識に腕を擦っている。
「……これは魂消たまげた。もういっぺん、神殿に連絡した方がいいんじゃありませんか?」
 口角を引きつらせてヤシュムがいうと、幾人かが同意の眼差しをよこした。
 ジュリアスは顎に手をやり、しばし円陣を見下ろして思索に耽った。
 確かにこれ・・は、一介の憲兵の手には余るだろう。然るべき専門家の協力が必要だが、上級神官でも厳しいかもしれない。実際に神殿祈祷師シャトーマニが犠牲になっているのだ。
 ハイラートは、思索に耽る端正な横顔を眺めながら、つくづく感心していた。屍人に声をかけられた張本人なのに、全く動じていない。繊細な麗貌ながら、驚嘆すべき自制力を秘めている。
 他の隊員は非日常の怪異に少なからず動揺していたが、ジュリアスが指示をだすと、手分けして家中をくまなく探索し始めた。
 家具をどかし、床を検め、引きだしを全てあけて、地下室にもおりてみたが、特に目を引くようなものはなかった。
 家のなかを探索し終えたあと、もう一度、何か見落としがないか、些細な異常も見逃さぬよう壁や部屋の隅を注意深く見て回った。けれども二階の儀式跡のような、明確な異変は見当たらなかった。
 家宅捜索を終えて外へでると、もうすっかり夜のとばりがおりていた。
 青い星は、熱のない青白い光線を都にくまなく降り注ぎ、家々のかたちにそれぞれの陰影を与えている。
 隊士たちが家を振りかえって眺めると、昼には感じなかった禍々しさが宿っている気がした。
「……あれは、悪霊の仕業でしょうか?」
 ハイラートは、敬虔つ厳かな表情をつくり、重々しく訊ねた。
「恐らく。やはりサリヴァンに協力してもらわなければ……」
 ジュリアスは家を見据えたまま答えた。
「さぞ恐ろしい思いをしたに違いない。気の毒な家族に、神のお導きのあらんことを……」
 そういってハイラートは隊帽を胸の前にもっていくと、静かに祈りを捧げた。
 聖句を唱える者は他にもいた。ナディアも黙祷を捧げている。
 ジュリアスも、災いを孕んだ暗雲がアッサラームにたちこめているように感じられた。