アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 6 -

 慰問から帰った日の夜、光希は気味の悪い夢を見た。
 冷たい無音の暗闇に支配された空間で、蝋燭に照らされた寝台のうえ、絡みつく躰が奇妙に浮きあがって見える。
 光希は一糸もまとわずに四つん這いの格好で、後ろから貫かれていた。全身に汗をかきながら、だらだら蜜をこぼす性器を絹にこすりつけて、恍惚を貪っている。
 相手の顔は見えない……ジュリアスのはずだが、躰を這い回る指先を、見知らぬ男のもののように冷たく感じる。夢だと判っていても嫌悪感があり、躰のしたを冷たい液体が流れていく。
 一体自分は、誰と交わっているのだ?
 暗鬱あんうつな情熱。罪深い快楽……深く官能的なくちづけは、薄らを舐めているみたいに冷たい。
 ――屍姦しかん
 そう思った時、背筋がぞぞぞ……っと冷えて、じっとりとした恐怖がこみあげてきた。
 突きあげが早くなる。飽くなき強欲、悍ましい肉欲、あらゆる気色悪い感覚と共に、純粋つ邪悪な原始的律動を光希に刻みこむ。
 呪わしい淫らな儀式の生贄にされているみたいだ。恐怖と拒絶を叫ぼうとしても声がでない。
 これは夢だ。かくも明瞭で凄まじい悪夢! 起きなければ。一刻も早く目を醒まさなければ――気が焦るばかりで、周囲の闇がぐるぐる回る。
 終わりのない永劫の闇に思えたが、悪夢は唐突に終わりを告げた。
「……光希?」
 揺り起こされた光希は、天使に見おろされていると思った。
 首筋まで滑りおちる金髪は眩い光を放ち、黄金きん色の長いまつ毛が頬に影を落としている。澄んだ碧眼には様々な色が入りこみ、光希を映していた。
 ジュリアスを認めて、光希は心の底から安堵を覚えた。動悸はするが、凍える躰に血が通いだし、暖かく溶けていくのを感じる。
「大丈夫ですか? うなされていましたよ」
「はぁ――……酷い夢を見た」
「どのような?」
「それは……」
 艶夢えんむというには汚辱おじょく感が強く、口にだすのは憚られた。
 それに夢にしては生々しく、思わず下腹部を確認してしまった。粗相はしていないが、いつもの朝勃ちが浅ましく思えて、強烈な嫌悪感と不快感に襲われた。
 光希の視線を追いかけたジュリアスは、からかうような笑みを浮かべた。
「慰めてあげましょうか?」
 するりと内腿を撫であげられ、光希は小さく呻いた。
「放っておいて。そのうちおさまるから」
 前屈みになって睨みつけるが、あまり迫力はなかった。
 ジュリアスはやめるどころか、さらに悪戯をしかけてきた。光希の手のうえに己の手を重ねて、揉みしだくように力を加えてきたのだ。
「ちょっと!」
 躰の芯に火がつきそうになる。必死に構ってくる手と格闘していた光希は、ふと自分の腕を見て、動きを止めた。
「……どうかしましたか?」
 ジュリアスも笑みを消して、光希が凝視している右腕をそっと掴んだ。
「なんだろう……蕁麻疹かな?」
 光希は腕を見つめたまま、戸惑った風に呟いた。腕の側面に、紅い発疹が点綴てんていしている。
「痛みは?」
「痛くない」
 痛くも痒くもないが、見慣れぬ小さな斑点の密集に不安を覚える。
「医師に診てもらいましょう」
 ジュリアスは真面目な顔と声でいった。光希は少し考え、頸を振った。
「いや、放っておけば治るよ……たぶん」
「軍部にいくついでに、医務局へ寄ればいいのです。それほど時間はかからないと思いますよ」
 ちょっと考えてから、光希は頷いた。
「……それもそうだね。昼休みにいってみようかな」
「そうしてください。私も様子を見にいきます」
 えっ。という顔で光希はジュリアスを見た。
「一人でいけるよ。忙しいでしょう?」
「休憩する時間くらいあります。気になるので、同席させてください」
「……ん、判った」
「きっとすぐに治りますよ」
 慰めるようにジュリアスはいった。
「うん」
 光希が笑みかけると、寝台をおりたジュリアスは手を差し伸べた。光希がその手をとると、
「わっ」
 力強く引っ張られた拍子に、躰は振り子のように起きあがり、広い胸のなかに飛びこんでしまった。
「ごめん」
 図らずも抱き着く恰好になり、慌てて離れようとしたが、ジュリアスはぐっと腕に力をこめて光希の腰を引き寄せた。
「ん?」
 胸に手をついて距離をとろうとするが、阻まれる。彼は、離れるどころか光希の肘を掴んで引き寄せ、顔を傾けた。唇はちゅっと音を立ててすぐに離れたが、光希は照れて赤くなった。
「も~、寝起きなのに……」
「貴方が飛びこんできたんです」
 悪戯っぽくいうジュリアスが眩しすぎて、光希は文句の言葉を飲みこんだ。彼のおかげで憂鬱な気分が少し晴れた。
「支度するね」
 光希が笑顔でいうと、寝癖のついた黒髪を、ジュリアスは優しく撫でた。

 昼休みになると、約束した通りジュリアスが工房まで迎えにやってきた。光希は同僚に休憩ついでに医務室へいくと言伝して、ジュリアスと共に医務室を訪ねた。
 医務室には馴染みの医者の他に、見慣れぬ若い助手がいた。隣でジュリアスが眉をひそめているのが判ったが、光希は明るい声で挨拶をした。
「こんにちは、バハドゥール先生。そちらは、初めてお会いする方ですね」
 五十半ばの豊かな髭を蓄えた医者が、朗らかな笑みを浮かべて頷いた。
「甥のヴァール・アリです。先日から助手をさせております」
 ようやく少年の域をでたような青年は、恐縮したように辞儀を返した。
「ヴァール・アリと申します。よろしくお願いします」
「光希です。こちらこそよろしくお願いします」
 光希が笑みかけると、彼は恐縮したように数歩を近づいた。その距離の詰め方があまりにも遠慮がちなので、光希は思わず笑ってしまった。
「もっと近くへいらしてください」
 ジュリアスは思わず光希を見たが、光希は頓着した様子もなくほほえんでいる。
「今日はいかがなさいましたか?」
 バハドゥールが穏やかに訊ねた。
「実は腕に発疹ができてしまって、診てほしいのです」
「どれどれ……腕を見せていただけますか?」
「はい」
 光希は頷いて、帯をほどいて上着を脱ぐと、上半身は肌着一枚になった。
 まろやかな白い肌が、明るい部屋のなかでいっそう眩しく見える。
 バハドゥール・アリの後ろで賛嘆したように息を呑む青年医師を見て、ジュリアスの忍耐は限界を越えた。
「ヴァール・アリ、貴方はでていってください。光希の診察は、バハドゥールだけで行うように」
「ジュリ」
 光希は咎める口調でいったが、ジュリアスは譲らなかった。
「バハドゥール。貴方を信頼していますが、たとえ甥でも光希に触れさせてはいけません。接触は最小限を心がけてください」
 光希は思わず天を仰ぎかけた。
 ……こういう時のジュリアスは、あまりにも盲目過ぎると思う。彼以外の人間は光希に対して、躰の清拭せいしきも、髪を梳かす時も、着替えを手伝う時も、清浄が穢れるからと肌に触れてはならないと思っているのだ。
「誓ってやましい気持はありません」
 医者は緊張に強張った顔で、両手をあげて弁明した。彼を援護すべく、光希も真面目な顔を作ってからジュリアスを見た。
「ジュリ、お医者さんだよ?」
「そうですね。それが何か?」
 星辰せいしんの運行が普遍であるように、ジュリアスはどこまでもジュリアスだった。光希は今度こそ天を仰ぎ見そうになるのを、理性を総動員させて自制しなければならなかった。
「……見ていて不快になるなら、ジュリは外で待っていて」
 くちびるから溢れた声はいささか硬い。
 ジュリアスの表情が強ばる。ぎょっとしたのは医師のふたりで、ええっ!? という顔つきになり、一拍して慌てた様子でまくしたてた。
「いえ、そんな。滅相もありません。甥は外で待たせますから」
「はい、私は外で待機しております。何かありましたら、お呼びください」
 あたふたとでていく青年医師を傲然ごうぜんと見ているジュリアスの隣で、光希は恐縮したように頭をさげた。
「……すみません」
「いえいえ、こちらの配慮が欠けておりました。さぁ、診察いたしましょう」
 医師は丁寧に、光希の腕に触れた。
「念のため、背中も見せていただけますか」
「はい」
 光希は座ったまま後ろを向いた。
「少しだけ、めくりますよ」
 視線が背骨から腰へとおりていく様子を、ジュリアスは黙って見ている。医者は不躾にならない程度に目を走らせ、腕に視線を戻した。
「背中に発疹はありませんね。腕も化膿はしていませんし、一時的なものだと思いますよ」
「良かった」
「大雨季もいよいよ本番ですから、季節の変わり目で肌が敏感になっているかもしれませんね」
「それを聞いて少し安心しました」
 光希は安堵に表情を緩めた。
「発疹に効く外用の発泡薬はっぽうやくをおだししますね。湯浴みの直後は避けて、朝晩と二回塗るようになさってください」
「判りました。ありがとうございます」
 渡された薬瓶を、光希ではなくジュリアスが受け取った。瓶の中身を注意深く検めている。彼の気が済むまで、光希も医師も黙っていた。
 バハドゥールは気を悪くすることもなく、入浴のための薬草も分けてくれた。ほかにも、吸盤や針治療も提案されたのだが、怖がりな光希が首を振ったので、ひとまず無難な治療に落ち着いた。
 彼はまた、幾つかの忠告を口にした。気に病みすぎないこと。風通しの良い部屋で過ごすこと。十分な睡眠をとること……健康を維持するための、ごく基本的な、だが極めて大切な留意事項である。
 一通りの説明を受けて医務室をでると、廊下で待機していたヴァール・アリと目があい、ふたりして同時に頭をさげた。
「お待たせてしてすみません、診察していただきましたので、これで失礼します」
 光希が早口でいうと、ヴァール・アリも慌てたように言葉を紡いだ。
「こちらこそ、大変失礼いたしました。どうぞお大事になさってください」
「はい、ありがとうございます」
 と、光希はもう一度ぺこっと頭をさげた。ルスタムに頻繁に注意されるのだが、染みついた習性はなかなか直らない。
 ジュリアスは特別の感慨もなく青年医師を一瞥すると、光希の背中にそっと手を押し当て、歩くよう促した。
 廊下を歩くうちに、光希は幾分明るい気持ちになってジュリアスを見た。
「……ありがとう、ジュリ。診てもらったら、なんだか安心したよ」
 診察は偉大である。不安な気持ちはかなり軽減されていた。
「ええ。良かったですね」
 ジュリアスは微笑を浮かべたものの、思わしげな顔つきになった。
「どうしたの?」
「……昨日、よくないもの・・・・・・に触れましたね」
 光希は目を瞠って押し黙った。彼が何のことをいっているのか、直感が閃いたのだ。
「光希が気にしていた鏡ですが、サリヴァンに調べてもらおうと思います」
「あれ? サリヴァンはアッサラームを離れているんじゃなかった?」
 さも不思議そうに光希は訊ねた。
「ええ、ですから戻っていただきます」
「えっ、そんな悪いよ……そこまでしなくてもいいんじゃない?」
「いえ、早急に解き明かさなくては……神殿祈祷師シャトーマニと療養所の憲兵の失踪には、何か関連があるはずです。鏡はその手掛かりになるかもしれません」
 ジュリアスは豁然かつぜんと答えた。不安げな光希を見て、実は、と続ける。
「先日、アースレイヤに連続する失踪人の捜査指揮を打診されました。保留していましたが、引き受けることにします」
 碧い双眸が、強固な意思を灯して輝いた。
 光希は不安げに身震いした。漠然と厭な予感が胸にきざすのを感じたが、説明することは難しかった。
「……そうなんだ……」
 抑揚のない声でいうと、ジュリアスの眼差しがやわらいだ。光希を抱きしめて、頭のてっぺんにキスをする。
「大丈夫ですよ。必ず解決してみせます」
「うん……」
 無論、ジュリアスなら可能だ。
 けれども大変な困難を伴うことになりそうだという、説明しがたい不安に駆られたのだった。