アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 5 -

 四月七日。
 朝から重たい黒雲に覆われ、空気は冷たく湿っていた。
 午後になるとぱらぱらと小雨が降ってきたが、通りには、シャイターンとその花嫁ロザインをひと目見ようと大勢が集まっていた。
 軽快な四輪馬車の窓から軍服姿のジュリアスと光希が手を振ると、彼等は瞳に欣快きんかいの光を湛えて、熱狂的な歓呼で応えた。なかには随喜渇仰ずいきかつごうのあまり涙を流す者もいた。
 通りは混雑していたが、療養所の敷地内は関係者だけに限られ、ひっそりと落ち着いた平常の雰囲気を保っていた。
 王立ルイゼム療養所は、歴史的な巨大建造物である。
 豪壮な建物で、廊柱も外壁も強固な茶褐色の花崗岩を積まれて築かれている。幾星霜の雨風に耐え抜いてきたことを窺わせる褪せた風味で、下の方は蒼とした蔦に覆われており、自然と一体化しているように見える。
 鉛色の曇天を背に立つ威容は厳しいが、正面にはすの浮かぶ美しい池があり、ほとりには無花果いちじくの木と菫の群が色を添えて春めいた甘い香りを漂わせている。晴れた日にはきっと、池に青空と草花が映りこんでさぞ美しいに違いない。
 ふたりが馬車を降りると、背の高い痩身の尼僧に出迎えられた。
 婦長のカルメンだ。病室の責任者を任されている女性で、黒い質素な上下に白い前掛けをして、胸に真珠の長い数珠をかけている。ほつれないように髪をぴっちり布で巻いており、その清潔な立ち姿に、彼女の几帳面さが顕れていた。
「シャイターン、御使様、ようこそおいでくださいました」
 笑み返そうとした光希は、彼女の瞳を見て、思わず一歩身を引きかけた。
 一切の感情を封殺した深淵のような瞳に、全身の血が凍るように感じられたのだ。どうにか意志の力で踏み留まったが、危なかった。いくらなんでも弱気の虫だ。
「お久しぶりです、カルメンさん」
 少々ぎこちない挨拶であったが、カルメンは嬉しそうに相好を崩した。柔らかな微笑に先程のうろはなく、きっと見間違いだったのだろうと安堵した。
 しかし、彼女に先導されて歩き始めたものの、すぐにまた足を止めてしまった。
 建物を前にして、何やら漠然とした不安のようなものが胸にきざしたのだ。うなじの毛がぴりぴりと逆立っている……
 何度もきたことがある場所なのに、このような感覚に囚われたのは初めてだった。
 厭だなぁ……と思った時、ちょっと離れたところに、光希と同じように建物を仰ぎ見ている女性がいることに気がついた。
 厳しい表情でひとりつ姿は、寂しそうで、それでいて気高かった。
 見つめていると、視線に気がついた女性が光希を見た。相手が誰かを悟ったように、ぱっと膝をついて、両手を胸の前で組んだ。
 光希も軽く一揖いちゆうすると、ジュリアスに肩を抱き寄せられた。
「どうかしましたか?」
「……あの女性は誰かな?」
 光希はジュリアスを仰いだ。彼は女性を一瞥すると、答えを求めるようにカルメンを見た。
 婦長は少し躊躇った様子を見せたが、ややして口を開いた。
「彼女の御子息が、ここで治療を受けていたのです」
「息子さん? 今は受けていないのですか?」
「それが、十日ほど前に忽然と姿を消してしまわれたのです」
「え、どうしてですか?」
「判らないのです。支部の騎士様も探してくれているのですが、まだ見つかっておりません」
「そうでしたか……お気の毒に。無事に見つかるといいですね」
 カルメンは悲しそうに頷いた。
「今の殿下のお言葉を、あとで彼女に伝えてもよろしいでしょうか? きっと慰めになると思います」
「もちろんです。無事をお祈りしています」
 光希が手をあわせると、婦長は安堵と感謝の入り混じった笑みを浮かべた。
「すみませんが、そろそろ案内して頂けますか? 我々も時間が限られているので」
 ジュリアスが切りだすと、はっとした様子で婦長は頷いた。
「大変失礼いたしました。それでは、案内させていただきます」
 施設のなかに入ると、消毒液の匂いがかすかに漂っていた。廊下は掃き清められ、調度や扉の真鍮の把手もよく磨かれて艷やかに輝いている。
 最初に共同区域を視察し、それから軽症患者、重症患者の順で見舞った。
 病室は、淡い蜂蜜色の壁と白い沙幕カーテンで統一されており、清潔感に満ちていた。
 戦争で重症を負った兵士のなかには、今も仰臥ぎょうがを余儀なくされている患者が少なくない。光希が彼等の肩や手に触れ、祈りを捧げると、涙を流す者は一人二人ではなかった。
 最奥区域には、看護経験を積んだ誓願修道士たちが多く配されているのだが、彼等もまた時折目頭を熱くさせていた。
 正式な訪問にいささかの不安を抱いていた光希だが、こんなにも喜んでくれる人々を見て、きて良かったと安堵しながら同時に深い感銘を覚えた。
 やがて見舞いを終えると、玄関に向かって歩きながら、そういえば、と光希は訊ねてみた。
「夢見が悪いと聞いたのですが、皆さん大丈夫ですか?」
 修道士たちは互いの顔をうかがい、一人が何かをいおうとしたが、婦長のカルメンが視線で制した。
「ご心配には及びませんよ。こうしてシャイターンと殿下にもお見えいただき、皆も励まされたことと思います」
 柔和な口調だが、その瞬間だけは、感情を封殺したように淡々として聴こえた。
(あれ、また・・だ)
 光希は彼女を見つめた。冬の湖水めいた鈍色にびいろの瞳に、確かに違和感が浮いていた。しかし、正体を見極めるにはあまりに一瞬のことで、驚くべき巧妙さでかき消えてしまった。
「いかがなさいましたか?」
 平常に戻った婦長は、不思議そうに小首を傾げた。
「いえ……なんでもありません」
 光希は愛想笑いを浮かべた。どうも今日は調子がよくないらしい――頸を振って視線を彷徨わせると、ちょうど扉の開いている病室が見えた。
 どこか寒々しい部屋だった。寝台の殆どは空いており、半身を起こして窓の向こうを眺めている男性患者がひとりだけいる。
「……彼はどなたですか?」
 光希が訊ねると、カルメンも病室を見た。
「あの方は、身元が判らないのです。よほど恐ろしい目にあったのか、緘黙かんもく状態に陥ってしまったようです。お気の毒に……」
 光希は病室に入ろうとして、しきいのところで立ち止まった。壁にかけられた鏡を見たせいだ。寝台の彼は窓のそとを見ている。それなのに、鏡のなかの男と目が遭ったのだ。
 人々は歓談しているが、光希の耳には聴こえていなかった。恐怖感のとりこになって、凍りついていた。
 ほんの数秒が永遠にも感じれた。ようやく指先がぴくりと動き、恐れをなして光希は後ずさりをした。
「光希?」
 ジュリアスが訝しげに訊ねた。
「どうかしましたか?」
 返事をしなければ。そう思っても、光希は恐怖のあまり口がきけなかった。ゆるく首を振りながら、視線は鏡に釘づけになっている。
 心臓はまるで烈火。尋常ではなく強い鼓動を打っていた。
 図らずも光希の顔を覗きこんだジュリアスは、どうしても鏡から剥がせなかった光希の視線を、強引に絶った。
 途端に全身に血が通いだし、光希はほっと息をつくことができた。
「大丈夫ですか?」
 落ち着かない様子を見て、ジュリアスは光希を廊下に連れだし、長椅子に座らせると、自分も隣に腰を落ち着けた。
「気分が悪いのですか?」
「今……」
 戸惑いながらジュリアスの方に目を向けると、彼の顔がすぐ傍にあった。大丈夫、ジュリアスがこんなに近くにいてくれる。光希は勇気をもらい、席を立つと、再び病室を覗きこんだ。
 なんら変哲のない鏡が在る。男の横顔と、窓や卓に置かれた瑠璃色の花瓶と橙の花といった部屋の様子が、ごく自然に映りこんでいる。
 安堵の息をついてから、訝しげにしているジュリアスを振り向いた。
「鏡の様子がおかしかったんだけど、僕の気のせいだったみたい」
「おかしかったとは?」
「奇妙に聞こえるかもしれないけれど……鏡に映りこんだ姿と、実際の彼の動きが、ちぐはぐに見えたんだ」
 光希は心の動揺を隠しかねて、あえぐようにいった。
 その頼りげなく怯えた様子を見て、ジュリアスは光希の腕をとり、腰を引き寄せた。睨むように鏡を見る。
「ルスタム、鏡を調べてください」
 ジュリアスが命じると、護衛神殿騎士のルスタムは鏡に近づいて、慎重に壁からとりはずした。
 彼が調べる様子を、修道士たちは戦々恐々と見守っている。
 何やら物々しい雰囲気になってしまい、光希は冷静さを取り戻すと同時に慌てた。
「お騒がせしてすみません、僕ならもう大丈夫です。きっと見間違えたんです」
 天候や場の雰囲気に感化されやすい自覚はある。祭壇前で白昼夢を見ることもあるから、きっと勘違いをしてしまったのだろう。
 と、光希は楽観的に決着したが、ジュリアスはまだ警戒を解かなかった。
「ここに鏡を設置したのは、誰の指示ですか?」
 ジュリアスが見回すと、修道士たちは色をなくして、慌てふためいた。一波乱起きそうな張り詰めた空気があたりを満たしたが、悠揚ゆうよう迫らぬ穏やかな声で、光希がその場を迫った。
「まあまあ、僕ならもう平気ですから、どうかお気になさらないでください」
 安心させるように笑みかけると、ジュリアスは幾らか警戒をほどいた。
 実際鏡に異変は見られなかったのだが、念のためにと光希は医師の診察を受けることになった。といっても、軍部にかかりつけの医者もいるので、ごく簡単な診察のみである。それも間もなく問題ないと診断を得ると、この日の視察は終了になった。
 見送りのため、玄関までついてきた修道士の一人が、最後に思いつめた顔で、実は……と切りだした。
「先の病室には、記憶喪失の男性の他にも患者がいたのです。そのなかのひとりが、先程施設を仰ぎ見ていた女性の御子息なのです」
「おやめなさい」
 婦長はたしなめたが、光希は先を促した。修道士は婦長と光希の顔を交互に見てから、おずおずと口を開いた。
「……あの部屋では特に色々と怪異が起きるものですから、他の患者は気味悪がって違う部屋に移りました。今では、記憶喪失の男性だけになってしまいました」
「怪異とは、どのような?」
 光希は訊ねた。
「幻聴や幻視、それから夢見にも苛まれているようでした。神殿祈祷師シャトーマニにきて頂く予定でしたが、なかなか都合がつかず……我々も途方にくれていたのですが、今日はこうして殿下にお越し頂いて、暗鬱の靄が晴れたように感じらます」
 光希とジュリアスは顔をみあわせた。
「貴方は平気ですか?」
 光希が訊ねると、修道士は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「お気遣いいただき光栄です。実は気力が落ちていたのですが、おふたりにお会いできて活力を頂きました。いらしてくださって、本当にありがとうございます」
「お礼をいうのは僕の方です。お忙しいなか丁寧に案内して頂いて、ありがとうございました」
 光希が笑みかけると、修道士たちは皆笑顔になった。婦長も感謝の眼差しで光希を見つめてきた。
「お優しい言葉に感謝いたします。殿下もどうぞご自愛くださいませ」
 光希は、婦長の言葉に頷きながら、楽観的な考えを捨てた。等閑視なおざりにすべきではないと霊感が囁いている。ジュリアスを見ると、彼も光希を見ていた。無言で頷きあう。
「あの病室にある鏡を、神殿に送ってください。よくないもの・・・・・・いているかもしれません」
 ジュリアスの指示に、婦長と修道士たちは神妙に頷いた。