アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 39 -

 六月八日。
 陽の射す執務室にて、万遺漏ばんいろうない報告書を眺めたアースレイヤ皇太子は、満足げに微笑してみせた。
「ありがとうございます。よく解決してくれましたね」
「ええ」
 ジュリアスは淡々と応じた。
「まさか百年前の断頭台が原因とは……なんと奇怪であることか。貴方の金剛石ダイアモンドの頭脳がなければ、迷宮入りするところでしたね」
「人海戦術に因るところが大きいですよ。憲兵たちはよく働いてくれました」
 とくにハイラートとサンジャルは、八面六臂はちめんろっぴの活躍をしてくれた。そうつけ加えると、アースレイヤも記憶に留めおくように頷いてみせた。
 ジュリアスが胸にとめた聖都総監徽章きしょうをはずそうとするのを見て、アースレイヤは軽口を叩いた。
「なんなら、そのままつけておいても構いませんよ」
「お返しいたします」
 冷静な顔と声で、ジュリアスは徽章きしょうを紫檀の机に置いた。
「役に立つかもしれませんよ?」
「結構です」
 アースレイヤは残念そうに徽章きしょうを預かると、双竜紋章の象嵌された小箱にしまった。
「これを機に、軍用保管庫の過去記録に疎漏そろうがないか、今一度調べ直してみてはいかがです?」
 ジュリアスが指摘すると、アースレイヤも真面目な顔で頷いた。
「そうですねぇ……第二の断頭台が潜んでいたら、堪ったものではありませんからね。調べ直すよう指示しましょう」
「次は引き受けませんよ」
 釘をさすジュリアスに、ふふふ、とアースレイヤはちょっと謎めいた微笑を返した。
「ともかく無事……というには差し支えありますが、文化展の前に片付けることができて安心しました。感謝していますよ」
「ええ。葬斂そうれんには?」
「もちろん参列します。犠牲者へのせめてもの手向けに」
 そういってアースレイヤは報告書に署名をして、表紙を閉じた。

 六月十日。
 この日は冷たい風が吹いており、大神殿の弔鐘ちょうしょうが、悲哀を帯びた曇り空に鳴り響いた。
 神殿の祈りの間には大勢が座していて、頭上から垂れさがる幾つもの真鍮と金箔と青銅の円環照明の、無数の蝋燭の琥珀の光に照らされていた。
 最前列には、大神官と皇族のほかに、ジュリアスと光希もいる。
 壇上は白い素馨ジャスミンで飾られ、中央に水色虹彩に輝く六角柱が配置されている。これは、呪われたくろがねの犠牲者の墓標として、のちほど大神殿の聖域に遺品と共に埋葬されるものだ。
 せきとして鎮まり返っていた弔いと祈りの場に、物哀しい鍵盤演奏が流れ、金管で増幅された音が、吹き抜けの天蓋に反響する。
 演奏がやむとまたしんとなり、ならの数珠を胸にさげた神官が、揺り香炉を手に主身廊を歩いてきた。
 彼らは、音楽的な声で祈祷を読みあげ、粛々と捧香と捧花を行った。
 それから幾人かが弔辞を読んだ。ハイラートもそのひとりで、彼は仲間の業績と献身を、その勇敢さを讃えた。

“隊長!”

 廃鉄置場の崩落が起きた時、腕を引いて助けてくれた声が、今も耳に遺っている。あれはピルヨムの声だった。
「……第十三支部の素晴らしい仲間のひとりは、死して尚、私に貸してくれたのです。ピルヨムです。負傷して動けない私を、鋼鉄の下敷きから救ってくれました。
 不甲斐ない私を心配して、なかなか安寧の眠りに就くつけなかったのでしょう。皆の協力のおかげで、一連の事件を解決することができました。もうどんな憂いもなく、ただ安らかに眠ってほしい」
 声が震えそうになり、一度言葉を切る。
 胸が熱い。本当に残念でならなかった。己は助けてやれなかったのに、ピルヨムは最後までハイラートを救ってくれた。彼のためにできることがあるとすれば、残された家族の力になってやることだろう。
「……勇敢な我が仲間に、千の感謝と祈りを捧げる。もう会えないのだと嘆くよりも、この言葉で送りたい。“いつかまた”」
 呼吸を整えてから、ハイラートは最後の言葉を紡いだ。
 静寂しじまのなか、小さな嘆声が響いた。涙をぬぐう仕草をする憲兵隊は、視界に映るだけでも、一人や二人ではなかった。特に第十三支部の仲間たちは顔を俯けている。サンジャルも身を震わせていた。
 壇上をおりると、すれ違いにサリヴァンが励ますように肩に手をおいた。静かな視線が行き交う。
「願わくば聖霊に道を示し給え、我が神よ……我らも共に魂の安寧を祈りましょう」
 儀式をしめくくるサリヴァンの言葉に、沈黙が流れた。
 死への道が、かくも甘く優しく、安らぎに満ちたものであることを願いつつ、皆が静かに瞑想を捧げた。
 しばらく時が止まっていた。
 やがて神官がしゃん、しゃん、と鈴を鳴らして合図すると、神殿騎士たちは巨大な六角柱の水晶に絹をかけて運びだし、その後ろに会葬者は列をなした。
 大神殿敷地の聖域に移動すると、あらかじめ用意されていた墓穴に水晶が配置され、各々死者の冥福を祈って、ささやかな供物を供えた。
 参列者のなかには、工場や療養所の人間、裁判で拘束されていたアーナトラ、それからピルヨムの母サミーラと、その娘のサンジョラもいた。
 サミーラは面紗ヴェールに慎み深く顔をかくしたまま、小さな真珠を捧げた。
 葬儀が終了しても、最後の別れを惜しみ、人々はまだその場に残っていた。
 しめやかな空気が漂うなか、白い聖衣に身を包んだ聖人は、遺族の手や肩に触れて言葉をかけている。その傍らに、愛情深い獅子のように寄り添う金髪の青年の姿に、ハイラートは静かな衝撃を受けていた。
(話には聞いていたが、あんなに優しい表情を浮かべるのか……)
 冷然と指揮を執る普段の彼とは、霄壌しょうじょうの差がある。
 遥かなる星の僥倖ぎょうこうで結ばれたふたりだ。その絆は金剛よりもつよく、ほかのだれとも築くことはできないのだろうと思えた。
 興味深そうに見ているのは、ハイラートだけではない。サンジャルもあからさまに凝視していた。いささかぶしつけだったのか、人形めいた麗貌の筆頭護衛騎士に睨まれてたじろいでいる。
 相変わらずの部下に声をかけにいこうとすると、ちょうどサミーラとサンジョラが目の前にやってきた。
「ハイラート様」
 ふたりは丁寧にお辞儀をした。
「サミーラ……ピルヨムのことは本当に残念だよ」
 ハイラートが囁くと、サミーラは半分瞑目してから、つと視線をあげた。
「あの子のために御尽力頂き、ありがとうございました。皆さまの御力で、あの子の魂は救われました」
「救われたのは私の方だ。朝夕とかかさず、彼の魂の安らぎを祈るよ」
 サミーラは淡い微笑を浮かべて頷いた。
「サミーラさん」
 ふいに声をかけられ、ハイラートとサミーラは、殆ど同時に振り向いた。
 いと高貴な聖人がそこにいた。
 銀糸の縫い取りのある白い衣に身を包み、胸に真珠の数珠を垂らしている。白で統一された装いは、黒瑪瑙めのうのような髪と瞳を引き立たせていた。
 近くで見ると思った以上に小柄だ。けれども、大きな燭台のように暖かな光を纏っている。彼は、彼女の手を優しくとると囁いた。
「息子さんが、伝えてほしいそうです」
 その言葉に、サミーラもサンジョラも弾かれたように顔をあげた。

“ありがとう”

 小さな囁きが聞こえた。頬を撫でる涼風の向こうに、莞爾かんじと笑うピルヨムの幻が見えた。
 あまりにも一瞬のことで、気のせいかとも思われたが、皆が胸を打たれた様子で空を仰ぎ見ていた。
 穏やかな沈黙のあと、サミーラは深く深く息を吸いこんだ。感情の潮が押し寄せてきたのだろう、顎が震える。銀色のまつ毛に涙がきらめいた。
「彼の魂の安らぎと、彼のご家族が穏やかに過ごせますよう、お祈りいたします」
 優しい声の、思い遣りの言葉に、サミーラとサンジョラの瞳から涙が溢れでた。
「嗚呼、御使いさま。ありがとうございます……っ」
 サミーラは声を詰まらせると、最上級の敬意を示した。白い御手をとり、己の額に恭しく押し当てる。ふたたび顔をあげた時、彼女の顔には深い感銘が顕れていた。
 奇跡のような光景を、ハイラートもサンジャルも、心からの嘆賞をもって見守っていた。
 ずっと、どうにもならぬ悔悟かいごに浸されていた。どうしてピルヨムを救えなかったのか――間にあわなかったのか――苦しい気持ちから抜けだせずにいた。
 けれども、ピルヨムは笑っていた。笑ってくれた。
 今この瞬間、彼の魂は神々の世界アルディーヴァランに召されたのだと、あらゆる苦痛から解き放たれて自由になったのだと、そう思えた。
 頭上には青い星――神々が見おろしている。
 生と死は途切れることのない円環だ。生きし者がそのせいをまっとうして逝きしとき、星々の彼方で、もう一度彼とあえるだろう。