アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 40 -

 期号アム・ダムール四五六年六月十四日。
 大雨季もたけなわ、雲一欠片ない澄明ちょうめい蒼空そうくうの観兵式日和ひよりである。
 ふりそそぐ陽射しは、豊かなアール河を燦然さんぜんと煌めかせ、架かる橋で待ちわびる人々を快活にしていた。
 蒼天に象牙の角笛が響きわたる。その喨喨りょうりょうたる音色は、軍靴や観衆の歓呼をいやましに高めるかのように聴こえた。
 やがて壮麗な襞を見せている絹の長旗が翻り、騎馬隊に先導されて、イスハーク皇家の馬車が顕れた。
 白い一角馬のせる金箔を張った壮麗な二輪車のうえ、麗しの皇太子夫妻が非の打ち所のない微笑を浮かべて手を振ると、観衆は熱狂的な喝采かっさいを叫んだ。
 琥珀色の繻子を纏い、白銀髪に素馨ジャスミンだけを飾るリビライラ妃は、楚々として美しく、間もなく成人する息子がいるとは思えぬほど、薔薇の蕾のように瑞々しかった。
 絵物語に登場するような妃と皇太子は、その場に居合わせた全員をとりこにしていた。
 あちこちから賛嘆のため息を聞こえてくる。あまりにも美しい二人の姿に、魂を抜かれたように呆然となる者も少なくなかった。
 興奮は醒めやらぬまま、光希とジュリアスを乗せた騎獣が続く。
 軍の礼装に身を包んだジュリアスは、洗練の極みだった。
 豪華な肩賞と金房に、宝石のちりばめられた徽章きしょうを胸に留めて一段と凛々しく、風になびく金髪は天使の頭髪のようで、光希から贈られた銀細工を飾る姿は、非の打ち所がない貴公子そのものだ。
 光希も襞飾りのついた豪華な白い衣装で、髪に銀の宝冠、手首にも揃いの宝石をつけて一段と着飾った姿である。
 にこやかに光希が手をふり、ジュリアスが涼しげな微笑を浮かべると、観衆からワァッと歓声やら嬌声があがった。
 無数の鈴がふりそそぐような天樂の音が奏でられるなか、幾千の騎兵、歩兵の隊伍たいごはそれは壮観だった。四脚騎竜隊、騎馬隊と続き、歩兵隊も礼装姿で見栄えがする。
 華々しい行軍はしばらく続くが、光希とジュリアスは予定通り、途中で西都文化展に向かった。
 ここでも大勢の人が、ふたりの到着を今か今かと待っていた。
 やがて馬車が顕れると、拍手喝采。驚きと好奇心と歓喜に目を輝かせながら、馬車からおりる光希たちを見守った。
 祝福の花籠をさげた幼い子供がふたり、正面玄関前で待っていた。
 紅潮した顔に瞳をきらきらさせて、光希とジュリアスを仰ぎ見ると、
「ようこそおいでくださいました。シャイターン、そして青い星の御使様。わたしたちは、おふたりのご訪問を心より歓迎いたします」
 にっこりと満面の、何のこだわりもない笑顔を浮かべていった。
 心温まる歓迎のあいさつに、光希は満面の笑みで、ジュリアスも優しい眼差しで応えた。
 文化展初日、会場は大盛況ぶりを見せていた。
 扈従こじゅうをつれた貴顕きけんや伝統芸能に一家言持った職人、またあらゆる労働階級の人々が大勢集まった。
 会場のバーディパル博物館は厳かな石の巨大建築で、アーナトラの設計によるものである。
 真紅の絨毯を敷いた大理石の階段をのぼると、屋内は雅やかな雰囲気で、碧と金の穹窿天蓋ヴォールトから、青銅の大燭台が吊るされている。
 白を貴重とした壁は陶のタイル敷で、厚く漆喰を塗った格天井の格間ごうま一つ一つに、匂いたちそうな素馨ジャスミンや菫が金箔から浮きあがっている。
 壁龕へきがんには、陶器や工芸品が美しく陳列されていて、白、赤、青、緑と様々な色味の釉薬ゆうやくが照明に輝いて美しい。
 著名作家だけでなく、新進作家の作品も多い。いずれも光焔万丈こうえんばんじょう、美と魅惑と神秘をもって、人々の目を楽しませている。
 そして、大広間の壇にはクロガネ隊の作品が飾られていた。
 三十の燭台に、黄金きん色の火が灯されて、琥珀を溶かしたような光に包まれている。
 光希とジュリアスはひとつずつ眺めいていき、光希の作品の前で足をとめた。
 真鍮の燭台に、猫や鳥の陶人形を飾ったもので、賑やかで楽しい雰囲気を醸している。
「陶器の人形も、光希が作ったのですか?」
 興味深そうにジュリアスが訊ねた。
「そうだよ。かわいいでしょ」
「はい。見た目も楽しいですね」
 古典的で優美な燭台に、陶人形たちが味を添えている。あちこちに梟や孔雀がとまっていて、腕を組んで支柱にもたれている兎や、林檎の山で寝ている猫がいたりと、世界観が面白い。
「ありがとう。本当はもっと遊びたかったんだけど、クロガネ隊の展示作品だし、自重したんだ」
「私はとても好きですよ」
「どうもありがとう」
 光希はにっこりした。
「展示を終えたら、どうするのですか?」
「特に決めてない。アルシャッド先輩は、知人にあげるっていってたかな」
「では光希の燭台は、クロッカス邸の寝室に飾りましょうか」
「えっ、これ寝室に置くの? 大丈夫?」
 真顔で訊く光希に、ジュリアスは苦笑した。
「自分でいいますか」
「いやぁ、だって、この燭台が調和する部屋なんて……あ! そうだ、アーナトラさんの骨董棚なら溶けこめるかもしれない」
 光希は閃きを目に灯していった。
「彼にあげるくらいなら、私にください。書斎に飾りますから」
「えっ、これを書斎に?」
「はい」
「もっと落ち着いた感じの作ろうか?」
「いいえ、これがいいのです。楽しげな雰囲気ですし……この数か月の記憶と共に在りますから」
「……そうだね。判った」
 光希はほほえんだ。ジュリアスは身を屈めると、ちゅっと髪にキスをした。
「ありがとう」
「どういたしまして。ジュリの秩序正しい書斎に、少しくらいお茶目な要素も必要だと思うしね」
 ジュリアスが微笑すると、光希はもったいつけたようにこう続けた。
「完全無比の様式美より、不完全なかたちにこそ、賞翫しょうがんすべき美が秘されているのだよ」
 学者然とした口調に、ジュリアスは小さく声にだして笑った。
「難しい言葉を覚えましたね」
「アーナトラさんの言葉だよ。彼の造園集にそう書いてある」
 そのとき、灰青の衣装をまとった少年聖歌隊がやってきた。
 光希はおしゃべりをやめて、期待のこもった視線を彼らに送った。
 間もなく、蝋燭の明かりをもらい受けながら、少年たちは高らかに歌い始めた。天から降ってくるような、澄んだ歌声に耳を澄ませながら、この数か月に思いを馳せた。
 ……過ぎてみれば、嵐のような日々だった。
 失踪怪異も、捜査するジュリアスのことも心配だったし、己も躰のことや悪夢に随分と苦しめられた。心の芯まで不安で震えたことを、今も鮮烈に覚えている。
 だが、辛い思いをしたのは光希だけでない。ジュリアスにもたくさん心配をかけたし、捜査班にも、療養所にも、他にも亡くなった人は大勢いる。残された人も、皆大変な思いをして、どうにかして乗りこえようとしている。
 勤勉に働き、日常を重ねて、静かに己を立て直していく……時にこうした場を通じて、世界の美しさや愛おしさを思いだすのだろう。
 完全無比の様式美より、不完全なかたちに、賞翫しょうがんすべき美が秘されている――せいにも通ずる極意かもしれない。
 忍従の日々があるからこそ、今この瞬間が愛おしく、大切な人と過ごす時間を大切にしようと思えるのだ。
 顔をあげてジュリアスを見つめると、慈愛に満ちた青い瞳が見つめ返してきた。
 優しい、深い密やかな感動に包まれながら、光希は歌声に耳を澄ませた。

 神の星は青く
 四方よもを照らし
 空にまかれた星
 はたとなり
 無垢なる平和を織りて

 金色のアッサラームよ
 星懸かる至聖の都よ
 古き砂漠の聖域よ
 都邑とゆうに栄光あれ
 アッサラームに栄光あれセヴィーラ・アッサラーム

 ほがい歌えよ
 ほがい歌えよ
 ほがい歌えよ