アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 38 -

 六月六日。
 光希とジュリアスは、アーナトラの見舞いをかねて、ふたたび王立ルイゼム療養所を訪れた。
 空はからりと晴れ渡り、紺碧が眩しい。
 茶褐色の花崗岩を積まれた巨大建造物は、揺るぎない佇まいですっくと立ち、朝日を浴びて、白金色に輝いていた。
 はすの浮かぶ鏡のような池に、青空とその威容が映りこむ様は一枚の絵のような美しさで、光希は感動を覚えると同時に、密かに安堵した。
 今日は霊感も働かない。先日のように悪寒を感じることはなく、空と同じく心は晴れやかに澄みわたっている。
 修道士たちも、嬉しそうに頬を染めて、晴れやかな表情でふたりを出迎えてくれた。
「ようこそお越しくださいました」
 馴染みの顔ぶれを見て、光希は親しみのこもった笑みを浮かべた。
「お久ぶりです、皆さん。もう体調は大丈夫ですか?」
「はい! ありがとうございます。何もかも、おふたりのおかげでございます」
 しかし、嬉しそうに話す彼等のなかに、看護婦長のカルメンはいない。
 残念ながら、彼女は呪われたくろがねの犠牲になってしまった。この療養所では、ほかにも多くのひとが被害にあっている。そのなかには、ピルヨムやカルメンのように、もう帰らぬひとも少なくない。
 悲しみに襲われても、療養所は機能している。
 どの部屋も清掃が行き届いていて、清爽せいそうで、修道士たちは苦闘しながら、患者に尽くし、人々の癒しの場所であり続けている。
 ただ玄関や窓辺には、故人を偲ぶ花や小物がたくさん飾られていて、清めの香が白煙を昇らせていた。
 廊下を歩きながら、光希もカルメンのことを思いだしていた。彼女と言葉をかわした時に、異変に気がついていたのに、なにもしてあげられなかった。光希が悪夢に苛まれている間に、もっと深刻な恐怖にさらされていたひとがいたのだ。
 彼女の寝室を見せてもらったとき、寂寥感はいっそう強まった。
 部屋は祓い清められていて、かすかに魔除けの香が残っていた。清貧を良しとする修道女らしく、部屋に私物らしきものは殆どなく、きちんと整理整頓されていた。
 主を失った部屋に、清らかな琥珀の陽が射していて、その光のなかで、光希は静かに彼女の魂の安らぎを願った。
 寝室をでたあと、しんみりした気持ちで、今度はアーナトラの病室に向かった。悪しきくろがねの呪いと裁判で心労の祟ったアーナトラは、この療養所で治療を受けているのだ。
 覇気のない足取りで歩いていた光希は、窓から流れてきた風に頬を撫でられ、俯けていた顔をあげた。
 陽の射す明るい廊下の先に、アーナトラの病室が見える。
 扉は開いていて、窓の向こうを眺めている彼の横顔を見たら、ある考えが閃いた。
「……ねぇ、ジュリ」
「はい?」
 光希は悪戯っぽい光を瞳に灯して、ジュリアスを仰ぎ見た。
「これに花をもたせて、ジュリの力でアーナトラのところまで、動かせるかな?」
 これとは、アーナトラへの手土産に、光希が作った、四肢と翼の関節を動かせる、精巧な作りのくろがねの竜である。花は、クロッカス邸の庭のアカシアが花をつけていたので、ここへくる前に枝をひとつ頂戴してきていた。
「構いませんよ」
 ジュリアスはくすっと微笑した。
 光希は忍び足で病室に近づいていくと、扉の影に隠れて、静かに、と皆に目配せを送った。
 つぎの瞬間、くろがねの飛竜は翼を広げて宙に浮きあがると、あたかも意思を宿しているかのように、小さな竜の爪で、明るい檸檬色の花を咲かせたアカシアの枝をそっと掴んだ。
(おぉっ)
 思わず光希は、感嘆の声をあげそうになった。傍で見ていた修道士たちや、護衛騎士たちも驚きに目を瞠っている。
 畏怖される超常の力を、こんな風に使うのは、ジュリアスにとっても始めてのことであった。
 破壊や裁きの為ではなく、ただ玩具を動かすために――これほど無力で、穏やかで、平和な使い方があるだろうか?
 誰もが胸に暖かな驚きと、ある種の期待をこめて、宙に浮いた竜が羽を動かしながら、病室へ入っていく様子を見守った。
 間もなくアーナトラの驚きの声が聞こえると、光希は会心の笑みを浮かべた。そっとなかの様子を伺うと、アーナトラは唖然と、宙に浮いた竜を見ていた。
「えっ、私に?」
 と、竜に向かって真面目に問いかけている。
 光希は咄嗟に口を手で押さえた。笑うのを堪えていると、ジュリアスが唇に人差し指をあてた。
(判ってる)
 光希も目で合図する。
 アーナトラが、恐る恐るといった風に手を伸ばして花を受け取ると、
「こんにちは!」
 光希は元気よく飛びだした。その後ろから、ジュリアス、ルスタムにローゼンアージュ、修道士たちが姿を現した。
「おや、これは……」
 驚きのあまり固まっているアーナトラを見て、皆が笑った。
「お久しぶりです、アーナトラさん」
 光希はアーナトラの傍に寄り、静かにその顔を見つめた。やはり心身に堪えたのだろう。以前に比べて少し痩せたようだ。
「ありがとうございます、殿下。いやぁ、これは驚いた……ありがとうございます……」
 感激した様子でアーナトラは檸檬色の花を見つめると、慈しむように瞳を細めた。
 役目を終えた竜は、羽を畳んで、アーナトラの枕元で行儀よく主を見あげている。光希も、彼に課せられた困難と苦闘の日々を思い、深い同情の念をもって彼を見つめた。
「……本当に大変でしたね。騒動の一端は僕にもあるのに、見舞いにくるのが遅くなってしまい、すみませんでした」
 いいえ、とアーナトラはきっぱり否定した。
「謝罪するのは私の方です。あの日、お招きしたばかりに大変なご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ありませんでした」
 理性的な表情だが、沈痛であり物憂げで、光希は胸が痛むのを感じた。
「謝らないでください。やっぱり、僕もアーナトラさんも悪くありませんよ。どうしようもない不運に見舞われたんです」
「殿下……」
「だけどこうしてまた、互いの無事な姿を見ることができたのですから、そのことに感謝しましょう」
 光希が笑みかけると、アーナトラも力なくほほえんだ。
「……ええ、そうですね。ありがとうございます、殿下」
 一時は、恐怖を煽られた市民により、彼の工房には石が投げられ、高い壁には“悪魔に攫われろ”といった酷い言葉が家畜の血で書かれもした。
 それらはもう、綺麗に清掃されている。
 聖都連続失踪捜査班の働きにより、アーナトラの無罪は認められ、一連の失踪怪異について国から正式な発布もされた。間もなく被害者を悼む葬斂そうれんが神殿で行われる。
 人々は、アーナトラに対する疑懼ぎくを溶くと同時に、深い同情と謝意を胸に抱いた。多くの支援者が集まり、無償で工房を修復し、汚れを落としたのである。
 最悪な時は過ぎ去ったのだ。
「……ゆっくり元気になって、またアーナトラさんの作品を見せてください」
 光希が穏やかに告げると、アーナトラは顔をあげた。貪るように見つめられて、光希は照れながら、こうつけ加えた。
「ご存じかもしれませんが、僕は、あなたの作品がとても好きなんです」
 光希が照れたように告げると、アーナトラの淡褐色の瞳がみるみる間に潤んで、ぽろっと涙がこぼれ落ちた。本人も驚いた様子で、手で目元をぬぐっている。
「ありがとうございます……っ」
 もらい泣きしそうになり、光希は慌てて瞬きを繰り返した。励ましの気持ちをこめて、少し痩せたアーナトラの肩にそっと手を置いた。
「大丈夫、ゆっくりでいいんです」
 アーナトラは、嗚咽をかみ殺して静かに頷く。
 世間の卑俗さや、人間の陋劣ろうれつさに心を痛めても、自分の作ったものがよろこばれる純朴な喜び、苦労はむくわれるのだと教えてくれるのも同じ人だ。
 彼は生涯の職人だから、必ずまた工房に立てる日がやってくるだろう。そう光希は確信していた。