アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 36 -

 盛りあがった屑鉄山に近づくにつれて、磁場が歪み、辺りは一面の暗闇に包まれた。
 ザザ――ッ!
 屑鉄の山から、波濤はとうのように鋼が湧きあがり、一個の生命体のように姿をまとった。
 怪異暗鬱なる蠢く鉄の塊。まさしく魔物。頭部のような先端部に亀裂が走り、にぃっと嗜虐的な笑みを浮かべたような錯覚をきたす。
 鋼鉄でよろわれていながら、殺人的なはやさで迫りくる。
 破壊と死をもたらす必殺の一撃が、間一髪のところをかすめ過ぎた。
 幾筋かの金髪が宙を舞う。雷光のように翻ったジュリアスは、彼我ひがの距離を詰めることでかわしたのだ。
 すると狡猾にも敵は、ジュリアスの背後の陣営を狙い、屑鉄を弾き飛ばした。
「盾を構えよッ!」
 ジュリアスが警句を発した一刹那いちせつな、飛来したくろがねに憲兵が吹き飛ばされた。
「かはッ」
「ぐうぅッ!」
 鎧武装していてなお、四肢を吹き飛ばされ、或いは内臓損傷により致命傷を負った者が倒れた。
 黒い死の演舞だ。
 無慈悲な鋼鉄の嵐に翻弄されて、精鋭憲兵たちが次々に吹き飛ばされていく。
 しかし彼らは勇敢だった。前衛が倒れれば、別の者がすぐさま盾を構えて前にでる。連祷を捧げる神官の鉄壁であり続けた。
「後ろはお任せください!」
 ナディアの言葉にジュリアスは頷き、相対峙する敵に集中した。
 敵も追撃の手を緩めない。
 およそ悪魔めいた怪物の腕が伸びる。しなやかな鞭のようでいて、くろがねつよさをあわせもつ必殺の攻撃だ。
 その動きを見て、ジュリアスは引くのではなく、むしろ前に進みでた。
 無秩序にうねる屑鉄に飛びこんでいく行為は、傍目には絶望的無謀に映ったが、ジュリアスには勝機が見えていた。
 途方もない鋼鉄の魔物と錯覚するが、悪疫あくえきにとりかれたくろがねは恐らく一つだ。
 意思統一されていない限り、このように腕を自在に動かせるものではない。それこそ有象無象の悪鬼集合体では難しいだろう。
 闇の叡智を司る本体・・があるはず。
 それはうねる鉄屑の向こう――守ろうとする対象・・・・・・・・こそがかれたくろがねに違いない。
 その推論は正鵠せいこくを射ていた。
 もジュリアスを強敵とみなし、卑劣で凄絶な攻撃をしかけてきた。弧を描くように旋回するくろがねが、ジュリアスを呑みこもうとする。

 オォォォォォオオオォォォォォォォォッ

 恐ろしい地響きのように、或いは暗黒冥府の底から響く哄笑こうしょうは、時ならぬこだまとなって響きわたった。
 並の剣士なら足がすくむところだが、ジュリアスは恐れずに前に進みでた。
「はッ!」
 裂帛れっぱくの気合と共に、らいくろがねの集合体を破壊しながら、敵の心臓へと近づいていく。
 ついに黒い波濤はとうを突破した。
 魔物の――禍々しい妖気を放つくろがねが、わだかま真闇まやみのなか一つ目のようにかくと燃えている。
(これを壊せば終わる)
 脚をふみだそうとしたジュリアスの碧眼と、邪悪の精髄せいずいがまっすぐにまみえた。
 真闇まやみ
 闇を見つめる時、闇もまた己を見つめるのだ。
 躰の自由がきかなくなり、言葉を発することもできない。動けないジュリアスを前にしても、用心深い敵は魔の手を伸ばそうとせず、或いは暗い愉悦に浸っているのか、ただ静かに獲物を眺めているようだった。
 邪悪な精神感応だ。ジュリアスの心の奥処おくかに眠る、仄暗い欲望に火を灯そうとする。

これ・・を放置すれば……静観していれば……危険から守るという大義名分で、光希を永久に公宮に留めおける……”

(――違う。かれるな)
 不可知の拘束に戒められ、道徳的退廃の兆候にありながら、ジュリアスは冷静であろうとした。目を閉じて、心を鎮めようとする。
 だが、敵も狡猾にジュリアスの心を侵そうとする。

“崇敬から遠ざければ、ジュリアスだけの光希でいてくれる……”

 邪悪な思考を止めようとしても、どこか冷静に納得している己がいることも確かだった。
 光希の歩く姿を見るだけで、人は崇敬の念を抱く。
 それは、シャイターンの依代であるジュリアスが、彼を青い星の御使いとして敬うばかりではない。光希の持つ清廉さ、柔らかな空気、包みこむような優しさに自然と頭が垂れるのだ。
 彼を誇らしく思う。そして同じくらい、歯痒いと思う。
 いっそ彼を閉じこめてしまえば、この渇望は癒やされるのだろうか?
 もはや悪魔の誘惑ではなく、ジュリアスの真の願望のように思えてくる。
 なぜなら――命より大切な存在を日毎夜毎ひごとよごと慈しむのは、決して清廉な愛ばかりではないから。
 ねやへの羞恥が強い光希に、幾度無理を強いたことだろう?
 観照も冒涜だとうそぶきながら、世俗のけがれを許さぬ躰を貪るのは、愛してやまない崇敬の対象を、ジュリアスだけが独占しているのだと確認するのは、このうえなく甘美なひとときで、光希を追い詰めてしまうと判っていても、どうしても止められない時がある。無垢を穢す歓び、仄暗い甘美な背徳感を味わうのだ。
 これは邪悪な愛なのだろうか?
 人は無謬むびゅうの信仰心でアッサラームを聖域だと崇める。
 ジュリアスとて、義務、自制、神への服従、勤勉、アッサラームの大義を理解し、自らの指針としている。神剣闘士アンカラクスとしての任務遂行に、この身を捧げてきた。だが信仰の前提にあるのは、アッサラームではない。誤謬ごびゅうなのだ。すべての中心にあるのは、光希なのだから。
 彼のためにアッサラームを護っているにすぎない。光希こそが不可侵の聖域であり、そのためにいにしえの聖都を犠牲いけにえに捧げたとしても、光希がほしい。他には何もいらない。
(――そうではない。それでは光希が壊れてしまう)
 否定することが難しい。
 盲目と指摘されようが、ジュリアスにとっては燦然さんぜんたる真理であり信念だから。
 天地星辰せいしんの悠久のように、宇宙を見るがごとく、人々は光希に対して広大無辺の崇拝を抱かなくてはならない。人の身で神聖の極に近づいてはいけないのだ――ジュリアス以外は。
 本心をいえば、光希に向けられる邪気のない一瞥いちべつすらも遮りたい。誰の目にも触れさせず、己の手のなかにいてほしい。彼との間に、他の誰も介入させたくない。
(――違う! 光希を追い詰めたいわけではないッ)
 よこしまな思考を止められない。
 これこそがの意図であると判っているのに、自らの指針――善と悪が曖昧模糊あいまいもこに溶ける。
 涜神とくしん的ともいえる飢渇きかつの焔に呑みこまれかけた時、

“ジュリ……”

 光希の声が聞こえた。
 自分を想って祈ってくれている――そう意識した瞬間、窒息しそうな暗闇に一条の光が射しこむように感じられた。
 一望てのない闇が晴れていくように、冷たい暗鬱あんうつが魂から離れていき、心の平衡が戻ると共に、うちから暖かくなって全身に血が通いだす。
 遠く離れた場所にいる光希を、驚くほど近くに感じられる。彼のためならどんなことでもできるという思いが、ジュリアスの心のなかで、すべてを圧する強い感情となった。
(われわが光をこいねがう。われわが霊泉の源、光希の名に誓って討ち滅ぼす)
 嘘偽りのない強い信念を心で唱えると、不思議と全身に力がみなぎった。
 此の世に二つとない、額の宝石が熱を帯びる。凍りついた青い焔のきらめきがいや増して、青のなかの青を思わせる双瞳に、不屈の闘志が沸騰した。
 裂帛れっぱくの叫びで呪縛を断ち切った瞬間、びっしりとまとわりついていた暗闇のとばりがかき消えた。
「総大将ッ!」
 背後で僚友が叫んだ。
 敵が標的を変えるのを察知したジュリアスは、勢いよく背後を振り向いた。警句を発しようとしたが、機転を利かしたサリヴァンとナディアが正円の鏡をさっと持ちあげた。
 それはごく普通の鏡に見えるが、大神殿の祭壇に祀られている、青銅の神鏡である。
 百年も昔に、熟練の鋳物いもの師が忍従の日々で仕上げたもので、巨大な焙烙ほうろくで焼きあげた鋳型いがたに、特別な温度、銅と錫の配合で流し、聖水で丁寧に丁寧に研ぎをかけ、百年間祭壇に祀られていた神妙なる鏡である。
 時を経てなお一遍の曇りもなく凛と光り輝く鏡に、魔性が映りこんだ。
「オォォォォォオオオォォォォォォォォッ!!」
 本性・・を映しだされた魔物は、今度は己が身動きを封じられ、破鐘われがねのような憤怒ふんぬの咆哮を迸らせた。
「お早くッ! 長くはもちませぬ!」
 サリヴァンが叫んだ。
 神懸かむがかりとなったジュリアスは、くろがねをも溶かす青い焔を剣におろすと、敵に向かって走りだした。
 横凪ぎの一閃――邪悪な心臓を真っ二つに切り裂き溶かした。
「オオォォォォォォ……ッ」
 魂切たまぎる最期の断末魔を迸らせ、苦悶するかのようにうねり、やがて錆びた屑鉄に戻った。
 を失った黒い波濤はとうは、魔物めいた姿を維持することも叶わず、耳を弄する音と共に崩れ落ちていく。
 頭上から屑鉄が落ちてきた時、ハイラートはとっさに避けることができなかった。心の臓がすぅっと冷えて、己の死を予期した瞬間、
「隊長!」
 耳元で誰か・・が叫んだ。
 強い力で腕を引かれてその場から動かされた一刹那いちせつな、目の前に鋼鉄が落ちてきた。ガラガラッと轟音を響かせ、錆と鉄砂のいりまじった塵埃じんあいが舞いあがった。
 危なかった――あとほんの少し遅ければ、圧死していた。
 窮地を救ってくれた相手の顔を見ようと振り向いたが、そこには誰もいなかった。
「ハイラート隊長!」
 正面を向くと、赤茶けた塵埃じんあいの向こうから、サンジャルを筆頭に走ってくる仲間の姿が見えた。
「お怪我を!?」
 茫然とした様子のハイラートを見て、サンジャルはその場に片膝をついた。
「無事だ。ただ脚が動かない」
 我に返ったハイラートは、己の脚頸を指差した。折れてはいないが捻挫したらしく、少しでも動かそうものなら激痛が走る。サンジャルたちはハイラートの肩を支えて助け起こした。
「生きている者は返事をしろ!」
 聴覚を喪失した耳を押さえながら、ハイラートが叫んだ。殆ど何も聴こえなかったが、立ちあがる憲兵の姿がまばらに見える。
 歩廊からしたを覗き見れば、燎原りょうげんのごとく燃えていた。
 まるで地獄の火葬だ。
 すべてを滅ぼす青い燔火はんかのなか、神威かむいを宿したシャイターンが悠々渡ってくる。
 その姿は異妖であり威容で、神々しく、畏怖するほどに美しく、人智を超えており、ハイラートを含めた憲兵はおいそれと近づくことを躊躇った。
 しかし、ナディアとヤシュムだけは、迷わずに駆け寄っていった。
 彼等が互いを認めあったとき、燎原りょうげんの焔は、ふっとかき消えた。
「お怪我はありませんか?」
 ナディアの言葉に、ジュリアスは金髪を揺らして頷いた。
「問題ありません。そちらは?」
 爛とかがやく青い双眸が、ハイラートに問いかけた。
 ハイラートは震えそうになる四肢を叱咤して、ジュリアスの前に立った。
「何人か部下がやられました。生きている者を救出します」
 苦々しさを隠しきれない声でいった。
 血濡れた剣の惨戦ではないが、汚れた魂を祓う凄惨せいさんを極めた死闘に違いなかった。