アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 34 -

 六月三日。
 諸々の要件が片づき、光希の軟禁生活もようやく終わりを告げた。
 今朝は久しぶりに典礼儀式に参列し、それからクロガネ隊の工房に向かう予定だ。実にひと月半ぶりの勤務である。
 大雨季の終わりをずっとクロッカス邸で懶惰らんだな猫のように過ごしていたが、気がつけばもう大乾季が迫りつつある。
 晴天。日差しが強くなってきた。
 明るい陽のした、椰子やし檳榔びんろう樹の並ぶ神殿広場を進み、幅広の階段を一段一段のぼっていく。
 朝の神殿は気持ちがいい。
 石のひんやりした空気に満ちていて、無数の採光窓から射す真鍮色の光に、磨かれた大理石の床や祭壇は燦爛さんらんと輝いている。
 天蓋を支える石柱の高いこと。小鳥と蔓薔薇がからまる螺旋状の彫刻が施され、神々のいます、無窮の大宇宙アルディーヴァランへと続く様子を表現しているのだ。
 光希が主身廊を歩いていくと、その姿に気がついた信徒たちは、嬉しそうに一揖いちゆうした。光希も笑み返しながら、神聖な雰囲気やら蜜蝋と香の匂い、控えめなささめき声やらが、空気の波にのってつたわってくるのを、新鮮な心地で受けとめた。
 早朝の典礼儀式に参加するたびに、シャイターンの存在をより近くに感じられる。そして清新な気持ちで工房へいけば、くろがねも力強く響いてくれるのだ。
 間もなくオルガンの金管が荘厳な音色を奏で、神官の朗読が始まった。
 連祷に耳を澄ませるうちに心は凪いでいき、五感が研ぎ澄まされ、意識は冴え冴えとしてくる。
 光希は静かに目を閉じていたが、不意に、白昼夢がきざした。
 奇妙な悪寒が背筋をはしりぬけていく。
 幻覚の深淵に呑みこまれ、幾千もの聖霊が耳元でさえずりだした。思わず悲鳴をあげそうになったが、意思の力で堪えた。
 瞼の向こうに、濃密な闇が視える。
 黒いわだかまりのなか、まがつ双眸が磁力を発している錯覚がした。
 光の届かない暗闇なのに、なにかがうごめいている……
 黒い狂気――くろがねだ。
 餌食になった犠牲者たちの、無数の絶望が、黒く息苦しい波となって伝わってくる。耐え難いほどの恐怖と激痛。
 なぜ?
 カタリナ精機製作所で祭儀は、成功したのではないのか?
 喉が上下し、飲みこむ唾は薄らのように冷たく感じる。脳髄がはちきれんばかりに緊張し、耳鳴りがする。
 屑鉄のかたまりは、まるで一つの生命体のように蠢いている。巨大な毒蛇のように。
 筆舌に尽くしがたいほど不気味で、光希は目をそらしたくて仕方がなかったが、ジュリアスに伝えねばという一心で視続けた。
 屑鉄の周囲は、昏くてよく見えない……ここはどこなのだろう?
 恐怖に心臓はどきどきと高鳴り、痛いほどだが、懸命に情報を読み取ろうとした。
 ――視えた。大カレル・ガレン屑鉄会社だ!
 答えを得た瞬間、魔のかたちが視えた。
 おびただしい数のくろがねを纏った黒い威容は、一つの生命体のようで、これまでお目にかかったことがないほど凶悪だった。
 恐ろしさのあまり、呼吸もままならない。
 ひたむきな意思の力で、わだかま真闇まやみから目をそらした。
 意識がうつつに戻った瞬間、光希は大きく息をあえがせた。無意識に呼吸を止めていたのだ。
「光希?」
 ジュリアスが心配そうな様子で光希の背を撫で擦る。
 あたたかな光と連祷が浸透していくのに身を任せながら、光希はかぶりをふった。
「大丈夫……久しぶりに視たから、少しきつかっただけ」
 本当は少しどころではなかったが、ジュリアスに心配をかけたくなかった。うつつに戻った安堵と、恐ろしい光景を視てしまった恐怖とが混沌といりまじって、背筋を冷たい汗が伝う。
 尋常ではない光希の様子を見て、ジュリアスは光希をその場から連れだした。衆目を避けて、側廊の長椅子に並んで座ると、震えている肩や腕を撫でさすってやる。
「何を視たのですか?」
 殆ど確信めいた口調で訊ねた。
「うん……大カレル・ガレン屑鉄会社の廃場だと思う。黒い、屑鉄のかたまり……まるで蛇みたいな、くろがねの集合体が視えた」
「集合体……」
 ジュリアスは吟味するように呟いた。
「考えたくないんだけど、もしかしたら、まだ終わっていない・・・・・・・のかもしれない」
 光希は小声で話した。手は震え、声も震えている。
「判りました。すぐに調べてみます。話してくれてありがとう」
 ジュリアスは光希の肩を抱き寄せた。
「……嫌なことばかりいってごめんね。せっかく、解決したと思ったのに」
 苦しげにいう光希の肩を、ジュリアスはぎゅっと抱きしめた。
「謝らないでください。光希のおかげで、こうして事前に対策することができるのです」
 その言葉に励まされて、光希はどうにか、顔をあげることができた。
「この後どうするの?」
「サリヴァンに会いにいきます。光希はクロガネ隊にいけそうですか?」
 光希は困惑して、ジュリアスの青い瞳をのぞきこんだ。
「いけるけど……ジュリは工場にいくの?」
「そのつもりです。実は私も、終わったという実感をもてずにいたのです。光希の幻視がその答えなのでしょう」
「……そうなんだ……」
 勃然ぼつぜんくと幻夢の恐怖が蘇り、光希の心身を混乱に突き落とした。掴まるものがほしくて、咄嗟にジュリアスの軍服の襟に手を伸ばしたが、両手が激しく震えてままならない。
「ごめん、僕……っ」
「シィ……もう大丈夫ですよ」
 ジュリアスは震える両手を己の手で包みこむと、きゅっと握った。
「今度こそ終わらせてきます」
 たくましい腕が光希を包みこみ、震える背中や腕をさすりながら、頭のてっぺんにくちづける。瞼に、頬に、こめかみに、慈雨のごとくキスの雨を降らせる。
 大丈夫――自分にいい聞かせながら、光希はジュリアスの頸に顔をうずめ、そのぬくもりに、彼の強さにすり寄った。
 しばらくの間、ジュリアスはただ抱きしめていた。黙って座ったまま、髪を撫で、丸まった背中を撫で摩りながら、光希が心を落ち着けるのを待っていた。
 やがて震えが小さくなり呼吸も落ち着くと、ジュリアスはそっと身を引いて、光希の瞳をのぞきこんだ。光希は口元を震わせて、感謝の笑みを浮かべた。
「もう大丈夫……ありがとう、落ち着いた」
 青い瞳を見つめ返しながら答えると、ジュリアスは黒髪にくちづけた。もう一度目を覗きこんで、手をぎゅっと握る。
「後のことは私に任せて、光希は工房にいってください。それとも、クロッカス邸まで送っていきましょうか?」
「僕も一緒にいっていい?」
「光希……」
「ジュリが危険な目にあうかもしれないのに、仕事に集中なんてできないよ」
「心配しないで。サリヴァンやナディアたちも連れていきます。光希は心おきなく、クロガネ隊のことに専念してください。今日を楽しみにしていたのでしょう?」
 髪を優しく撫でられ、光希は歯がゆげな表情を浮かべた。
「やめて。子供みたいな扱いはしないで」
 感情が昂って、瞼の奥がひりひりと痛んだ。ジュリアスはいつもこうだ。それが自分の役目だからと信じて、自ら危険に飛びこんでいく。置いていかれる光希の気持ちなど考えもせずに――
 ジュリアスはぱっと光希を抱きしめた。光希は腕のなかでもがいたが、頭に、額に、こめかみにくちづけを受けるうちに、暴れるのをやめた。
「……ごめんなさい」
「謝らないで。判っています」
「ごめん、ただ心配なんだ……っ」
 ジュリアスにしがみついた。腕のなかで、必死に言葉を探した。
「恐ろしい光景だったよ。あんなところに、いってほしくない……心配でっ……僕が余計なことをいったせいだ、いわなければ良かった」
 光希は喉を詰まらせていった。頬を涙が伝い落ちる。
 一緒についていきたい。
 けれども、邪魔になってしまうことは判りきっている。彼のいう通り、クロガネ隊の皆といた方が、ジュリアスも仕事に専念できるのだろう。
「泣かないで……夜までには必ず戻ります」
「……ごめん、ごめんなさい……っ」
 目尻を優しく指でぬぐわれて、光希は頷いた。
「もう謝らないで、少しも悪いことをしていないのだから。それよりも、言霊ことだまをかけてください。貴方のもとへ無事に戻ってこれるように」
「うん……判った」
 光希は涙をふいて姿勢を正すと、じっとジュリアスを見つめた。
「ジュリアス。貴方を傷つけられる者はいない。どんな害敵も貴方には及ばない。いつも傍に僕がいる」
 全身全霊をこめた祈りだった。
 強い思いは、痛いほどジュリアスにも伝わってきた。きつく組みあわせ両手を、己の手で包みこんだ。
「ありがとう……貴方は私の守護天使です」
 お互いの瞳を覗きこんで、光希は照れ隠しにつけ加えた。
「……僕はどれだけ寝こんでもいいから、どうかジュリアスを護って」
 ジュリアスは小さく笑った。
「寝こまないでください。ほどほどの加護で十分ですからね」
 肩を優しくゆすられて、光希もようやく笑みをこぼした。
「いきましょう」
「うん」
 側廊を通って神殿をでると、少し歩いて、広場の中腹あたりで立ち止まった。
 強張った表情でいる光希を、ジュリアスは腕のなかに抱きしめた。
「すぐに戻ります」
 見つめあい、思いをこめて唇を重ねた。二度、三度とくちづけを交わしてから、顔を離した。
 抱きしめられたまま、光希は手を伸ばして、ジュリアスの頬を撫でた。万もの言葉と思いが、光希の胸を熱くした。危険が待ち受けていると判っているのに、大切なひとを見送る言葉を口にするのは辛い。本当は引き留めたい――それでも、ジュリアスを想い口を開いた。
「……闘ってきて。必ず無事に戻ってきて」
 青い双眸に強い光が灯る。不撓不屈ふとうふくつの焔が、身内に燃えあがるのを感じながら、頬に触れている手をとり、想いの全てをこめて甲にくちびるをつけた。
「約束します」
 その言葉に秘められた決意と想いは、光希にも痛いほど伝わってきた。
 ほんの数秒、お互いを強く見つめあった。ジュリアスはゆっくり身を引くと、静かに踵を返した。
 光希は唇を噛み締めた。これ以上泣いて彼を心配させるわけにはいかない。せめて見送る間だけでも、毅然としていたかった。
 凛とした背中が、遠ざかっていく。
 こうして別れる時はいつも、痛いくらい強烈な空虚感を覚える。再び満たされると経験で知っている。彼は懸命に闘い、必ず勝利するだろう。そして生きて戻ってくる――信じている。
 回廊の向こうへ彼が消えるのを見届けてから、光希はずっと堪えていた嗚咽をこぼした。
「……だけど、心配なんだよっ……あんなに危険な相手に、ジュリに何かあったら、どうしよう……っ」
 頬を、ぼろぼろと涙が流れ落ちていく。
 邪魔をしないように、離れたところで待機していたルスタムとローゼンアージュが、遠慮がちに近づいてきた。
「殿下……」
 ルスタムから渡された手巾を、光希はありがたく受け取った。涙をふいてから、心から信頼しているふたりの護衛を仰ぎ見た。
「……お願い、今日はずっと神殿にいさせて。クロガネ隊の工房から、燭台を運ぶのを手伝ってくれる?」
「もちろんです」
 ふたりは迷わずに頷いた。