アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 32 -

 夕闇が街を浸していく頃、祭儀の無事をほがって、僚友たちは市街へ繰りだした。ジュリアスも誘われたが、一目光希に会いたくて、いったんクロッカス邸に戻ることにした。
 すると先触れを受けた光希が、玄関先で待ち構えていた。
「おかえりなさい!」
「ただいま」
 両手を広げて駆け寄ってくる光希を、ジュリアスも両腕で抱きしめた。
「うまくいった?」
 腕のなかで、光希が顔をあげて訊ねた。
「ええ、終わりました」
 ジュリアスは黒髪に頬を押しあてると、柔らかな感触を味わうように、そのまま頬擦りをした。
「怪我はしていない?」
「ええ」
「ヤシュムは? ナディアたちも皆無事?」
「全員無事です。今頃きっと鯨飲げいいんしていますよ」
「そっかぁ、良かった」
 光希は手を伸ばし、指の背でジュリアスの頬を撫でた。見つめあい、どちらからともなく顔を寄せて触れるだけのキスをする。顔を離すと互いに笑みがこぼれた。
 少し落ち着いたところで、ふたりは互いの腰に腕を回して、居室に入った。
 寝椅子に並んで座り、じっとしている光希の頭の後ろにジュリアスは腕をまわし、自分の胸にもたれされると、もはやふたりの習慣に身を任せて、性的な思惑もなく、ただ優しくあやすようにその躰を揺らしてやる。
「ふぅ……本当に良かった。この数日、生きた心地がしなかったよ」
 光希がため息と共に囁いた。ジュリアスは黒い前髪をよりわけて、額にくちびるをつけた。
「心配をかけましたね」
「いいよ、無事に終わったから。それにいいこともあってね、食欲が落ち着いて、体型が元に戻ったんだよ」
「……確かに、少し痩せましたね」
 ジュリアスは確認するように、光希を抱きしめる腕に少し力をこめた。
「少しね。といっても、年明けの増量分が落ちただけで、痩せたわけじゃないんだけど」
「痩せる必要なんてありませんよ。光希はそのままでいてください」
「うん。とりあえず、意識しすぎるのはやめたよ。僕が太っているのは、もう個性だと思うことにする」
「ありのままの光希が好きですよ。それに、太っていませんよ」
「いやいや、そこは慰めないで」
 苦笑する光希を、ジュリアスは膝に乗せんばかりに引き寄せた。
「太っているのではなく、豊満なのです。繊細にして豊麗、柔らかくて暖かくて、こうして触れていると、とても心地良いですよ。すごく幸せです……」
 ぎゅっと抱きしめて首筋に唇をつけると、くすぐったそうに、光希はくすくすと笑った。
「ジュリが幸せなら、このままでいっか?」
「ええ、そのままでいてください」
 ジュリアスは優しくほほえんだ。ふっくらした白い手をとり、その甲を恭しく額に押し当てる。
 自分を崇拝している恋人を、光希は眺めやった。彼はいつも、惜しみない愛と崇敬を寄せてくれる。凡庸な容姿の光希を、此の世ならぬ美しい存在だと本気で思っているのだ。自分こそが美の化身だというのに。
 同じように愛と崇敬の気持ちをこめて、光希はジュリアスの髪に手を置いた。柔らかい感触が心地良くて、無意識に撫で擦る。
 美しいくちびるから柔らかな吐息をこぼして、目を閉じているジュリアスは、確かにとても幸せそうに見えた。
「お疲れ様。一件落着だね」
「ええ……」
 ジュリアスは心地良さそうに頷いたが、そういえば、と思いだしたように目を開けた。青い瞳が光希をじっと見つめる。
「もうベルテは邸に戻っているのですよね?」
「うん」
 はっとして、光希はいずまいを正した。
話すの・・・?」
「ええ。この問題・・・・にも決着・・をつけましょう」
どっちに話すの・・・・・・?」
「ベルテとアリ、デジーの三人の前で話します」
「ぅわ、修羅場だ……」
 その場面を想像した光希は、額を押さえて呻いた。
 最近色々なことがあったので忘れていたが、召使たちの恋愛問題がまだ未解決だった。
 浴室担当のベルテは、厩舎勤めのアリと恋仲にあり、ふたりはすでに婚約している。先日、アリがデジーという別の娘とキスしているところを、光希は偶々目撃してしまったのだ。
 爾来じらいどうすべきか思い悩み、先日ジュリアスに打ち明けたところ、休暇で里帰りしているデジーが戻り次第、自分から話すと彼がいったのである。
「関係者を全員集めて話せば、一度で済みますよ」
「それはまぁ、確かに……」
「貴方を悩ませていることに関して、私も一言いいたいですしね」
「ぅわぁ、やめて! 僕のことは気にしなくていいから。あまりきつく責めないでよ?」
 慌てふためいた光希は、冴え冴えとした青い双眸を覗きこんだ。
 ジュリアスというひとは、神の依代シャイターンという気質もあり、物事を天秤にかける傾向が強い。また、明敏めいびん勧善懲悪かんぜんちょうあくの境界があり、履行すると一度決めたら、行動に躊躇いがないのだ。
「もちろん、公平に判断しますよ。明日話します」
「……判った」
 光希がうつむきがちに頷くと、ジュリアスが顔を覗きこんできた。
「ねぇ、さっき鯨飲げいいんっていっていたけど、もしかしてヤシュムたちは打ちあげでもしているの?」
「そのようです」
「ジュリはいかなくていいの?」
 その問いに、ジュリアスは少し躊躇ってから答えた。
「後からいきますよ。まずは光希に無事終わったことを伝えたくて」
 彼の思い遣りが嬉しくて、光希はにっこり笑顔になった。
「ありがとう。知らせをもらったから安心はしていたんだけど、やっぱりジュリの顔を見たかったから……きてくれて嬉しいよ」
 はにかむ光希を、ジュリアスはぎゅっと両腕で抱きしめた。
「私もです。早く光希に会いたかった……このまま寝室にいきませんか?」
「こらこら」
 光希は笑いながら、ジュリアスの腕を掴んで躰を離した。
「僕とはいつでも過ごせるんだから、今夜はジュリの特別な仲間たちと鯨飲げいいんしてきてよ」
「私がいなくたって勝手に盛りあがっていますよ。なにしろヤシュムがいますから」
「楽しそうじゃない。せっかくだし、いってきてよ、ね? きっと皆もジュリを待っているよ」
「どうでしょう」
「待っているよ、絶対。いっておいで」
 にこにこしながら金髪を撫でてくる光希を見て、ジュリアスは複雑な気持ちを味わった。挨拶程度に顔をだすつもりではいたが、光希の傍にいると離れるのが嫌になる。
「楽しんできてね。後で話を聞かせてね」
 光希は明るく期待に満ちた笑顔でいった。
 彼の無邪気さが、清らかな雨のように押し寄せてきて、ジュリアスの心を動かした。そんな風にいわれては、いくしかないではないか……

 日が暮れても、旧市街地区の往来は賑々にぎにぎしい。
 店終いした露天商に変わって、酒家の呼びこみが行きかう人々に声をかけている。帰路につく行商や、荷馬車の行き交う車輪の音、さざめき笑う声……人間の活動がもたらすありとあらゆる音にまじって、時刻を告げる神殿の鐘の音が渾然一体となり、街を賑わせている。
 ナルドの竈屋に向かうと、棕櫚しゅろの扉の外にまで、賑やかな声が漏れ聴こえていた。
 なかの様子を想像しながらジュリアスが店に入ると、大いに繁盛していた。数歩もいかずにヤシュムと目があい、彼の顔がぱっと輝いた。
「総大将のおでましだ!」
「「おおおおおッ!!」」
 聖都連続失踪捜査班の憲兵や、仕事の疲れを麦酒で癒している労働階級の男たち、店中の注目を浴びたジュリアスは、微苦笑と共に軽く手をあげて応えた。
 美貌の英雄を目の当たりにした酔っ払いたちは、老いも若きも、赤ら顔をさらに赤く染めてやんやの喝采を送る。
 実は、この店はジャファールの行きつけで、壁には彼の名前が入った色紙が飾られている。常連も店員たちも、凱旋級の将校をもてなすのに慣れていた。
 とりあえずジュリアスは、ナディアの隣に着席した。ほぼ同時に冷えた麦酒が運ばれてきて、向かいに座るハイラートがきらきらした瞳を向けてきた。
「シャイターンとこうして飲み交わすことができて、誠に光栄です。お助け頂き、ありがとうございました……っ」
 雄々しい巨漢が涙ぐんでいる。ヤシュムにつきあって、早くも泥酔の一歩手前のようだ。
「いえ、こちらこそ助かりました。ありがとうございます」
 軽く杯を掲げると、ハイラートだけでなく、周囲の憲兵たちも嬉しそうに杯を高くあげた。
「今夜はいらっしゃらないかと思いました」
 からかうような笑みを浮かべるナディアに、ジュリアスは杯を傾けながら本音を明かした。
「実は迷いました。ですが、光希に背を押されましたから」
「ふふ、さすがです殿下。まぁ、たまには良い機会でしょう」
「そうかもしれません。ヤシュムが楽しそうで何よりですよ」
 ジュリアスの言葉に、ナディアもヤシュムを見て小さく笑った。
 ここのところ死にそうな顔でいたヤシュムだが、今は底抜けに明るい笑顔で、将兵階級の別もなく、共に危機一髪の死地をくぐり抜けた戦友のような連帯感をかもして、周囲に溶け馴染んでいる。
「ともあれ、一区切りですね。失踪届も減少しているそうですよ。くろがねを回収した効果が、顕れ始めているのでしょう」
「ええ。ナディアもよく働いてくれました」
 珍しくナディアが、何のてらいもなくにっこりした。あまり酔わない性質たちの彼だが、さすがに今夜は気が抜けているように見える。
「祭儀も済みましたし、これでアッサラームの暗雲も晴れることでしょう」
 ほっとしたようにいうナディアに、ジュリアスも微笑を浮かべてみせた。
 しかし、喜びに沸く面々を眺めやりながら、しこりのような違和感を覚えていた。
 ――終わったはずだ。
 だというのに、奇妙な違和感が消えてくれない。終わったのだと、まるで自分にいい聞かせているように感じる。
 だが、根拠もないのに、この祝いの席で水をさす必要はない。
 にわかに沸いた疑念を心のなかにしまいこんだ。

 頃合いを見て宴席の途中でいとまを告げたジュリアスは、クロッカス邸に戻り、湯浴みを済ませてから忍び足で寝室に入った。
 あまり期待はしていなかったが、照明が灯っていた。
 光希はまだ起きていて、折り重なるクッションにもたれながら、彩色入りの大きな装飾図鑑を眺めていた。
「おかえりなさい。楽しかった?」
 揺らめく光のなかで、光希が天使のような微笑で囁いた。
「……ただいま。賑やかでしたよ、とても」
 ジュリアスは光希の隣にもぐりこむと、肩を抱き寄せた。柔らかな肢体が素直にもたれてくる。
「良かったね」
 しめやかな夜の寝室で、互いを見つめあう。
 なにか魅いられたような沈黙をつづけて、想いを重ねるように、ゆっくりとくちびるが溶け重なった。

“われわが神を呼びぬ、神の御光みひかりに照りはゆる、われわが五体を高めん……”

 連祷が今も耳に残っている。
 胸に違和感を残しても、長い一日が終わったことは確かだ。
 われわが光をこいねがう……暖かい体温が、柔らかな肢体と吐息が、彼の存在すべてがジュリアスを癒してくれる。
 われわが光をこいねがう……きょうも明日も、ふたりの命があるかぎり、想いを重ねて、幾つもの夜を過ごしていくのだ。