アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 31 -

 五月二八日。
 カタリナ精機製作所にて、六日間に及ぶ祭儀が幕を開けた。
 周囲の壁にはつづれ織りが垂れ、部屋の四隅に香炉が置かれて、魔除けの薬用緋衣草セージを焚いた香煙が、螺旋状にたち昇っている。
 紅い絹地をかけた聖壇には、いにしえ祭祀具さいしぐや緋色の葡萄酒、紅玉髄こうぎょくずいの杯、そして供物である羚羊れいようの心臓が、銀器に乗せられている。
 床には石灰と木屑で二重円陣が描かれ、その周囲に、今日の吉方を選んで等間隔に配された七枝の燭台が、琥珀色の焔で部屋を照らしている。
 円陣の中央には裁断機と呪われたくろがねが折り重なり、天井から垂れさがる聖銀の吊燭台が、天使長然と神聖犯すべからず――聖蝋を灯して、彼我ひがしきいを厳粛に見おろしていた。
 巨大な裁断機は 静かに沈黙しているが、刃は妖異な光を放っており、不気味な圧迫感が押し寄せてくる。
 ときの声や喚声が聴こえてくるわけではないが、見張りに就く憲兵の心の臓は、張り裂けそうなほどに激昂していた。
 間もなくサリヴァンを筆頭に、脚首まである法衣に身を包んだ神官が入ってきて、祭壇の前で座りこんだ。この日のために、七日間の斎戒沐浴さいかいもくよくを済ませており、頬は少々やつれているが、瞳は冴え冴えとした厳格な光を湛えている。
 シャン、シャン、シャン。神官が鈴と手太鼓タンバリーンを打ち鳴らす。
「われわが神を呼びぬ、神の御光みひかりに照りはゆる、われわが五体を高めん」
 ひたすらに単調な連祷が続く。
 繰り返し唱えることで精神は上昇する。祈りのげんが宿るのだ。
 森閑しんかんとした空間に音が反響して、不可知の霊力が漂っているように感じられた。
 一日目、壮大なる無窮の宇宙――神々の世界アルディーヴァランを崇め帰依し、世界は自分と星辰せいしんの神秘だけになって、その身に効験あらたかな加護を宿した。
 二日目、清浄の連祷で、空間を神聖な大伽藍だいがらんとなした。
 三日目、破魔を唱えると、これまで沈黙していた裁断機は不気味な唸り声をあげた。
 ほとばしる狂気は狡猾な悪鬼そのもので、連祷を嫌って逃げたかのように見せておきながら、やはり醜悪な魂はそこにいたのだと思わせた。
 敬虔な信徒たちは、三日三晩、破魔を唱え続けた。
「邪気を祓い、悪鬼をい、地獄のあぎとを閉じよ。閉じよ、閉じよ。邪気を祓い、悪鬼をわんと、雷光はくきたまいぬ」
 破魔の連祷が空間に浸透する。
 悪鬼は唸り、威嚇し、彼我ひがしきいに腹を立てていたが、境界を超えることはできなかった。
 凄まじい怨念執念。熔解ようかいを経て変容したくろがねになぜにそうも偏執するのか、連祷を嫌がりながらも、立ち去ろうとはしなかった。
 それは一種根競べのようにも思えた。
 清流のごとく滔々とうとうと連祷が捧げられるなか、憲兵たちは、蝋燭の火を決して絶やさぬよう、交代で見張りについた。
 そして六日目の朝。
 祭儀も大詰めとなり、いよいよ神官が火炎で清める日を迎えた。
 空気は冷たく、陽射しは鉛色の雨雲に遮られている。辺りには濃霧がたちこめ、薄暗く、視界もすこぶる悪かった。
 曇天を背に佇む工場は、名状しがたいほど陰惨で、邪悪な瘴気が放射しているようだった。
「いきたくねぇ……」
 ヤシュムが喉をならしてぼやいた。
 今日の彼は、魔除けの真珠を頸からさげ、ジャファールに借りたという、聖銀の飾りを額にとめている。彼なりの戦闘準備なのだろうが、どうも及び腰だ。
 これまで蝋燭番に徹していた憲兵も、今日は前衛に立たねばならないので、兜に鎧を纏った重装備で臨んでいる。誰もが普段にはない緊張を感じていた。
 珍しく弱気の虫に憑かれている僚友を見て、ジュリアスは言葉を探した。
「怪奇が相手でも、心胆さえ整えれば大丈夫です。油断のないよう、気をつけてください」
 果たして慰めになっているのか微妙だが、ヤシュムは頷いた。深呼吸をして、コキコキと頸を鳴らし、肩を回し、己に気合をいれて頬をぴしゃりと打った。
「……よしッ! 乾坤一擲けんこんいってきなんとしても叩き潰す。一か八かの大勝負だ!」
「一か八かではありません。必勝です」
 ジュリアスが冷静に訂正すると、磊落らいらくなヤシュムは呵呵大笑かかたいしょうして、周囲の憲兵をびくっとさせた。
「必勝、必勝! 総大将がいれば、大博打ばくちにならないときた。この件が片付いたら、勝利の美酒で乾杯しましょうや」
 明るくいい放ち、ジュリアスの背中を叩いて肩に腕を回してきた。
 ジュリアスは苦笑をこぼした。自分に対して、ここまで遠慮のない振る舞いをできる人物は、そうはいない。だが悪い気はしなかった。

 室内に入ると、空気はとたんに重たくなった。
 最後の闘いが始まる。
 神官が、円のしきいの外にたち、裁断機にかけてある聖なる紋織物を剥がしたその瞬間、冷たく凍てついた静寂が満ちた。
 時間が止まったような、不思議な感覚がした。
 裁断機は不気味に沈黙している。
 けれども暗黒のなかで焦れったげに燃えている危険と餓えが感じられた。
 サリヴァンは火を焚きつつ、低い調子で、呪法を始めた。
「邪気を祓い、悪鬼をい、果てしなき行苦に終止符を、悲嘆の世界を閉じよ」
 広い空間だけに、声はこだまして響いた。
 燃え盛る炎に、神官が連祷を唱えながら、次々と呪符を投げ入れた。同じく、過去に断頭台に処された人々の名簿も燃やされた。
 燃えあがる火炎は、すべての罪障を浄化してくれる。
「われわが神を呼びぬ、こいねがわくは、加護垂れ給わん。悲しき魂を救い給え」
 サリヴァンの言葉が空間に満ち満ちて、悲惨な最後を遂げた人々の魂を癒し、呪われたくろがねとの繋がりを絶たんとする。
 これに地獄の悪鬼は嚇怒かくどし、不気味な唸り声をあげる。
 憲兵たちは悪寒を堪えて、歯を食いしばった。心臓を握られているかのような異妖な感覚だった。きつく噛みあわせていないと、全身が震撼しんかんしそうになる。
 嗚呼、今すぐに陽射しが欲しい! この陰々鬱々とした部屋を明るく照らしてほしい! 邪気をはらって清浄な気を招き入れたい!
 戦々兢々せんせんきょうきょうとして、手は震えたが、ともかく火を消さぬよう、ハイラートもサンジャルも燭台に注意した。
 蝋燭の火は高く伸びて、蝋涙ろうるいが激しくしたたる。まるで目には見えぬ悪霊と戦っているかのようだ。
 ――火を消すな。
 その一心で、うなじがぴりぴりとして冷や汗が流れようとも、振り向くことをどうにか堪えた。
 炎がひときわ高く燃えあがった一刹那いちせつな雷鎚いかづちのごとく大音響が轟いた。
 天地開闢かいびゃくを告げるかのような真っ白い閃光が、赤い炎から突き立ったのだ。おののいた憲兵の幾人かがその場に膝をついた。

 おおおお……ぉぉぉぉぉぉ……

 悪霊が破鐘われがねのような声で吠える。
 声というとりは、獣の唸り声のようだった。そこにこめられた怒りと悪意の凄まじさ。血の海と累々と屍体の幻影が視えて、徳高い神官であっても、顔面蒼白になってすくみあがった。
「怖えぇっ」
 ヤシュムまでもが狼狽えたように眼球を動かしている。
 幾度となく凶悪なやからと対峙してきたであろう、精鋭憲兵たちですら、裁断機を前に後ずさりをした。
 誰もが祓魔の帰趨きすうを思い、呻きたい心地に駆られていた。
 悪霊が優勢になり、紅蓮の炎舌えんぜつが神官に襲いかかるのを、ジュリアスは青い炎で防いだ。
「恐れるな! 悪霊調伏ちょうぶくげんが顕れたのだ」
 凛とよく通る声は効果覿面てきめんで、狼狽える者らの心を瞬時に落ち着かせた。このとき、彼の声だけでも指揮官の値打ちがあるとハイラートは密かに胸に思った。
 冥府の神の戯弄ぎろうか、炎の曲舞くせまいが屑鉄を弾き飛ばした。
「盾を構えよ!」
 雷光石火のごとし凶器から神官を護るため、盾を構えた憲兵が彼等の前に立つ。
 血に餓えたくろがねは、さながら悪霊のあぎとだ。
 鉄が盾にぶつかるたびに、凄まじい衝撃が全身に伝わる。攻城戦の大槌おおづちを凌ぐような思いで、憲兵は歯を食いしばり、死にもの狂いの形相で盾を構え続けた。
 まさしく生命をした攻防が繰り返された。
 清らかな炎は凶々まがまがしさを増して、邪悪な星の耀かがやきが、信仰心のきらめきに拮抗した。
 永劫に続くかと思われたが、唐突に、宙に浮くくろがねは浮力を喪った。どこか澄んだ金属音をたてながら、床に散乱していく。
 ――終わったのか?
 武装憲兵がひとり、またひとりと顔をあげた。裁断機は沈黙している。
「上だ!」
 ハイラートが叫んだ。
 はっと全員が顔をあげると、果たして幻覚なのか、巨大な刃が顕れた。この世のものとも思われぬ妖異な光を放っている。
 これには神官も唖然となり、一瞬、連祷が途絶えた。
「ならぬ! 法呪を絶やすな!」
 サリヴァンの一括で、神官たちははっと目を見張り、再び唱え始めた。
 だが、幻覚の刃は少しずつおりようとしている。獲物を恐怖させる断頭刃のように、全員の頭上から少しずつおりてくる。
 視覚的な恐怖に押し負けて、盾を頭上に構えた憲兵が、飛来するくろがねに胴を打たれた。
「ぐァッ!」
 そちこちから鈍い呻き声があがる。鎧を着用していなければ、致命的に切り裂かれていただろう。
「幻覚だ! 盾を前に構えよ! 」
 ジュリアスは剣の柄へ手をやり、冴え冴えと青い眸で頭上を見据えた。
 実際には、幻覚ではない命を刈り取る危険なものだったが、憲兵の注意は前方に割かなくてはならない。でなければ神官を護れない。
「あれは私が破壊します」
 頭上の脅威を、ジュリアスは一身に引き受けることにした。
 蒼い覇気を纏う姿は、まさしく雷光の戦神のように神々しかった。
 神懸かりとなって刀身を抜けば、青い光を帯びていた。対する頭上の刃は、血のように赤く濡れて耀かがやいている。
 一閃――戦神の青白い雷光と、地獄の焔が一時に閃いた。
 まがつ刃は宙でとまり、口惜くやしげに震え、やがて霧散した。
 悪鬼は去ったのだ。
 そう思われた一刹那いちせつな、不気味な音が背後から聴こえた。いあわせた人々は、肝を冷やしながら振り向いた。
 ぎらり、不気味な光がひとみを射る。
 ガラガラガラッ
 横凪ぎに襲いかかる大鎌の向こうに、死神の姿を見た。
「うわあァッ!」
 悲鳴が迸った。
 命を刈り取られる――永劫絶対的な闇に堕ちていく――魂の流刑地に連れ去られてしまう!
 だがそれは、今度こそ幻に過ぎなかった。
 傲然ごうぜんたる大音響を立たせて、工場にどよめき渡りつつ、静かに消えた。
 言葉も表情もなく、より深い沈黙のみが暫く彼等を支配した。
 視界が明るくなる。窓から射しこむ清らかな陽が、空気の明瞭さを物語っていた。
 終わった。ついに悪鬼をい祓ったのだ。
「ぃよしっ!」
 ヤシュムが吠えた。
 誰もかれもが快哉かいさいを叫んでいる。ハイラートも熱く猛烈な勝利感が血潮に流れ、ときの声をあげた。
 日頃は寡黙で冷静な神官ですら気が緩み、天佑てんゆう、神機だのと口にしている。彼らにとっても、極めて蓋然がいぜん率の低い、殆ど奇跡の偉業を成し得た気持ちだった。
 しかし、ジュリアスは緊張を解く気になれなかった。
 ――本当にこれで終わったのだろうか?
 額にびっしり珠の汗を浮かせたサリヴァンが、ジュリアスを見た。
 彼が頷くの見て、ジュリアスはゆっくりと刀身を鞘に収めた。
 終わったのだ。