アッサラーム夜想曲
聖域の贄 - 30 -
深夜にクロッカス邸に戻ったジュリアスは、湯浴みを済ませて、軽く書類に目を通してから、静かに寝室へ入った。
光希は白い褥 のなかにいた。
白い上掛けや敷布が薔薇の花弁のように重なった中心に、横たわっている。枕元には、寝入るまで読んでいたのであろう、本が積み重なっていた。
ジュリアスは光希の隣にもぐりこむと、黒髪を撫でて、頬に唇を落とした。
すると、光希は半醒半睡で躰を反転させて、ジュリアスの胸にすり寄ってきた。
「……お帰りなさい」
「ただいま。すみません、起こしましたか?」
顔をのぞきこむと、光希は目を閉じていたが、口元には笑みを浮かべていた。
「ん……遅くまで大変だね。大丈夫?」
返事のかわりに、ジュリアスは光希の黒髪を優しく指で梳いた。
「……ひとつ仕事を頼んでも良いでしょうか?」
光希はぱちっと目を開けると、身を起こして、しっかり視線をあわせてきた。
「何?」
ジュリアスも上半身を起こすと、光希の目を見つめながらくちびるを開いた。
「光希さえ良ければ、祭儀に使う蝋燭に聖句を彫ってほしいのですが、いかがでしょう?」
薄闇のなかでも、黒い瞳がきらりと輝くのが判った。
「もちろん構わないよ。僕に手伝えることがあるなら、何でもいって」
半ば予期していた反応だったが、澄み透った眼差しの美しさに、ジュリアスは魅了された。
「ありがとう、私の守護天使」
両腕で抱きしめると、光希は恥ずかしそうに身じろいだ。胸に手をついて離れようとするので、いっそう胸のなかに引きこむ。
「大したことじゃないよ。ちょうど暇を持て余していたし」
「大したことですよ。光希にしか起こせない奇跡です」
「奇跡ってまたそんな……急ぎかな? すぐに作業した方がいい?」
光希が顔をあげるのにあわせて、ジュリアスも少し身を引いた。
「そうですね。急ですみませんが、明日からでも構いませんか?」
「いいよ。幾つ必要なの?」
「多ければ多いほど良いです。十日間で、可能な限り作っていただけますか?」
「なるほど。蝋燭は用意してもらえるのかな?」
「はい、工房に運ばせます。見本を一つ借りてきたので、それを見ながら同じように聖句を彫ってください」
「判った。ありがとう」
光希は笑顔で頷いた。身を横たえてジュリアスの胸に顔を埋めると、
「やった。仕事だ」
少し興奮した様子で呟くので、ジュリアスは小さく笑った。黒髪を撫で、その頭に頬を寄せた。
「嬉しそうですね」
「暇なんだよー」
「明日から忙しくなりますよ」
「頑張る」
「無理はしないでくださいね」
「うん……」
言葉が途切れて、光希が眠りに落ちたあとも、ジュリアスはくちびるで黒髪に触れつづけた。そうして間もなく、ジュリアスも安らぎに包まれた眠りに落ちた。
翌日から早速、光希は聖蝋作りにとりかかり、神殿でも聖蝋作りが始まった。
着々と準備が進められるなか、サリヴァンから七日間の沐浴潔斎 に入ると連絡があった。
五月二七日。
明日から始まる祭儀の最終確認を終えたジュリアスは、遅くなる前にクロッカス邸に戻った。
すると、軽快な足取りで光希が螺旋階段をおりてきて、ジュリアスを迎えにやってきた。彼に手を引かれて工房へ入ると、部屋の中央に絹敷の木箱が置かれていた。なかには乳白色の聖蝋が、ぎっしり詰められている。
「用意しておいたよ」
光希の言葉に、ジュリアスは驚いた。
「これをすべて、ひとりで?」
「うん」
期待に満ちた輝く顔で、光希が笑う。
じっくり仕あがりを見たジュリアスは、そのひとつひとつに迸 る神気と才気とを感じて身震いした。
職人の腕の良さが伝わってくる、正確無比な彫りだ。実に精巧な出来栄えで、蝋燭に彫られた文字は神聖でありながら、雄渾 の気迫を纏っている。
「見事です」
心からの嘆賞をこめていうと、光希は茶目っ気のある笑みを浮かべた。
「へへ……ありがとう」
本人は驕 ることもなく、悠然としているが、その身に神をおろして彫ったのかと思うほどだ。光希はいともたやすく、神韻縹渺 の心境を見せてくれる。
「いよいよ明日だね」
光希は神妙な口調でいった。
「ええ、光希のおかげで万全を期すことができます」
光希は嬉しそうにはにかんだあと、ふと真面目な表情になり、ジュリアスの手をそっと握った。
「時間はとらせないから、一緒に礼拝堂にきてくれる? 燭台を運んであるんだ」
「もちろん、構いませんよ」
アッサラームの建造物であれば、大抵は屋内に礼拝室が設けられている。クロッカス邸にも、東棟の離れに礼拝堂があり、召使が毎日掃き清め、洗い場を磨き、祭壇に花を飾り、蝋燭に火を灯している。
礼拝は生者の務めだ。光希とジュリアスは、主に神殿の典礼儀式で済ませているが、ナフィーサをはじめとする家人は、毎日クロッカス邸の礼拝堂に通っている。
今夜はふたりで礼拝堂に入ると、祭壇に光希の作った三枝の燭台が三つ並んでおり、火が灯されていた。
窓がいくつか開いており、薔薇と素馨 の香りが仄かに流れている。
流儀に則 って洗い場へいき、真珠貝から滴 る水で手を洗う。それから祭壇前にいき、絨毯のうえに並んで座った。
蝋燭に照らされながら、目を閉じて祈る光希の姿に、ジュリアスは密かな感動を覚える。
じっと動かず、深みのある甘美な静けさを湛えて祈る横顔は、一枚の絵のように美しい。清らかな霊光に包まれて、神々しい、妙 なる聖像を心に抱かされる。
「……ジュリも目を閉じて」
視線を感じたのか、目を閉じたまま光希が囁いた。
「すみません、貴方に見惚れていました」
「ぐっ……ふぅ、あのね……」
光希は声を詰まらせ、顔をあげると、上目遣いにジュリアスを見つめた。
「明日が無事に終わるように、ジュリの身に危険が及ばないように、シャイターンに御祈祷しているんだよ。ジュリも心をこめて、よくお願いして」
照れ隠しにきりっとした表情でいう光希が愛おしくて、ジュリアスは微笑する。
「ジュリ。御祈祷して」
「はい」
ジュリアスが目を閉じると、光希は、ジュリアスの手にそっと己の手を重ねた。触れあう指先から、優しい温もりと、繊細で清浄な気が流れてくる。
静謐 な空気が満ちる。ふたりとも黙って、ただ静かに祈りを捧げていた。
ふたたび目を開けた時、ジュリアスは不思議と心身が澄み渡り、壮大な気宇 を養えたように感じられた。
「大丈夫。きっとうまくいくよ」
光希が言霊 を唱える。
その言葉で、ジュリアスの心は現実に引き戻されると同時に、光希の存在を強く意識した。世界の誰よりも知り、愛しているひとがここにいる。
「ありがとう、光希」
ジュリアスは敬愛をこめて光希の手をとると、その白い甲にくちびるを押しあてた。揺らめく光のなかで、美しい黒い瞳がジュリアスをじっと見つめ、優しい笑みを浮かべる。
明日。すべきことは明瞭で、心は凪いでいる。あとは臨むだけだ。
光希は白い
白い上掛けや敷布が薔薇の花弁のように重なった中心に、横たわっている。枕元には、寝入るまで読んでいたのであろう、本が積み重なっていた。
ジュリアスは光希の隣にもぐりこむと、黒髪を撫でて、頬に唇を落とした。
すると、光希は半醒半睡で躰を反転させて、ジュリアスの胸にすり寄ってきた。
「……お帰りなさい」
「ただいま。すみません、起こしましたか?」
顔をのぞきこむと、光希は目を閉じていたが、口元には笑みを浮かべていた。
「ん……遅くまで大変だね。大丈夫?」
返事のかわりに、ジュリアスは光希の黒髪を優しく指で梳いた。
「……ひとつ仕事を頼んでも良いでしょうか?」
光希はぱちっと目を開けると、身を起こして、しっかり視線をあわせてきた。
「何?」
ジュリアスも上半身を起こすと、光希の目を見つめながらくちびるを開いた。
「光希さえ良ければ、祭儀に使う蝋燭に聖句を彫ってほしいのですが、いかがでしょう?」
薄闇のなかでも、黒い瞳がきらりと輝くのが判った。
「もちろん構わないよ。僕に手伝えることがあるなら、何でもいって」
半ば予期していた反応だったが、澄み透った眼差しの美しさに、ジュリアスは魅了された。
「ありがとう、私の守護天使」
両腕で抱きしめると、光希は恥ずかしそうに身じろいだ。胸に手をついて離れようとするので、いっそう胸のなかに引きこむ。
「大したことじゃないよ。ちょうど暇を持て余していたし」
「大したことですよ。光希にしか起こせない奇跡です」
「奇跡ってまたそんな……急ぎかな? すぐに作業した方がいい?」
光希が顔をあげるのにあわせて、ジュリアスも少し身を引いた。
「そうですね。急ですみませんが、明日からでも構いませんか?」
「いいよ。幾つ必要なの?」
「多ければ多いほど良いです。十日間で、可能な限り作っていただけますか?」
「なるほど。蝋燭は用意してもらえるのかな?」
「はい、工房に運ばせます。見本を一つ借りてきたので、それを見ながら同じように聖句を彫ってください」
「判った。ありがとう」
光希は笑顔で頷いた。身を横たえてジュリアスの胸に顔を埋めると、
「やった。仕事だ」
少し興奮した様子で呟くので、ジュリアスは小さく笑った。黒髪を撫で、その頭に頬を寄せた。
「嬉しそうですね」
「暇なんだよー」
「明日から忙しくなりますよ」
「頑張る」
「無理はしないでくださいね」
「うん……」
言葉が途切れて、光希が眠りに落ちたあとも、ジュリアスはくちびるで黒髪に触れつづけた。そうして間もなく、ジュリアスも安らぎに包まれた眠りに落ちた。
翌日から早速、光希は聖蝋作りにとりかかり、神殿でも聖蝋作りが始まった。
着々と準備が進められるなか、サリヴァンから七日間の
五月二七日。
明日から始まる祭儀の最終確認を終えたジュリアスは、遅くなる前にクロッカス邸に戻った。
すると、軽快な足取りで光希が螺旋階段をおりてきて、ジュリアスを迎えにやってきた。彼に手を引かれて工房へ入ると、部屋の中央に絹敷の木箱が置かれていた。なかには乳白色の聖蝋が、ぎっしり詰められている。
「用意しておいたよ」
光希の言葉に、ジュリアスは驚いた。
「これをすべて、ひとりで?」
「うん」
期待に満ちた輝く顔で、光希が笑う。
じっくり仕あがりを見たジュリアスは、そのひとつひとつに
職人の腕の良さが伝わってくる、正確無比な彫りだ。実に精巧な出来栄えで、蝋燭に彫られた文字は神聖でありながら、
「見事です」
心からの嘆賞をこめていうと、光希は茶目っ気のある笑みを浮かべた。
「へへ……ありがとう」
本人は
「いよいよ明日だね」
光希は神妙な口調でいった。
「ええ、光希のおかげで万全を期すことができます」
光希は嬉しそうにはにかんだあと、ふと真面目な表情になり、ジュリアスの手をそっと握った。
「時間はとらせないから、一緒に礼拝堂にきてくれる? 燭台を運んであるんだ」
「もちろん、構いませんよ」
アッサラームの建造物であれば、大抵は屋内に礼拝室が設けられている。クロッカス邸にも、東棟の離れに礼拝堂があり、召使が毎日掃き清め、洗い場を磨き、祭壇に花を飾り、蝋燭に火を灯している。
礼拝は生者の務めだ。光希とジュリアスは、主に神殿の典礼儀式で済ませているが、ナフィーサをはじめとする家人は、毎日クロッカス邸の礼拝堂に通っている。
今夜はふたりで礼拝堂に入ると、祭壇に光希の作った三枝の燭台が三つ並んでおり、火が灯されていた。
窓がいくつか開いており、薔薇と
流儀に
蝋燭に照らされながら、目を閉じて祈る光希の姿に、ジュリアスは密かな感動を覚える。
じっと動かず、深みのある甘美な静けさを湛えて祈る横顔は、一枚の絵のように美しい。清らかな霊光に包まれて、神々しい、
「……ジュリも目を閉じて」
視線を感じたのか、目を閉じたまま光希が囁いた。
「すみません、貴方に見惚れていました」
「ぐっ……ふぅ、あのね……」
光希は声を詰まらせ、顔をあげると、上目遣いにジュリアスを見つめた。
「明日が無事に終わるように、ジュリの身に危険が及ばないように、シャイターンに御祈祷しているんだよ。ジュリも心をこめて、よくお願いして」
照れ隠しにきりっとした表情でいう光希が愛おしくて、ジュリアスは微笑する。
「ジュリ。御祈祷して」
「はい」
ジュリアスが目を閉じると、光希は、ジュリアスの手にそっと己の手を重ねた。触れあう指先から、優しい温もりと、繊細で清浄な気が流れてくる。
ふたたび目を開けた時、ジュリアスは不思議と心身が澄み渡り、壮大な
「大丈夫。きっとうまくいくよ」
光希が
その言葉で、ジュリアスの心は現実に引き戻されると同時に、光希の存在を強く意識した。世界の誰よりも知り、愛しているひとがここにいる。
「ありがとう、光希」
ジュリアスは敬愛をこめて光希の手をとると、その白い甲にくちびるを押しあてた。揺らめく光のなかで、美しい黒い瞳がジュリアスをじっと見つめ、優しい笑みを浮かべる。
明日。すべきことは明瞭で、心は凪いでいる。あとは臨むだけだ。