アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 26 -

 悪夢を見ている。
 薄紗の垂れた寝台のうえで、光希は男の胴に大胆にまたがり、腰を振っていた。ジュリアスではない。恐らく想いを伝えてくれたであろう、アーナトラの工房にいた青年だ。
 木蓮の香りがする……光希の大腿から男の股間を、甘い匂いの香油が濡らしている。ジュリアスからもらった香油をまとい、他の男と淫欲にふけっている。
「――き、光希」
 揺り起こされた光希が勢いよく跳ね起きると、ジュリアスは驚いた顔つきで身を引いた。
「大丈夫ですか? うなされていましたよ」
 彼の瞳を見た途端に、光希の全身に冷や汗が噴きだした。さっと顔を俯けて、波打つ鼓動に手を押しあてる。
「光希?」
 ジュリアスは心配そうな様子で、光希の顔を覗きこもうとした。
「また怖い夢を見たの?」
「……うん……」
 確かに恐ろしかった。現実に起きたわけでもないのに、取り返しのつかない裏切りを犯してしまった気がする。
 最悪だ――股間が濡れている。後ろめたくてジュリアスの顔を見ることができない。
「……ところでジュリ、時間は平気なの? 今日はずいぶんとゆっくりしているんだね……」
 なんとか取り繕ったような笑みを向けると、探るような眼差しが返された。他の誰に嘘をつくより、彼に嘘をつくことは難しい。
「夢精しましたね」
 凍りついた光希を見て、ジュリアスの碧い眸のなかに仄暗い焔がちらついた。
「……声に、甘さが含まれていました」
 凍えそうなほど冷たい声だった。
「違う、あれは……夢だから、ただの夢だから……っ」
 光希は淀みがちに喋りながら、動悸が異様に早まるのを自覚した。
 とうとうジュリアスに知られてしまった!
 清らかな真珠に爪痕をつけられたように、愛情の純潔さを傷つけられたように感じる。
 あさましい下半身を隠すように、膝をたてて両腕で抱えると、その腕をジュリアスに掴まれた。
「誰に……」
 押し殺したような声は、不自然に途切れた。
「……何?」
 腕を掴まれたまま恐々と光希が先を促すと、青い瞳は恐ろしいほど冷たくなった。湖水か清流を思わせる、身を切るように冷たい霧氷むひょうだ。
「誰に、躰を赦したのですか」
 光希は目を見張ってジュリアスを見た。
「何いって……」
「アーナトラ?」
「えっ!?」
「“アーナトラの”……そう呟いていました」
「違う! 違うよ、違う」
「何が違うのですか?」
「いや、え~っと、それは……」
「夢で慰めるほど、彼のことが心配ですか?」
「そうじゃなくって、ううぅ……」
 視線を泳がせまくっていると、顎を掴まれた。
「答えてください」
「聞かない方がいいよ」
「光希」
 真剣な眼差しに気圧され、光希は怯んだ。それでも舌がうまく動いてくれない。
「答えて」
 碧眼が鋭い光を放つ。全てを見透す澄明ちょうめいな眼差しに、光希は観念した。
「……アーナトラさんの、工房にいた人、ぁッ」
 手首を掴む力が強くなって、光希は顔をしかめた。ジュリアスは拘束する力を弱めたが、青い瞳を嫉妬の炎で燃えあがらせた。
「その男に気があるのですか?」
「まさか! 違うよ!!」
 光希は顔面を蒼白にして、ぶんぶんと左右に高速回転した。
「誰ですか? 名前は?」
「知らないよ、あの日初めて会ったんだ」
「アーナトラの工房で何があったのですか? 迫られたのですか?」
「違うよ、歓迎のしるしにお土産をもらっただけ」
「贈り物? それで惹かれたのですか?」
「違うってば! 落ち着いてジュリ、ただの悪夢だから。彼のことなんて何とも思ってないよ」
「ただの悪夢だといいきれますか? 私が触れるのを拒んでいる本当の理由ではないのですか?」
「違うッ!! ……そんなわけない……勘弁してよ、夢の話なんだから」
 光希が声を張りあげてようやく、ジュリアスの詰問口調がやんだ。
 二人は顔を見あわせて、お互いの心を読みとろうとした。打ち明けがたい思いを知り、胸を傷めているのは同じだ。
 今はお互いに興奮している。少なくともどちらかは分別を持っていなければ……頭を一つふって、寝台からおりようとしたら、ジュリアスに腕を引かれて押し倒された。強引にくちびるを押しつけられて、腕をつかって必死に抵抗する。
「ん、むっ! ……だめ、寝起きはだめ!」
 きっなっていうと、青い瞳が反感できらめいた。光希も負けじと睨み返す。
「こんな夢を見て、僕だって気分が悪いんだよ。すごく恥ずかしいし……湯浴みしてくる」
 胸に手をついて押しのけると、ジュリアスも黙って躰をどかした。しかし離れていく光希の手をとり、振り向いた光希を見つめたまま、甲に口づけた。
「……愛しています」
 熱情のこもっと声と眼差しに、光希はぐっと唇を引き結んだ。視線を逸したくなるのを堪えて、僕も、と答える。そういって今度こそ寝室をでていこうとしたが、大きな手が肩にかかり、振り向かされた。
「彼から贈られたものを見せてください」
 全てを見透しているような青い瞳にめつけられ、光希は口ごもった。
「……実は、恋文のようなものをもらったんだ」
 こうなれば露見するのも時間の問題だと思い、光希は自ら明かした。
「なんですって?」
「うっ……怒らないでよ。お土産のなかにまぎれていたんだ。僕も後になって気がついたんだよ」
「とっておいてあるのですか?」
「う、ん……」
 しまった――捨てておかげば良かった。或いはもう捨てたと答えれば良かったと思うが、手遅れだ。
「もちろん、返事するつもりはないから!」
 慌ててつけ加えるが、
「当たり前でしょう」
 ジュリアスの躰から怒りが迸るように青い燐光が漏れでて、光希の緊張はいや増した。
 息詰まる静寂。底なしの沈黙が室内を満たし、光希の神経を責め立てたる。
 碧い瞳の奥に仄暗い焔がちらついている……恐らく、見せろといいたいのを堪えているのだろう。それは他人が暴くものではないと、理性が押し留めている顔だ。
 こちらがしゃべるまで、そうして威圧するつもりだろうか?
 重苦しい沈黙にとうとう耐えきれなくなって、光希は背を向けると、暖を取ろうとするように胸の前で腕を組んだ。
 扉に目をやり、このまま寝室をでていけないか一瞬迷うが、それでは逃げているように見えるだけだと思い直し、意を決して振り向いた。
 ジュリアスがじっっと見つめ返してくる。
 心を汲み取ろうとしているようにも見えるが、よく判らない。何を考えているのか……怒っているのかどうかすら。
 どうにかして気まずい沈黙を破りたいが、舌がうまく動いてくれない。唇をなめると、ジュリアスの視線がそこに落ちるのが感じられた。
「……悪夢なんだけど、最近は特に酷くて……今日は僕だったけど……その……いつもはジュリが別の誰かを愛している夢を見るんだ」
 ジュリアスは虚を突かれた顔になった。
「私ですか? 一体誰を?」
「えぇ――……いいたくない」
「教えてください。きちんと否定させてください。私が光希以外を愛するなんてありえないのですから」
「うん、ちゃんと夢だって判っているよ」
「それが原因で、ここのところ塞ぎこんでいたのですか?」
「そういわれると、そうなんだけど、うぅ……まだ続けるの? 不毛だよ、夢の内容で議論したって。夢なんてもともと、支離滅裂なものなんだから」
 と、言葉ではいえるが、実際に悪夢に苛まれているので光希も決まりが悪かった。
「そうかもしれませんが、今は安易に夢だと片づけられない事情がありますよ」
「さすがに悪夢を見たくらいで失踪はしないと思う……」
「その恋文のようなものとやらを見せてください」
 光希はため息を我慢できなかった。不機嫌そうに碧い瞳に睨まれると、唇を噛んで押し黙る。
「見せてください」
「……」
「光希」
 最後通牒のように、瞳が仄暗く翳った。
 冬の湖の蒼から、濃い瑠璃へと変化する。纏う凍てついた空気が光希に押し寄せ、鳥肌が立つ。彼の悋気が恐ろしくて、光希は震える手で白い小さなカードをさしだすほかなかった。

“お慕いしています”

 たった一言だけ。
 だからこそ心に響いたのだが……いじらしく感じたのは事実だ。落ちこんでいた光希を元気づけてくれたことも。
 だが、ジュリアスにそれは苛烈な雷霆らいていのような効果をもたらした。完全に無表情になり、手のなかに青い炎を閃かせた。
「っ!?」
 青褪める光希を見、ジュリアスは、深く、長く息を吐きだした。
 小さな紙はたちまち燃えて、炭になって崩れ落ちていく。
「……私が光希に関わることで、多少過剰な反応をしてしまうことは否定しません」
(多少??????)
 心の底から疑問に思うが、声にも顔にもだしてはいけないことを、光希は経験から学んでいた。
 急いでなにかを――どんなことでも――いって、ふたりを包む気まずい沈黙を破ろうとした。神経が限界まで張り詰めている。
 緊張に強ばる顔を見つめたまま、ジュリアスは小首を傾げる。金髪が揺れて朝陽に煌めいた。
 無言で返事を求められて、光希は迷いながら唇を開いた。
「……確かに嬉しかったけど、それで彼のことが好きになったわけじゃないよ。夢のことはもう忘れて。僕が好きなのは、ジュリだよ」
 光希は傍に寄って、ジュリアスの頬を撫でた。
 さりげない愛撫は、不思議なほどジュリアスを落ち着かせたが、その後光希はうっかり文句を繰り返すという愚を犯した。
「第一、夢の内容で責めらるのは心外だよ。いっておくけど、ジュリだって夢のなかで僕以外のひととよろしくやってるからね? 実際やりたい放題だったわけだし……昔の話だけどさァ……」
 ぶつぶつ呟いているうちに、ジュリアスの不機嫌は再燃していた。光希は慌てて口を噤んだが手遅れだった。
「私は光希と出会ってから、貴方しか見ていません。判っているでしょう?」
「もちろん判ってるよ。判っていても、後味の悪さが残るんだよ。そういう反応をされると思ったから、これまでいえなかったんだ」
「判っていないでしょう。私をこれほどとりこにしておきながら、貴方は夢のなかの私の振る舞いに、不安を覚えるのですか」
 勁烈けいれつな眼差しに射抜かれる。怒りと悲しみと愛とが複雑にいりまじった目だった。
 光希は醜悪ともいえる、己の不器用さを呪った。咽が乾いていくのを感じるが、誤解を解かなければならない。
「……意地悪ないいかたをしてごめんなさい。僕だって、ジュリと出会ってから、ジュリしか見ていないよ」
「……私を拒まないでください」
 美しい碧いひとみは、押さえつけた炎のような輝きを発している。烈しい恋情の炎に飲みこまれてしまいそうだと思いながら、光希は小声で告げた。
「拒まないよ……愛しているもの」
 青い瞳が喜びに輝く。
「私も愛しています。誰よりも光希を愛しています」
 ジュリアスは光希を抱きしめると、しっとり唇を塞いだ。光希は軽く応じたあと、ジュリアスの肩を掴んで躰を離した。
「光希……」
 不満げな顔を見て、光希は苦笑いを浮かべた。
「ごめん、でも僕ちょっと下半身がそのぅ……とにかく、湯浴みしてくる」
 そういって光希が薄絹を羽織って部屋をでていこうとすると、ジュリアスも後ろをついてきた。
「私もいきます。一緒に湯浴みしましょう」
 ふっと唇に薄い笑みを浮かばせる。
 ため息がでるほど美しい微笑だが、どこか危険を孕んでいて、光希は口元がひきつるのを感じた。
「えっと……でも、時間は平気? でかけなくていいの?」
「光希の方が大切です。どうやら、色々と話す必要があるようですし」
「……はい」
 とても断れる雰囲気ではなかった。