アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 25 -

 朝、目が醒めた光希は腕を陽にかざした。
「ふ……」
 と、ため息ともつかぬものをもらす。
 目が醒めて発疹を確認するたびに、悲しい気持ちになる。気にせずにいられたら良いのだが、そうはできない性分だった。
 暗澹あんたんとなる理由は他にもある。
 召使たちの恋愛事情。ジュリアスに秘匿している恋文(?)。ちっとも減量できない体型。夜毎の悪夢にアーナトラの裁判。クロガネ隊に勤務できない鬱屈などが、目が覚めた瞬間から重くのしかかってきて、とてもじゃないが消化が追いつかない。
 日が経つにつれておりは心に溜まり、今や凝縮された憂鬱となって、心を疲弊させていた。
 隣にジュリアスはいない。忙しくて昨夜は帰ってこれなかったのだろうと思ったが、寝室に軍服姿の彼が入ってきたので驚いた。
「お早う、光希」
「お早う……あれ、いたんだ」
 ジュリアスは寝台に腰かけると、寝ぐせのついた光希の黒髪を撫でた。
「伝えたいことがあって、光希が起きるのを待っていました」
「何?」
 思わず光希は姿勢を正した。
「しばらくくろがねに触れないようにしてください」
「どうして?」
「一連の失踪怪異が、ひとつのくろがねに繋がっていることがほぼ確定しました。影響範囲の調査はこれからになりますが、現段階ではクロッカス邸にあるくろがねも安全とはいいきれません」
「えっと……どういうこと?」
「邸の工房にあるくろがねで、ここ一年間に大カレル・ガレン屑鉄会社から仕入れたものはありますか?」
 光希は視線を斜め上に動かし、しばし思案した。
「……いや? ないかな。燭台はココロ・アセロ鉱山産だし……」
 ジュリアスはわずかに緊張を緩めたが、眼差しはまだ厳しいままだった。
「それでも念のため、私がいいというまで、工房には入らないでください」
 彼の真剣な様子が、光希を不安にさせた。
「大カレル・ガレン屑鉄会社のくろがねだと何かあるの? クロガネ隊は取り扱っているかもしれないんだけど」
「サイードに伝えて、王都工場からの入荷を止めてもらいます」
「クロガネ隊の皆は大丈夫なの?」
「今のところは」
「やっぱり、こんな大変な時に僕だけ休んでいられないよ。クロガネ隊に復帰させて」
 寝台を飛びおりようとする光希の肩を、ジュリアスは強い力で掴んだ。
「いいえ、光希が最優先です。クロガネ隊のことは、サイードに任せておけばいい。光希は、最大限の自衛をお願いします。私のためにも」
 光希は当惑した表情を浮かべた。反駁はんばくせずに黙っているが、不安と苛立ちを表すように、太い眉がぶるぶると震えている。
「光希。いいですね?」
 少々厳しい口調で念押しすると、光希は俯き、しおれていった。
 悄気しょげげさせてしまったことを、ジュリアスはすぐに後悔した。すみません、と謝罪を口にして光希を両腕で抱きしめる。
「窮屈な思いをさせていますよね。あと少しの辛抱ですから、どうかここにいてください」
「……他に選択肢はないんでしょ」
 光希はジュリアスの胸のなかで、抑揚のない声で返事をした。
 一瞬、ジュリアスの躰が強張る。
 不用意に彼を傷つけたと思ったが、光希は顔をあげることができなかった。
「……いってきます」
 ジュリアスは光希の髪にキスをして、静かに立ちあがった。
 凛と気高く、寂しげな背中がいってしまう。光希は焦燥に駆られたが、結局送りだす言葉をかけられないまま、寝室の扉は静かに閉じられた。
 ひとりになると、苦い後悔に浸された。
 ――大切なひとに、冷たくあたりすぎた。
 後から落ちこむくせに、どうして素直になれないのだろう? 一番大切なひとを傷つけて、一体自分は何をやっているのだろう?
 呆れというより、虚無感に襲われた。
 よろよろと寝室着のままバルコニーにでると、空中ブランコにがっくりと腰をおろして、その心地よい抱擁に受け止めてもらった。
 何も考えることができなかった。心が麻痺したようだった。
 薄霞の漂うアール河をぼんやりと見つめる。とにかくただ座って、見つめてた。
 鐘の音が聴こえてくるまで、時が過ぎる感覚も忘れ去っていた。
 そこで茫然とした境地から醒め、昼を過ぎたことにようやく気がついた。
 無気力に過ごす光希と違って、家人たちは忙しそうにしている。ジュリアスに指示されたのであろう、魔除けの薬用緋衣草セージを焚いた揺り香炉を手にさげて、廊下や部屋を清めているようだ。
 そろそろナフィーサが昼餉の支度を始める頃合いだと思い、部屋に戻ると、ちょうど扉を叩く音が聴こえた。
 返事をすると、ナフィーサが入ってきて、手際よく給仕を始めた。
 昼食はどれも光希の好物ばかりだった。料理人たちはいつも素晴らしい腕前を披露してくれる。食事が日々の楽しみであるはずなのに、あまり食欲がわかず、殆ど料理に口をつけなかった。
 食後の紅茶を飲んだあとは、腹ごなしに中庭を歩いた。
 雲にされた淡い日差しに照らされて、石畳みの遊歩道が琥珀色にきらめいている。
 沈んだ気持ちでいたが、新鮮な土と草花のにおい、さわやかな空気を躰にとりこむと、心が軽くなる感じがした。
 顔をあげれば、頬に涼しい風があたり、大きなアカシアの葉陰もその優しい風に揺れている。
 自然の力に癒され、幾分明るい気持ちで工房に入ると、久しぶりに燭台にかけてある覆いをはずした。三つのうち一つはほぼ完成している。残り二つも半ばできており、期限には十分間にあうだろう。
 作業を始めると思いのほか熱中してしまい、いつの間にか夜になっていた。
 夕餉を済ませた後は、また工房に戻って燭台作りに励んだ。
 没頭しているとノックの音が聴こえて、てっきりナフィーサかと思い、手元に視線を注いだまま返事をすると、
「ここで何をしているのですか?」
 振り向いた先に、軍服姿のジュリアスがいた。
 咎める口調に怯みながら、光希は慌てて道具を置いて、席を立った。
「おかえりなさい……展示会の作品を仕上げているんだよ」
くろがねに触れないようにと、今朝注意しましたよね」
 その瞬間、激しい反撥感が光希を襲った。
「邸のなかにいるんだから、いいでしょ」
 低い声で応じると、ジュリアスの麗貌も鋭さを増した。
「光希。軽く考えないでください」
 青い双眸が、冴え冴えとした光を放っている。ジュリアスがその気になりさえすれば、一睨みで光希を黙らせるくらい造作もないのだ。
「仰せの通りにいたします」
 慇懃いんぎんな口調で返事をすると、光希は部屋をでていこうとした。早足でジュリアスの横を通り抜けようとしたが、腕を掴まれた。
「待ってください。すみません……厳しいことをいいました」
 抑制の利いた声でジュリアスが謝罪する。
 光希もおとなげない態度を反省する一方で、正体不明の鬱屈が噴きだすのを感じた。
「……いいよ、別に……散歩してくる」
 掴まれた腕を軽く振って自由を取り戻そうとするが、ジュリアスは力を緩めようとしない。
「離して……ちょっとひとりで考えたい」
 ジュリアスはじっと光希を見つめた。
「何をですか? 貴方を悩ませている問題を教えてください」
 光希は当惑して視線を揺らした。
「……発疹、治らなくて」
「それだけではないでしょう。療養所を慰問してから、ずっと夢見に苦しんでいますね。最近は他にも悩んでいることがあるようですが」
 質問というよりは、既定の事実を述べる口調だった。両肩を掴まれて、正面から目を覗きこまれる。
「ひとりで悩まないで、私も一緒に考えさせてください」
 優しみのこもった真摯な眼差しから目をそらすことができず、光希は弱々しい笑みを浮かべた。
「……ありがとう」
「どのような夢を見るのですか?」
「よく覚えてないんだ。厭だなぁ……って、後味の悪さは残っているんだけど……」
 言葉を濁すと、ジュリアスは光希の肩に置いた手を撫でおろし、力なく垂れた手を両手でもちあげて、優しく上下に揺すった。
「整理されていなくても構いませんから、話してみませんか? 気が楽になるかもしれませんよ?」
「……ありがとう。でも、よく覚えていないんだ」
「まったく?」
「うん……」
 青い瞳に不審の色がにじむのを見て、光希は逃げるように視線をそらす。
「教えてください。貴方の力になりたいのです」
 理性的な声だが、幾分苛立ちが滲んでいた。光希を動揺させている問題を解決してやるという決意が感じられる。
「なんていったらいいのか……うまくいえないんだけど、夢見が悪くて、毎朝ひどい気分で目が醒めるんだ……ごめん、こんな説明しかできなくて……心配かけているって、判っているんだけど」
 ジュリアスは腕のなかに光希を引き寄せた。しばらく、ただ光希を抱きしめていたあとで、躰を離し、顔を両手で手挟み、不安に濡れた黒い瞳をのぞきこんだ。
「貴方の目が醒める時には、必ず私が傍にいます。この腕に抱きしめて、キスをして、悪夢の露を払ってあげる」
「……うん。ありがとう」
「些細なことでも構いません。不安に思うことがあるなら、教えてください。貴方より大事なものなんてないんです」
「……」
 顔を固定されたまま光希が視線をそらすと、ジュリアスはキスで口を塞いだ。
「ん……っ」
 優しく唇を食んで開かせ、思い遣りをこめて舌を触れあわせてきた時、光希は身震いした。反射的に軍服の襟を掴むと、後頭部に掌を押しあてられ、くちづけはさらに深まった。甘く貪られて、心をとろかされていく。
 愛されているという確信が光希の心を満たし、束の間、全ての問題を忘れた。彼が傍にいてくれる限り、どんな問題も解決できるのだと思えた。
 長く濃厚なキスが終わり、そっと目をあけると、ジュリアスはぞくっとするほど煽情的な表情をしていた。
「……いっそ夢を見ないほど、激しく抱いてあげましょうか?」
 艶めいた美貌がおりてきて、視界が絢爛けんらん金碧きんぺきの色調に包まれる。
 甘い誘惑に惹き入れられながら、光希は返事を躊躇った。そうしてほしいと思うのに、根深い肉体への自信喪失が官能の気持ちに影を射す。
「……具合があまりよくないんだ。ごめんね、心配ばかりかけて」
 表情を曇らせる光希は、図らずも本当に具合が悪そうに見えた。
 ジュリアスは残念そうな、或いは心配そうな様子で、光希の肩をいたわりに満ちた仕草で抱き寄せた。
「……謝らないで。もう休みましょう」
 額に優しいキスを受けながら、光希は後ろめたい安堵を覚えた。
 優しいジュリアス。いかなる時も忍耐強く、愛情深く、揺るぎなく、視線のひとつにも無限の敬愛と支持がこめられている。
 彼に我慢を強いていると判っているのに――応えてあげられない自分に幻滅しながら、光希は黙って寝室に入った。
 部屋は心地よく温められていた。召使いが暖炉におこした炭を入れたのだろう。
 ジュリアスが寝支度をしている間に、光希は褥に寝転んで目を閉じた。とりとめのない考え事をしていると、照明が陰り、分厚い緞子どんすをめくってジュリアスが入ってきた。光希の隣に潜りこみ、背中からそっと抱き寄せる。
「おやすみなさい」
 つむじに唇をつけたまま彼が囁くと、光希も同じ言葉を囁いた。
(どうか悪夢を見ませんように……)
 毎夜の日課となった祈りを心に唱えて、光希は躰を弛緩させた。
 間もなく、静かな寝息をたて始めた光希の隣で、ジュリアスはなかなか眠れずにいた。
 無垢な寝顔を見守りながら、欲望がもたげてくるのを感じる。彼特有の、なんともいえない甘くていい匂いがする。こんなにも近くにいるのに、触れられないのだ。
 今夜に限らず、ジュリアスが少しでも情欲を向けると、光希は逃げようとする。一度きりであれば、気に留めるほどではないが、連日となると話は違ってくる。
 もう幾日光希を抱いていないだろう?
 発疹を気にしているようだから、治るまでは……そう自分にいいきかせているが、そろそろ我慢の限界だった。
 先日はとうとう飢渇きかつを言葉にだして示したわけだが、結果半分も満たされなかった。全く触れられないよりいいと思ったが、今となっては判らない。我慢の辛さが余計に身に沁みるように感じる。
 夢見が悪いと打ち明けてくれたが、その内容を、本当に覚えていないのだろうか?
 ――なぜ話してくれないのだろう?
 教えてくれさえしたら、どのような障害であろうと力を貸せるのに……抱けないこともそうだが、それよりも彼に頼られないことが辛い。距離を置かれていると思うと、胸の奥処おくかに黒い不安が芽生える。視線をそらされるたびに、くちびるを奪って、声も、呼吸も、眼差しもすべて自分のものにしたくなる。
 ――なぜ教えてくれないのだろう?
 犀利さいりな思考回路をもつジュリアスだが、光希に関しては、時に堂々巡りをしてしまう。
 確かに光希は夢見に悩んでいたが、そのことで、ジュリアスもまた悩んでいた。