アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 23 -

 夜毎よごとの悪夢は続く。
 夢だと理解しているのに、目を醒ますことができない。ジュリアスが他の女性に――シェリーティア姫にくちづけている光景から、目をそらせない。夢だと判っていても、胸がはりさけそうなほど辛かった。
(もうたくさんだ、これ以上見たくない! 早く醒めろ!)
 全身全霊で拒絶して、大声で叫んでいるのに、ジュリアスに届かない。どんなに手を伸ばしても、幻影のように遠ざかっていく。
 暗鬱あんうつな混乱のなか、目を醒まそうと焦る。
 必死の思いで、己を悪夢に縛りつけている不可視の引力から逃れ、慄然りつぜんと跳ね起きた。
 心臓が激しく鼓動を打っている。
 なんて忌まわしい夢――目が醒めた今も真に迫る恐怖を感じている。
「僕の想像力が逞しすぎるのか……」
 額を掌で押さえると、冷たい汗が滲んでいた。
 隣を見やると、ジュリアスは深い眠りに就いている。連日の疲労が溜まっているのだろう。
 光希は静かに寝台をおりて、室内履きをひっかけた。あたりはまだ暗く、手燭を灯して寝室をでると、居間の壁にかけてある丸鏡の前に立った。そして総毛立つ思いに襲われた。
 発疹が顔全体に拡がっている。
 とうとう悪夢が現実になってしまった――
 冷たい絶望感に浸されて、唇をかたく結んだ。感情が千々に乱れて、こらえきれなくなった涙が溢れだしてきた。
 もうすぐ夜が明けるというのに、心は闇よりなお昏い晦冥かいめいに沈んでいる。
「……光希?」
 はっとして顔をあげると、鏡のなかでジュリアスと目が遭った。
「ごめん、起こしちゃった?」
 慌てて涙をふいて、振り向こうとした。
「泣かないで……」
 温かい胸のなかに抱き寄せられた瞬間、全身から力が抜け落ちそうになった。けれども、身をよじって優しい抱擁から逃げた。
「触らない方がいいよ。伝染うつるかもしれない」
「平気ですよ。私は病にかかりませんから」
 そういってジュリアスは、再び光希を抱きしめようとする。
「だめだよ、触っちゃだめだ」
 神の恩寵をたまわる彼ならば、病理とは無縁なのかもしれない。それでも光希は、触れられることが恐ろしかった。
「光希。私が血を流すのは、くろがねで切られた時だけです」
 ジュリアスは光希の両手首を掴み、目を見つめて断じた。
 きっぱりと告げられ、光希は藻掻くのをやめた。胸のなかに抱きしめられながら、悄然しょうぜんと項垂れた。
「……やっぱり僕は、何か酷い病気に罹ってしまったのかな……?」
「そんなことありませんよ。一時的なものだと医師もサリヴァンもいっていたでしょう?」
「……」
 光希は返事を躊躇った。
 この世界に驚嘆すべき神秘的医療があることは知っているが、異界からきた光希に、それらが正しく機能するかは以前から不安に思っていたことの一つだった。
 心が弱っている時は、悪い妄想を過度に敷衍ふえんしてしまうもの。そう自分にいい聞かせても、止められない。彼等には一般的な治療法であっても、光希に等しく作用するとは限らないのだ。
 不安が鉛のように胃に沈みこむ。発疹の正体が判らず、漠然と、不透明な靄のなかを漂っているような暗鬱な気分にさせられる。
 ジュリアスは光希の髪をそっと撫でた。掌が顔におりてくるのを察して、光希は顔を背けた。
「やめて……」
 両腕を伸ばして躰を離そうとするが、ジュリアスは強引に腕を掴み、胸のなかに抱きしめた。
「顔には触らないで」
 光希は腕をつかって暴れるが、ジュリアスはたくみに抑えこんだ。
「シィ、大丈夫だから、泣かないでください」
「泣いてないから……離れて」
 みっともないところを見せたくないという純然たる矜持きょうじから、光希は唇を噛み締めた。嗚咽を呑みこみながら、論理的に考えようと努力する。けれども発疹の正体が判らず、心底怖くて、たまらなく不安だった。
 このまま全身に広がり、膿みただれてしまったら――人前にでられなくなるかもしれない。ジュリアスと並んで歩けなくなるかもしれない。
「……どうしよう、治らなかったら、本当にどうしよう……っ」
 一筋流れた涙が、寝室着の襟元にしみこんでいった。
「シィ、泣かないで……大丈夫ですよ、光希、必ず良くなりますから。そんなに悲しまないで……」
 ジュリアスは涙に濡れた光希の頬を両手で手挟み、上向かせた。瞼のうえにそっとくちびるを押しあて、涙を優しくぬぐいさる。
「サリヴァンも話していましたが、光希の発疹は心理的な要因が大きいと思います。夢見が辛い朝は特に顕著に見えるのですが……今夜はどのような夢を見たのですか?」
 光希は戸惑ったように視線を揺らした。
 沈黙が流れる。
 寝ぐせのついた黒髪を撫でてやりながら、ジュリアスはもどかしさを噛み締めた。光希の発疹は、悪夢に対する拒否反応、或いは防衛本能の顕われのように思う。そしてそれは、アッサラームで起きている一連の怪異とつながっている。
 必ず根本要因を絶ってみせる。
 だが、それまで光希が苦しむのだと思うと辛い。せめてどのような悪夢を見ているのか話してくれたら、彼の不安や恐怖を分かちあえるのに……
「……ねぇ、光希。もし良ければ、どんな夢を見たのか話してみませんか?」
 ジュリアスは、ことのほか優しく囁いた。黒髪を梳いて額にくちづける。
「少しは気持ちが楽になるかもしれませんよ」
 黒い瞳を覗きこむと、一瞬ちらりと痛ましい表情が浮かんだ。
「……よく覚えてないんだ。嫌な夢を見たっていうことは判るんだけどね。夢見が悪いのは、邸にとじこもっているせいかも」
 少し棘のある口調は、回答を避けたい本音を糊塗ことしているように響いた。
「光希……」
「僕のことはいいよ。それより、アーナトラさんの裁判は、進展あった?」
 ジュリアスは内心でため息をついた。彼にはあまりにも心配事が多すぎる。それも悪夢の要因の一端であることは間違いない。
「いいえ、中断されたままです。ですが、のみの精密鑑識は終わりましたよ。人に危害を与えた痕跡はないと証明されました。のみとそれを使った彫り物も、祓い清めることを条件に出荷を認められたので、裁判が終われば、アーナトラは営業再開できるでしょう」
「そう、良かった……アーナトラさんは、どうしている? まだ軍の勾留所にいるの?」
「いえ、鑑識結果がでましたので、神殿に移送されました。外出はまだ制限されていますが、監視は緩和されましたよ」
「でも工房には戻れないんだね」
「そうですね。裁判が終わるまでは難しいでしょうね」
 いささか淡々といいすぎたかもしれない。唇を歪ませている光希を見て、ジュリアスは柔らかい声音を意識して、こう続けた。
「少しずつですが、好転していますよ。彼が工房に戻れる日も、そう遠くはないでしょう」
 光希は頷いたが、心に粘りつくような厭な感じが残った。そのせいか、ジュリアスが顔を近づけると、唇が重なる前にさっと躰を離してしまった。
「……寝ようか。起きるにはまだ早いよ」
 いいわけがましい、体の芯から疲れたというような声色だった。
 ジュリアスは光希の頑なさがもどかしかったが、黙って彼の後ろを歩いた。
 己が傷つくぶんには平気だが、光希には辛い目にあってほしくない。彼が傷ついていると思うだけで動悸がする。早急に解決したくて、教えてくれるまで問い詰めたくなるが、このやり方は光希には逆効果なのだと判っていた。