アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 22 -

 光希は見てしまった――ベルテの婚約者、アリが別の娘とキスしているところを。
 クロッカス邸に仕える、浴室担当の十六歳のベルテと、二十歳の厩舎勤めである好青年アリが、今年の初めに婚約したことは、クロッカス邸では周知されている。
 光希はベルテ本人から聞いた。日頃からよく彼女と話をするので、自然とアリの話も聞いていたのだ。来年には結婚するのだろうと思っていたふたりだが……アリが違う娘、デジーとキスをしているところを昨日、偶然、目撃してしまった。
 その時の光希の衝撃は凄まじく、咄嗟に物陰に身を潜めてしまった。
 邸のあるじであるにも関わらず、誰にも見つからぬよう、忍びの如く慎重に私室に戻ったのである。
 ベルテは親近感を覚えるむっくりとふとった体型をしており、気立ての良い娘だ。
 新顔のデジーと話したことはないが、ほっそりと華奢で美しい顔立ちの娘だと思う。
 クロッカス邸でまさか浮気現場を目撃してしまうとは……時間を持て余してはいたが、このような刺激は欲しくなかった。
 昨日目にしてから、ずっと考えている。ベルテは優しい良い娘なので、幸せになってほしい。よもや青年アリが外貌の美しさにデジーに目移りしたのだとしたら、腹立たしいことである。
 ここは一つ、アリに忠告すべきだろうか?
 それでアリが思い直してくれたら、万事解決するだろうか?
 ベルテはどうだろう?
 アリが目を醒ましてベルテに心を戻すなら、彼の浮気など知らぬ方が幸せだろうか?
 婚約者が浮気していると知ったら、傷つき悲しむに決まっている。アリが心底悔いて赦しを乞うたとしても、受け入れられないかもしれない。
(……でも、後になって人から聞くより、本人から聞く方がマシなのかなぁ)
 光希の経験談である。
 右も左も判らぬまま公宮にやってきて、その実態をルスタムから聞いた時、視界が真っ暗になり、地面の底が抜け落ちるような衝撃を味わった。その後はもう、拗れに拗れた。ジュリアスはすぐに己の公宮を解散したけれど、光希はなかなか許す気持ちになれず、幾日も苦しんだ。
 嫉妬で胸を痛めた記憶があるだけに、どうすべきか迷う。
 硝子温室で紅茶を飲みながら煩悶はんもんしていると、ちょうど召使い棟の方へ歩いていくベルテを見かけたので、思わず後を追いかけた。
「ベルテ! ちょっといいかな?」
 ぱっと振り向いたベルテは、驚いた顔つきで駆け寄ってきた。
「これは殿下。何か御用でしょうか?」
 ベルテは緊張気味に訊ねた。
「あ、その~……ごめんね、急に呼び止めたりして」
「なにか、粗相がありましたでしょうか……?」
 叱責に身構えるベルテを見て、光希は慌てた。
「違うよ、怒っているわけじゃないんだ。えーっと……」
(しまった、何ていおう。万が一勘違いだったら、どうするんだ? いや、あれはどう見ても……しかし、先にアリに事実を確認する方が先なのでは?)
 つい声をかけてしまったが、早まったかもしれない。早く言葉を発しないと、ベルテを不安にさせるだけだ。
 目まぐるしい逡巡の果てに、光希は言葉を飲みこんだ。
「え~っと……美味しいお菓子があるんだ。すぐ持ってくるから、ここにいて」
「あの、殿下」
 呼び止める声を無視して、光希は硝子温室に向かって走り、菓子の入った籠ごと掴んでベルテの元に舞い戻った。
「おまたせ! 良かったら、アリと一緒に食べて」
 にこっと光希は、籠ごとさしだした。かなり不自然な言動だったが、ベルテは感激した様子で目を輝かせた。
「まぁ! ありがとうございます、殿下。なんてお優しいのでしょう。きっとアリも喜びますわ」
「いいんだよ、あはは……」
 朗らかに笑っていたベルテは、ふいに緊張した様子で表情をあらためた。
「殿下、急なご報告で誠に恐縮なのですが、明日からしばらく、里帰りさせていただくことになりました」
「えっ、そうなの? いつ戻ってくるの?」
「二十日ほどで戻ります。実は、母の姉が熱病で臥せってしまい、母はすっかり元気をなくしているようなのです。傍にいてあげたくて……個人的な事情で申し訳ありません」
 光希は同情の眼差しでベルテを見つめた。
「そんな、謝らないで。気にせず、ゆっくり里帰りするといいよ。ベルテのお母さん、きっとベルテの顔を見たら喜ぶと思う」
 ベルテは感極まった表情で、瞳を潤ませた。
「お優しい殿下。なんてお優しいのでしょう。ありがとうございます、今のお言葉を聞けば、母もきっと感激いたしますわ」
「いや、そんな……うん、お母さんによろしくね。アリは知っているの?」
「はい。昨日伝えました」
「そっか……アリは、何て?」
「心配していました。彼は伯母とも面識があるのです。アリの分まで滋養に良いものをたくさん買って、伯母と母に食べさせますわ」
「そうか。うん、そうするといいよ」
「ありがとうございます、殿下」
 丁寧にお辞儀をして去っていくベルテを、光希は優しい表情で見送った。
 ――結局いえなかった。
 家族を心配して帰郷しようとしている娘に、婚約者の浮気話などとても話せない。
 しかし、昨日光希が浮気現場を目撃したのは、昼過ぎである。ベルテは昨日のいつ、アリに帰郷の話をしたのだろう?
 よもやアリが落ちこむベルテを慰めながら、何喰わぬ顔でデジーと逢瀬していたのだとしたら、腹立たしさ千万せんばんである。
(……あのふたり、もしかしたら別れちゃうのかな)
 仲睦まじいふたりの様子が脳裡に思い浮かび、遣る瀬無い気持ちになる。
 落ちこんだ気分で工房に向かうと、翡翠より艷やかな緑釉りょくゆうの湯呑と、薄紫色の酒瓶をとりだし、気に入りの焼乾酪チーズ、乾燥果実、茱萸、塩漬けの木の実をさかなに、ちびちび飲み始めた。
 全く――アリは何を考えているのだろう? ベルテという婚約者がいるのに。気が変わってしまったのだろうか? 細くて綺麗な娘に、心を奪われてしまったのか?
 己に重ねて、卑屈にもそんなことを考えてしまう。
 ふと思いたち、写字台の引出しの錠を開けて、文箱を取りだした。
 療養中は普段にも増して色々な人から文が届く。アンジェリカは特に細かやかで、もう三通も書いてくれている。そのうちの一つをとりだし、読み始めた。
 療養中の光希を案じる冒頭に始まり、己の近況報告と、それからナディアとの別れについてこう触れている。

“……愛には色々な形があるのですね。私はナディアさまと添い遂げることはできなかったけれど、愛おしい幸せな記憶が損なわれるわけではないのです。ふたりで過ごしたいくつもの午後と陽差しの柔らかさ、紅茶の香りも味も、ふたりで見た景色も、全部覚えています。
 いつか、ナディアさまといっしょに座って、お互いに、在りし日を笑いあえたらいいなって思います。
 懐かしいねって、楽しかったねって……もっといえば、あの日は楽しかった、じゃなくて、あの日も楽しかったねって、笑いあえるようになりたいのです。
 これからもずっと大好きな人です。彼に恋をして、私はとても幸せでした。こんなにも誰かを好きになれるのだと、彼が教えてくれたのです。
 この気持ちは宝物です。もう、見返りを求めたりしません。この思いは、贈り物なのです。
 ナディアさまが真摯にお話してくださってよかった。今は心からそう思えます。
 彼が、私に同情して添い遂げたとしても、きっと芯の意味では、ふたりとも幸せになれなかったと思います。
 全てのひとがこのように思うかはわかりませんが、私は、今の私が結構好きなのです……”

 もう何度か読み返しているのに、うっかりすると、涙が滲んできそうになる。
 彼女は、この心境にいたるまで、どれほど涙を流したのだろう。
(強くなったなぁ……)
 よく知っているはずの天真爛漫であどけない少女が、いつの間にか、知らない女性になったように感じる。初めて言葉を交わした日から、もう四年の月日が流れたのだ。
 ……ベルテとアリも、これから長い人生を共に歩んでいくのなら、今回の件に蓋をせず、ふたりで話しあわなければいけないのかもしれない。
 酒は弱い方なので、二杯目あたりで思考に霞がかった。軽い恍惚感と、躰を炙る灼熱とが、思考を鈍らせていく。
 朦朧としてくる意識の状態を楽しみながら、三杯目に手をのばしたところで、杯を奪われた。あれ? と振り向くと、すぐ傍に寝室着姿のジュリアスがいた。
「飲みすぎですよ」
 きょとんと赤らんだ顔を見て、ジュリアスはたしなめた。
「お帰りなさい、ジュリも呑む?」
「頂きます」
 ジュリアスは一口含んで、微笑した。
「貴方好みの、甘い味ですね」
「美味しいでしょ? アルシャッド先輩がくれたんだよ。自家製の発泡林檎酒だって」
「甘いけれど、度数は割と高めですね。何杯飲んだのですけか?」
「まだ二杯だよ。いいでしょ、どうせ明日も休みだし……」
 手を伸ばして緑釉りょくゆうの杯を取り返そうとすると、ジュリアスはさらに手を遠ざけた。
「少し休憩しませんか?」
「飲みたいのー」
 子供みたいな口調に、ジュリアスは低く笑った。
「では向こうで飲みましょうよ」
 腕を軽くひっぱられ、光希は立ちあがった。さかなの器も忘れずに持ち運ぼうとするのを見て、ジュリアスはナフィーサを呼んだ。運ぶよう指示しながら、光希の腰を抱かえて二人の部屋へ入っていく。
 絨毯のうえにクッショを積み重ね、ジュリアスは光希を抱えたまま、腰をおろした。ひざ掛けを彼にかけてやり、抱きしめながら手酌で林檎酒を注ぐと、半分以上飲み干してから、光希に渡した。
「これで最後ですよ」
「ん。ありがと」
 光希は半睡状態だった。心地よい酩酊感に浸され、ジュリアスにもたれたまま、目を閉じる。
「何かありましたか?」
「ん?」
「貴方が深酒するのはめずらしいから」
 光希は返事に詰まった。
 ――相談してみようか。
 しかし、いったが最後、容赦なく強制解決されそうだ。過去に起きた公宮騒動では、ジュリアスは早急に解決してくれたものの、その結果大勢が公宮を去っている……ベルテとアリの場合、クロッカス邸を追放されたりしないだろうか?
「……ただの気分転換だよ」
 結局、当たり障りのないいいわけを口にした。
 ジュリアスはじっと光希の目を覗きこんだ。探られて気まずいのと、酔った勢いに身を任せて、光希はジュリアスの頬にちゅっとキスをした。するとジュリアスもお返しに光希の頬にキスをする。
「ふ、顔が真っ赤ですよ」
 優しく微笑しながらジュリアスは、光希の手から杯を受け取り、紅い顔を覗きこんだ。
「そろそろ寝ますか?」
「ん……」
 光希は両腕をジュリアスの首に巻きつけた。
 火照った肌がじかに触れ、ジュリアスは不意に湧きあがった衝動を抑えこみ、衣の乱れを直してやった。酩酊している光希を襲う真似はしたくない。
 けれども寝台におろした時、光希は唇をぴったりと重ねてきた。それまでかろうじて支えていた自制力が、溶けそうに崩れゆくのを感じた。
「酔っているでしょう?」
「ん……」
 腕を掴んで光希を離すと、眠たそうな黒い目がじっと見つめてきた。
「人が我慢しているのに、そんなかわいい真似をして。襲われてもいいんですか?」
「……よくない、寝る」
 光希は気まずそうに呟くと、寝台に突っ伏した。筒状の枕を抱えて、もぞもぞと寝いる姿勢を整える。
「よくないって、もう……」
 ジュリアスは光希の頭の横に手をついて、覆いかぶさるようにして、顔を覗きこもうとした。視線を避けて、光希は枕に顔をうずめる。
「やっぱり、何かあったのではありませんか? 様子が変ですよ」
「……」
 しばらく待ってみたが、返事がないので、ジュリアスは胸の裡で密かにため息をついた。
「……お休みなさい」
 小声で囁いて、光希の隣に潜りこむ。暖かく柔らかい躰を背中から抱き寄せ、静かに目を閉じた。