アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 21 -

 クロッカス邸。
 碧空へきくうのした、中庭に面した露台の木陰で光希は涼んでいた。
 木の葉にされた午後の陽射しが噴水を照らし、小鳥たちは気持ちよさそうに水遊びをしている。水は青くきらめいて、噴水の底とその周辺には、星の砂を思わせる白い砂粒が撒かれ、なんとも涼しげだ。
 ひんやりした水の囁きとこずえのそよぎ、小鳥のさえずりの音楽的な響きを聴きながら、寝釈迦ねしゃかのようにごろんとし、ものうい思いで中庭の景を写生している。
 ちまたの戦慄とは無縁に、壺中天こちゅうてんのなかで微睡むみたいに、光希だけが独り平和を貪っている。
 日頃の忙しさが嘘のような濫費らんぴで、仕事をしているクロガネ隊の仲間や、勾留されているアーナトラを思うと、申し訳ない気持ちになる。
 優雅に寛いでいても気鬱は晴れず、そのうち思考も朦朧となり、うとうと眠りに落ちた。
 平和な静寂しじま
 微風は梢を揺らし、水鳥がどこか遠くでさえずっている。
 微睡みながら、優しい声……ナフイーサとジュリアスの声を聴いた気がした。
「ん……」
 目が醒めた時、温もりに寄り添っていた。躰に上着がかけられている。顔をあげると、碧眼がふっと笑う。
「おはよう」
「……おはよう、お帰りなさい」
 金髪が、一瞬顔のまわりで燐光みたいな光を孕んだよう思われ、光希は己の目を疑った。
 空は黄昏めいて、金色に燃えあがっている。思ったよりも午睡を貪ってしまったようだ。
「よく眠れましたか?」
 前髪優しく撫でられ、額にくちづけられた。ジュリアスが身を起こすのにあわせて、光希は目をこすりながら躰を起こした。
「ん。寝ちゃった……ジュリ、いつきたの?」
「少し前です」
「起こしてくれて良かったのに」
 斜陽を浴びて鹿毛かげ色に縁どられているジュリアスを、光希は目を細めて見つめた。
「気持ち良さそうに眠っていたから、起こすのは忍びなくて」
「今日は早いんだね」
「ここのところ、祝日も返上で仕事をしていましたから、今日は早めに解散しました」
「お疲れ様」
 ジュリアスはほほえむと、光希の傍にある、木製画板に留められた画用紙をのぞきこんだ。
「上手に描けていますね」
 ジュリアスは感心した風にいった。
 画用紙には鉛筆で、噴水で戯れる小鳥の様子が写生されている。
「落描きだよ」
 光希は照れたように答えた。
「光希の見る景色……世界は素敵ですね。天衣無縫の御業としか思えません」
 嘆賞のこもった口調でいわれて、光希ははにかんだ。
「ありがとう」
 少々照れくさいが、彼の、惜しみない心からの賛辞は嬉しかった。
「そろそろ冷えてきましたね。なかに入りましょう」
 手を引かれて立ちあがった光希は、甘えて抱きついた。
「ちょっと散歩しようよ」
 抱きついたまま長身を仰ぎ見ると、ジュリアスはほほえんで、光希をぎゅっと抱きしめ返した。
 ふたりは連れたって華やかな最後の夕陽に照らされながら、小鳥の歌の充ちた中庭を歩いた。
 様々な緑色の香草にまじって、目にもあやな薔薇が咲き、薄紫のクロッカスや白い素馨ジャスミン、金仙花のだいだいが色の調和を織りなしている。
 新鮮な草花の薫りのなか、会話も少なく、ただ並んで歩いた。
 夕星ゆうずつの瞬く、昏れなずみ。
 灼熱の太陽が、白樫しらかしの向こうに沈んでいく。

 同日。逢魔が時。
 カタリナ精機製作所。
 西日の射す工場で、男は裁断機の仕上げをしていた。精機製作を三十年続けている熟練工で、老境にさしかかりつつあるとはいえ、心身共にまだ衰えていない。律儀に精をだし、なにごとにも丁寧でそつがないので、工場長の信も厚かった。
 男は、今手掛けている裁断機に、妙な胸騒ぎを覚えていた。最初は、製鋼と溶接の組みあわせに原因があるのかと疑い、丹念に調べたが異変は見つからなかった。だが、何かがおかしい。
 魂の宿る刃はこれまでにも何度か目にしてきたが、これは異質な気がする。
 触れていると気が滅入ってくる……一日が終わる頃にはぐったり疲れていて、寝に就く時も安らぎではなく、奇妙な胸騒ぎに浸されるのだ。
 自分はこんな風に精神を病むような性質ではない。それなのに、ここのところ何かがおかしい。
 間もなく完成だというのに、何かが決定的に欠けている気がする。
 仕事に手抜かりはない。裁断機は一点の歪みもなく、塗装も艶々と輝いている。だというのに、葬斂そうれんのように陰気だ。
 なぜだろう――
 考えながら黙々と作業していた男は、ついに手を止めた。螺子をしめる工具を机に置くと、まっすぐに工場長のいる事務所に向かった。
 厚い鉄板を貼った扉を叩くと、入ってくれ、とすぐに声がかけられた。
「失礼いたします」
「どうした?」
 工場長は手にしていた書面を置いて、顔をあげた。鼻は大きく、唇は薄くて目つきは鋭い。小柄だが、全身に力が漲った五十過ぎの男だ。浮浪児同然の暮らしから這いあがり、一代でカタリナ精機製作所を築きあげた傑物である。
 年若い従業員は彼を恐れているが、彼が思い遣りのある人格者であることを、男は長年のつきあいから知っていた。
「工場長、あの裁断機の製造はやめた方がいいかもしれません」
「なぜだ?」
 訝しげに工場長が訊ねた。
「あれはどうもおかしい。よくないことが起きる気がするのです。俺もうまく説明できないんですが……あれに触っていると、まるで得体のしれない凶器を作っているような気分になるのです……」
 妙なことを口走っていると男は思ったが、いっそ全て話してしまおうと、ここ最近の体調不良や、工場で起こる奇っ怪な出来事なんかも全て話した。
 一通り聞き終えた後、工場長は困惑したように腕を組んでいった。
「組合仲間からも失踪者がでているみたいだし、気が滅入るのも解る……だがなぁ、なんとか納期に間にあうよう、頑張ってくれないか」
 彼は席をたつと、男の目の前にやってきてこういった。
「今度の組合供儀くぎに、うちも参加しようと思う。そうすればけがれも祓えるだろう」
 励ますように肩を叩かれ、男は押し黙った。証拠もないのに、これ以上の説得は難しかった。
 とぼとぼと作業場に戻りながら、暗鬱な気持ちに浸されていた。
 こうなれば、さっさと完成させて納品してしまう。そう思いながら作業場に入った時、ぎくりと足を止めた。
 一点の曇りもなく研ぎすまれたくろがねが、採光窓の斜陽をもらい受けて冷たく輝いている。魔的な信じがたいかがやきのなかに、血のような緋色を見た気がしたのだ。
 しかしそれは、夕日が映ったに過ぎなかった。