アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 16 -

 四月十八日。祝日の午後。
 あいにくの曇空だが、光希は軽快な四頭立て馬車のなか、期待と興奮に胸を膨らませていた。対面にはケイトとアルシャッドが座っている。これから三人で、アーナトラの工房を訪ねるのだ。
 この日の光希は、乳白色の外套、銀糸のヴェスト、黒繻子の下衣と長靴下、飴色の長靴をあわせていた。
 ケイトは目の色にあわせた深緑色の上下に、焦げ茶の革靴姿。日頃服装に頓着しないアルシャッドも、上品な縦縞の長衣に青いタイと銀鎖を飾り、実に瀟洒しょうしゃな格好をしている。
 ふたりともよく似合っている。普段は木屑や鉄屑にまみれて薄汚れているが、今日はきちんとした身なりの貴公子に見える。
 天気は今ひとつだが、アーナトラの工房は郊外のはずれにあり、車窓から見える景色は美しかった。
 一望てのない葡萄畑を通る際は、滴る雫のような粒が光る景を眺めて楽しみながら、甘く芳醇ほうじゅんな香りを味わった。 
 四方山話よもやまばなしで盛りあがっているうちに、馬車は目的地に到着した。
 工房は、アーナトラ自ら設計した煉瓦作りの立派な建物で、真鍮の看板に“アーナトラ工房”の文字が刻まれていた。
 菱形の色硝子の嵌った扉に、獅子を模した銅製のノッカーがついており、アルシャッドが鳴らして間もなく、アーナトラ本人が顕れた。
「ようこそいらっしゃいました」
 彼は心のこもった挨拶でねんごろに出迎えると、大きく扉を開いて三人を招き入れた。
「素敵な玄関ですね」
 ケイトが心から感心した風にいった。光希もアルシャッドも同感で、広々とした玄関空間を見回した。
 優しい桜鼠さくらねずの化粧漆喰しっくいの壁に、品の良い風景画が幾つか飾られている。
 硝子の嵌った棚には目を引くものがたくさんあり、松脂まつやにの艶に煌めく大きな天球儀や、琥珀に閉じこめられた羽虫、貝の痕が刻印された貴石などなど――いずれも、古物愛好家であるアーナトラの趣味なのだろう。
 廊下に配置された調度にも、黒檀こくたん彫刻や白鑞しろめの角燈、楽器等が飾られていて、光希たちは興味深く眺めながら歩いた。
 工房には大勢の弟子がいて、槌音つちおとを響かせていた。
 クロガネ隊の工房には及ばないが、十分な広さがある。高い天井に冷光灯が並んでいるが、採光窓がたくさんあるので、さんと明るい。
「ようこそ、おいでくださいました」
 と、優しげな風貌の青年がやってきて、光希たちにそれぞれ花籠を手渡した。籠に真鍮の板がついており、アーナトラ工房の文字が刻印されている。なかには黄色の花と、木工細工の小物が入っているようだ。
「素敵な贈りものを、ありがとうございます」
 光希がにっこり笑顔でいうと、青年は紅くなってはにかんだ。
「お会いできて、光栄に存じます。どうぞ、ゆっくり見ていってください」
「ありがとうございます」
 いつの間にか他の職人たちも手を休めて、興味深そうに光希たちの方を見ていた。
 アーナトラは一つ手を鳴らして注目を集めると、
「さあ皆、普段通りに仕事してください。クロガネ隊の方が見ているからといって、気を抜いたり張ったりしないように」
 穏やかに一喝した。
 すると、そわそわしていた職人たちも表情を引き締め、手元に集中し始めた。
 職人たちが仕事をしている様子を、光希たちは、本当に近くで見ることを許された。
 神代かみよの昔より、工房というのは神聖な領域だ。
 朋輩ほうばいの職人が日々研鑽けんさんを積む場であり、想像から創造される場である。全ての工房には歴史があり、背景があり、連綿と受け継がれてきたたくみの魂が息づいている。
 それらを間近に眺め、音を聞き、体感できること。最高の職人であり総責任者であるアーナトラから、懇切な説明を聞けることは、本当に幸運なことだった。
 しかも彼は話上手なので、光希たちは心から楽しむことができた。アーナトラの方も、見学者たちが目を輝かせながら工房を見て回る様子を、満足そうに眺めていた。
 やがてアーナトラは、飴色に輝く調度の前に三人を連れていった。瀟洒しょうしゃな衣装箪笥や椅子が並んでいる。
「どれも素晴らしいですね。これから出荷されるのですか?」
 ケイトが訊ねると、アーナトラはほほえんだ。
「ありがとうございます。ここにあるものは、市場には卸しません。懇意のお客様から受注を頂いて、特別にお作りしているものなのです」
「そうでしたか。アーナトラ工房で家具一式をそろえるなんて、贅沢ですね」
 ふたりの会話を聞いていた光希は、思わず口を挟んだ。
「うちの庭は、アーナトラさんに造ってもらったんだよ」
「そうでしたね! さすがです、殿下。クロッカス邸が“うち”なんですものね……すごすぎる」
 ケイトは感服していった。
「いや、僕は何もしてないよ。ジュリがお金をだしてくれて、ルスタムとアーナトラさんが頑張ってくれたんだ」
 ね? と光希がルスタムを振り向くと、ルスタムは苦笑を浮かべながら頷いた。
 六年前、遠征中のジュリアスに代わって、アッサラームの新居建設に奔走していたのは、ルスタムだ。その際、庭園建築家としても有名なアーナトラが、クロッカスの咲く美しい庭園を手がけたことは、有名な話である。
「造園集でもクロッカス邸は紹介されていましたね。俺も読みましたよ。遠出せずとも、散歩にちょうどよいお庭があって素敵ですね」
 アルシャッドの言葉に、光希は笑顔でうなずいた 。
「本当にそうなんです。ぜひ遊びにきてください……といえたら良いのですけれど」
「公宮に踏み入る勇気はありませんよ」
 アルシャッドが笑う。
 和気藹々わきあいあいと雑談しているさなか、光希はふいに悪寒に襲われた。
 はっと視線をめぐらせ、磨きあげられた美しい意匠棚に目を留めた。
「……あれもアーナトラさんが作ったのですか?」
 アーナトラの顔がほころんだ。
「はい。少女の寝室に置くと聞いて、花と鳥の意匠に、真珠を象嵌ぞうがんしました。自分でも気に入っている一品です」
 嬉しそうに説明するアーナトラに、光希はぎこくちなく笑み返した。
 飴色に輝く美しい意匠棚は、しっとりとして潤いがある。縁に繊細な花の彫刻が施されており、離れて眺めると、仄かな濃淡が浮きあがって見える。
 ――見事だ。
 いくら技を磨いても、及ばぬ領域がある。神によみされし者に赦される上位次元。
 このような類稀たぐいまれ天賦てんぷの才には、めったにお目にかかれない。
「形も色も美しいですねぇ」
 穏やかに感想を口にするアルシャッドを、光希はちらりと見やった。
 天才がここにもいた。
 時には畏怖すら感じる、はるか高みに存在する装剣金工の師であり、憧憬であり、目標である。
 彼はくろがねの息吹きを汲みとり、かたちを与える。刀身に宿る加護たるや、神韻縹渺しんいんひょうびょうたる風韻ふういんすら感じられるほどだ。
(目標、か……)
 不意にこみあげた気鬱に、光希は眉をひそめた。
 この素晴らしい作品に強い嫉妬を覚える一方で、難癖をつけたいような、欠点を見つけだしたいような念に駆られてしまう。己が酷く未熟で、凡庸な存在に思えてたまらない。
 おかしい――何か得体の知れぬものに、心を穢されたように感じる。
 不愉快千万せんばん。普段であれば、ただただ虚心坦懐きょしんたんかいに眺めるところだ。
 何かがおかしい――奇妙な心地で辺りを見回すと、冷え冷えとした恐怖が光希の心臓を掴んだ。視界が不自然に翳った気がして、目をこする。
 すると異変を察したルスタムが、怪訝そうな様子で近づいてきた。
「殿下、いかがなされましたか?」
「ううん、なんでもない。少し目が霞んだだけ……」
 その声はか細く震えており、ルスタムもアーナトラたちも、途端に心配そうな顔つきになった。
(あれ、どうしたんだろう……)
 大丈夫、心配しないで。そういいたいのに、笑顔を作れない。胸騒ぎが加速していく。
 光希は直感に導かれて、恐る恐る作業机に近づいていった。
 木の表面を削るための道具が、ずらりと並べられている。
「殿下、いかがなされましたか?」
 アーナトラは訝しげに訊ねた。
 光希は黙ったまま、机に並んだ道具のひとつひとつに目を注いでいき……のみを見た瞬間、目を大きく瞠った。それをふりあげ、アーナトラの作品をめちゃくちゃに傷つける妄想に駆られたのだ。
 ぞぉっと全身に鳥肌が立つ。
 同じ職人として、考えるだけでも禁忌きんきだ。
 妄想を振り払うように頭を一つ振ると、光希は、わなわなと震える手を伸ばした。
「殿下、危ないですよ」
 すかさずルスタムが、光希の前に腕を伸ばして動きを制した。
「……これは、以前から使っている道具ですか?」
 光希はのみを指差し、アーナトラの顔を見て訊ねた。
「いえ、先日購入したものです」
「……使い心地は、いかがですか?」
「良いですよ。手に馴染むし、刃もよく滑ります。あの意匠棚の仕上げにも使いました」
「なるほど……」
 深刻げにつぶやく光希を見て、アーナトラは困惑を顔に浮かべた。
「何か気になることでもございますか?」
 顔をあげた光希は、アーナトラと目があった瞬間、狂気に囚われた。
 突然、巨大な刃が滑り落ちて、アーナトラの頸が無残に斬り落とされたのだ。
「うわぁッ」
 たまらず悲鳴をあげる。
「殿下!?」
 血飛沫は碧い飛沫となって霧散し、あとには何も残らない。
 幻覚だ。
 アーナトラの頸は斬り落とされていない。彼は無事だ。そうと判っても、すぐには冷静になれなかった。
「あ、あ、あ……」
 壊れた蓄音機のように声を発する光希を、ルスタムたちが取り囲む。
「殿下? どうなされましたか? 殿下?」
 気遣わしげに訊ねられても、光希の耳には届いていない。
 夢かうつつなのか――アーナトラの工房は視界から消え失せ、夢に見たおぞましい景が眼前に広がっている。
 大勢の人が断頭台に固定されて、次々に頸を切り落とされていく。

“助けてッ”
“やめてくれぇッ!”
“いやだあぁぁぁ”

 生涯、耳に遺りそうなおぞましい叫喚きょうかん、悲痛な哀願に呑みこまれる。
 恐怖のとりこになるあまり、光希は無思慮に後ずさりして、棚に背中を打ちつけた。その衝撃で、刃物の入った瓶が頭上から降ってくる。
「殿下!」
 咄嗟にルスタムが身を呈して光希を庇い、光希は彼の真鍮の鎧を頬に感じた。
「お怪我は!?」
 光希はルスタムを仰ごうとした。けれども光が眩しくて、すぐに目を伏せる。
 視界の端に映ったのみの刃に、強烈な邪気を視た気がしたが、正体を見極める前に意識を落としてしまった。