アッサラーム夜想曲
聖域の贄 - 17 -
同日の朝に遡る。
ハイラートはサンジャルと共に、再び大カレル・ガレン屑鉄会社を訪れた。以前、ものいいたげな目をしていた、債務奴隷たちから話を聞くためである。
この日この時間帯に、市街へ配送するために荷馬車が工場の敷地からでてくることを、事前にサンジャルは突き止めていた。
彼は、サミーラを訪ねてからというもの、使える時間は全て事件解明に注ぎこみ、苦心惨憺 して調書を集め、丁寧に証言を集めている。
思いつめたように仕事に打ちこむ部下の顔を、ハイラートは複雑な気持ちで見やった。どんな言葉も、彼にとって気休めにならないことは判っている。何かせずにはいられない気持ちも。
しかし、そろそろ休ませないといけないだろう。声をかけようとした時、ちょうど工場の敷地から荷馬車がでてきた。
ハイラートとサンジャルが腕を振りながら道を塞ぐと、御者台に座る少年ふたりは、目を丸くして停車した。
「君、すまないが少し話せないか?」
なるべく穏やかな声を意識してハイラートが声をかけると、少年たちは顔を見あわせ、恐縮したように頷いた。
「何か御用でしょうか?」
まだ十三かそこらの少年だというのに、屑鉄の粉末で咽を傷めたのであろう、低く嗄 れた声でいった。
「仕事中にすまないね。この工場で失踪した作業員について、知っていることを聞かせてくれないか」
少年は人目を気にする素振りを見せた。
「……失踪した作業員って、誰のことですか?」
「一月二十日に資材を運びにいったふたりのことだよ。知らないのかね?」
「もちろん知っています。ここではもう、彼を含めて十五人がいなくなっています」
「十五人?」
ハイラートは驚いて、次の言葉を発するのに間が空いた。
「一体どうして? なぜ消えたんだ?」
「判りません。ただ、全員が失踪したわけじゃなくて、最初の三人は事故死です。粉砕機に巻きこまれたのです」
思わずハイラートは顔をしかめた。
「それは気の毒に。ハムラホビトは一言もいわなかったぞ」
少年が口ごもると、傍で見ていた少年が代わりに答えた。
「吝嗇 な人だから。きっと慰謝料を払いたくなかったんだ」
「よせよ」
慌てて少年が止めている。
ハイラートが横目でサンジャルの顔を窺うと、青い瞳に、正義感の炎が燃えるのが見てとれた。
「他にも事故で死んだ同僚はいるのかね?」
「判りません。なかには逃げだす人もいるから……」
いい辛そうに、少年は口ごもった。
債務奴隷が苦役から逃げだすことはよくある話だ。なかでも屑鉄工場の労働従事者の寿命は、せいぜい五年といわれている。
この少年も声は嗄 れ、手はぼろぼろだ。脛に抉れた裂傷があり、ここがいかに危険な仕事場であるかを物語っている。
しかし、いくら過酷な労働環境といえど、短期間のうちに暫定十二名もの人間が脱走するだろうか? 帰る家もない少年たちが……
思案していると、あの、と少年が声をかけてきた。
「なんだ?」
「その……実は俺、消えるところを見たんです」
「どういうことだ?」
「仕事中にいきなり狂ったみたいに喚きだして……怖くて、近づけませんでした。それで、どうしようか迷って見ていたら、いきなり頸が転げ落ちたのです」
思わずハイラートとサンジャルは顔を見あわせた。
先日市場で話を聞いた老人も、似たような証言をしていた。もはや偶然では済まされないだろう。
「ハムラホビトには話したのか?」
ハイラートが訊ねると、少年は逡巡したが、こくりと頷いた。
「不安を煽るから、皆にはいうなって」
思わずハイラートは唸った。
事情聴取した時には、ハムラホビトはそのようなことは一言も話さなかった。
だがこれで合点がいった。彼は従業員への慰めではなく、工場が呪われていることを恐れて、祈祷師 に依頼したのだ。そして三日に及ぶ手厚い葬儀を執り行ったのだろう。
その後ハイラートは、少年たちから行方不明者のことを、可能な限り詳しく聞きだした。その間、指示するまでもなくサンジャルは細かく記帳していた。
「ありがとう、助かったよ。仕事の邪魔をして悪かったね」
ハイラートが笑みかけると、少年たちはぎこちなく頷いて荷馬車を引いていった。
「調べることが多いな。とにかく一度本部に戻ろう」
なかなか休めそうにないな――そう思いながら、ハイラートはサンジャルを見ていった。
同日午後。
ジュリアスが本部基地にやってくるなり、数人が集まってきた。
「良かった、お戻りになりましたか」
ナディアの声に振り向いたジュリアスは、彼の目に閃きを見た。
「何かありましたか?」
「少しお時間を頂けますか? 見て頂きたい資料があるのですが」
「構いませんよ」
「例の断頭台ですが、サリヴァンのいった通りでした。今からおよそ百年前、処刑された人数は記録にあるだけでも千人を超えています。周囲で不審な失踪が相次いだ為、神殿祈祷師 は大規模な検魂審問を行ったようです」
資料に目を注ぎながら、ジュリアスは頷いた。
「ですが、検魂審問の後に神殿祈祷師 は失踪しています」
「その断頭台は今もあるのですか?」
と、背後がにわかに騒がしなくなる。振り向くと、ヤシュムとハイラートが戻ってきたところだった。あの二人はすっかり打ち解けたようだ。慇懃ななかにも親しみのこもった微笑を浮かべ、ハイラートがなにかいっている。
ふたりはジュリアスたちに気がつくと、小走りで近づいてきて、ナディアが黒檀の机に拡げた保管庫の記録を、一緒に覗きこんだ。
「検魂審問の後、断頭台は軍預かりになりました。三四五年五月一〇日、断頭台は証拠物品保管庫に移送されました。それから三年間に、保管庫担当者が少なくとも五名代わっています」
ナディアは資料を指差しながら説明した。
「理由は?」
ジュリアスが訊ねる。
「失踪です」
はっと目を瞠る面々を見て、ナディアは彼らの閃きを宜 なうように軽く頷いてから、失踪届の資料を机の真ん中に寄せた。
「明確な記録は残っていないのですが、失踪に疑問を抱いた保管庫長官が、神殿祈祷師 に鑑識を依頼したようです」
「それで、その神殿祈祷師 も失踪したというわけですか」
ジュリアスが言葉を継ぐと、ナディアは頷いた。
「はい。長官も失踪しています。依頼者と祈祷師 の両方が失踪してしまった為、この時の詳細な資料は残っていないようです」
「なるほど……その処刑具は、まだ保管庫にあるのですか?」
ナディアは残念そうに頸を振った。
「ありません。どこへ消えたのか、今調べているところです」
「サリヴァンに話して、神殿の移送記録も読ませてもらうと良いかもしれませんね」
「そういたします」
「他に報告のある者は?」
ジュリアスが見回すと、包を手に持ったサンジャルが進みでた。
「病室にあったという花切り鋏について、看護師たちに訊いてみたのですが、心当たりのある者はおりませんでした。もしかしたら、見舞い人の忘れ物だったのかもしれません。婦長のカルメンに頼んで、念のため、施設で使われている鋏を幾つかお借りしてきたのですが……」
そういって手に持った包を開くと、三つの黒い鋏が現れた。
「全て療養所のものですか?」
「はい。庭師にも訊いて、黒い鋏をお借りしてきました」
「ありがとう。残念ながら、私が見たものとは違うようです。看護師たちに礼をいって、これは返却してください」
「承知いたしました」
サンジャルが頷くと、今度はハイラートが大カレル・ガレン鋼鉄会社で債務奴隷少年から聞いた話を報告した。
「では、三名が事故死だとして、一月に入ってから十二名が失踪しているのですか?」
ジュリアスは訝しげに訊ねた。
「はい。社長は一月二十日に失踪した二名だけ申告して、ほかは秘匿していたようです。事故死に関しては、家族への支払い義務も果たしておりません」
「取り締まってください。事故死の三名含め、時系列で報告できますか?」
「概要になりますが、十日に三名、そのあと粉砕現場の関係者が三名、廃棄担当が一月半ばに三名、最期に移送担当が続けて四名消えたそうです」
「いくらなんでも多いですね。彼が祈祷師 に依頼をした本当の理由は、それですか」
ジュリアスが指摘すると、ハイラートは頷いた。
「そのようです。奴隷労働者の鎮魂という名目で、三日に渡る葬儀も執り行っています」
「二十日以降に失踪者はでていないのですか?」
「はい。奴隷労働者の話を聞く限りでは」
「判りました。判明した失踪者と場所を地図に反映してください。他に情報がある者もお願いします」
壁に貼られた巨大な聖都地図には、既に夥 しい紙の切れ端が留められている。それぞれが情報を更新し終えた時、点綴 していた符号が、不吉な赤い線に変わった。
四五六年一月一〇日:大カレル・ガレン屑鉄会社:粉砕作業担当三名事故死
四五六年一月一一日:大カレル・ガレン屑鉄会社:一名失踪(粉砕作業担当)
四五六年一月一二日:大カレル・ガレン屑鉄会社:二名失踪(粉砕作業担当)
四五六年一月一四日:大カレル・ガレン屑鉄会社:二名失踪(溶解高炉担当)
四五六年一月一六日:大カレル・ガレン屑鉄会社:二名失踪(廃棄場担当)
四五六年一月一七日:大カレル・ガレン屑鉄会社:一名失踪(廃棄場担当)
四五六年一月一九日:大カレル・ガレン屑鉄会社:二名失踪(移送担当)
四五六年一月二〇日:大カレル・ガレン屑鉄会社:二名失踪(移送担当)失踪届あり
四五六年二月一〇日:オセロ石切場:一名失踪
四五六年三月六日:マルタイ納材会社:二名失踪
四五六年三月一〇日:オセロ石切場:二名失踪
四五六年三月一八日:民間の祈祷師 と占魂術師 失踪
四五六年三月二〇日:鋳物 屋一家失踪
四五六年三月二五日:療養所:ピルヨム失踪
四五六年三月二八日:神殿祈祷師 失踪
……
やはり、実際の失踪人届けより、数十倍の市民が失踪している。何より、大カレル・ガレン屑鉄会社の失踪人数は異常だ。眺める者たちは愕然たる思いで呻いた。
「サンジャル、ハムラホビトの召喚状を至急発行してください。ヤシュムとハイラートは、警護の名目で大カレル・ガレン屑鉄会社に憲兵を派遣して監視させてください。それから、ナディア主導で断頭台の調査にも人員を割いてください。恐らく、関連があるはずです」
ジュリアスの指示に、全員が真剣な面持ちで頷いた。さらに詳細を説明しようとしたところで、伝令が息を切らしてやってきた。
「伝令です。アーナトラ工房にて、殿下がお倒れになりました。お怪我はございませんが、すぐにクロッカス邸に戻られるそうです」
その瞬間、ジュリアスは心臓が凍りつくのを感じた。
「すみませんが、私は席をはずします。ここはナディアに任せて良いですか?」
「承知いたしました」
ナディアは気遣わしげな表情で頷いた。
部屋をでていくジュリアスの背中を、幾つもの心配げな視線が追いかけた。
クロッカス邸に急ぐ道すがら、神眼で光希の気配をたどると、ささやかだが安定した呼吸を感じとることができたので、少し安堵した。
邸に着くなり寝室に向かうと、扉前にルスタムがいて、ジュリアスを見ると強張った顔で敬礼した。
なかへ入ると、ナフィーサと公宮医が寝台の傍におり、ジュリアスに場所を譲った。
皆が見守るなか、光希は熱病者特有の紅い頬をして眠っている。
「光希は無事ですか?」
ジュリアスは光希の顔を見つめたまま、小声で訊ねた。
「ご安心ください。微熱を発しておられますが、危険はございません。安静にしていれば、自然と熱も引くでしょう」
医師は淀みない口調でいった。
「倒れたと聞きましたが、怪我はしていないのですか?」
そこで初めてジュリアスは医者の顔を見た。
「はい。確認させて頂きましたが、外傷はございませんでした。昏倒の寸前に、護衛神殿騎士が身を呈してかばったそうですよ」
「頭を打ったわけではないのですね?」
「違います。殿下の妙 なる霊感が幻を見せたのか、昏倒の間際、何か目に見えぬものに怯えていたそうです」
医者の説明を聞き終えたあとジュリアスは、ルスタムからも報告を受けた。
互いに光希を心配して少なからず動揺していたが、粛々とした手続きは、普段通りに行われた。
夜になり、医者もナフィーサも寝室を辞したあと、ジュリアスは光希の寝顔を見つめながら、苦い記憶に浸っていた。
二年前、オアシスで雨乞いの祈祷を捧げた際にも、光希は神の恩寵なのか枷 なのか、霊感が働いて昏倒したことがある。目が醒めたあとは、ジュリアスを含めてアッサラームで過ごした一切の記憶を喪ったのだ。
幸い、しばらくすると記憶を取り戻せたが、あの時の恐怖と絶望、無力感は、今もジュリアスの心の底に沈殿している。
もし光希が目を醒まして、ジュリアスのことを忘れていたら……
そう思うと、一睡もできなかった。
隣で横になりながら、黒髪を撫で、力なく垂れた手をとり、指先にくちびるを押し当てる。心の奥から深い慈しみと愛おしさがとめどなくあふれでて、苦しいほどだった。
一晩中、神に祈っていた。
願いが聴き容れられたのか、朝になると光希は目を醒ました。
黒い瞳がジュリアスを認めてなごんだ瞬間、ジュリアスは言葉ではいい尽くせないほどの深い安堵を覚えた。
「嗚呼、良かった。気分はどうですか?」
「平気……」
声が少しかすれている。
ジュリアスは光希が上体を起こすのを手伝い、彼の手に水の入った硝子の杯を渡してやった。半分ほど飲んだ光希は、声の調子を取り戻した。
「ありがとう」
「いいえ。昨日、アーナトラの工房で倒れたのですよ。それからずっと眠っていました。心配しましたよ」
「昨日?」
「何があったか教えてもらえますか?」
「……視たんだ」
「何を?」
「……すごく怖かった……怖い……っ」
光希は両手で口を抑えた。そうでもしないと、悲鳴が迸ってしまうとでもいいたげに。
あの時――暗い坑 を覗きこんだ気がする。記憶を探ろうとすれば、夢と現 の境界が溶けて、狂気のように思考が混乱して、目眩と忘却の底へ沈んでいった。
瘧 に罹 ったように震える光希を、ジュリアスはぎゅっと抱きしめた。彼の目に浮かぶ恐怖を消すためなら、どんなことでもできる。光希を護ってやりたい。
これ以上彼を怯えさせないよう、ジュリアスは質問することをやめた。
「すみません、無理に話すことはありません。光希が無事で本当に良かった」
慰めを口にしながら、優しく背中を撫でてやると、光希の震えは次第におさまってきた。
「……ありがとう、落ち着いてきた。アーナトラさんは大丈夫かな?」
その声はまだ少し震えているが、黒い双眸には、明瞭な意思の光が灯っている。
「ええ。見舞いの水晶が届いていますよ」
厄払いの水晶を見て、光希は眉を寄せた。
「……これは、アーナトラさんの方が必要としているかもしれない。そうだ、思いだした。あれ のせいなんだ」
ジュリアスが視線で先を促すと、光希は切羽詰まった顔で続けた。
「鑿 だよ」
「アーナトラ工房で、光希が指差したという鑿 のことですか?」
「そう、それ。あれは絶対によくない ……神殿に預けた方がいいと思う」
この流れでジュリアスは、療養所の鏡を連想した。サリヴァンに霊検審問を依頼したが、鏡自体に異変は見つけられなかったのだ。
黙考するジュリアスを仰ぎ見て、光希はきゅっと眉を寄せた。
「僕を信じて」
「もちろん信じています。工房に神官を派遣して、詳しく調べてもらいます」
「ありがとう」
黒髪を指で梳いてやりながら、ジュリアスは口をひらいた。
「……しばらくの間、公務もクロガネ隊も休んでください」
「どうして?」
「ここのところ体調を崩しがちですし、これを機に休暇を取りましょう。ゆっくり心身を休めてください」
「僕なら平気だよ」
光希は笑おうとしたが、ジュリアスの真剣な顔を見て、表情を改めた。
「実は、アーナトラに嫌疑がかけられています」
「えっ?」
あまりに脈絡がなくて、ぽかんとしてしまう。
「彼の工房で起きた一連の出来事が、事故なのか人為的な過失によるものか、これから調べる必要があります」
光希は唖然となった。
「調べるも何も、あれは事故だよ」
「確かに証言はありますが、棚に工具や瓶を配置したのは、アーナトラ本人だそうです」
「偶然だよ! 僕が勝手にぶつかっただけなんだから」
「ですが、一歩間違えれば大惨事に至るところでした。貴方の身に危険が及んだ原因は何か、私は突き止めなくてはなりません」
光希は頑迷に頭 を振った。
「原因は判らないけど、アーナトラさんのせいじゃないってことだけは、はっきりしているよ」
「それを立証するのです。四日後の査問会に、アーナトラは重要参考人として召喚されることに決まりました」
「そうなの? 彼を追い詰めるようなことにはならない?」
「なりません。アーナトラは神経を使うでしょうけれど」
「うぅ、そうだよね……ジュリもいくの?」
「いきます」
「僕もいっていい?」
「いけません」
「いや、皆に迷惑をかけてしまったし、先ず僕が謝罪しないと」
「光希のせいではありません。むしろ貴方の霊感が、暗雲に光明を与えてくれているのです」
「でも……」
「証人の一人はルスタムです。心配しなくても、彼なら公平な発言をするでしょう」
光希はジュリアスを見つめた。ルスタムの名を聞いていくらか安堵したものの、不安を完全にはぬぐえなかった。
「……僕って最悪だな」
「そんなことをいわないでください。光希のせいではありませんよ」
光希は頷く気になれなかった。療養所といい、アーナトラ工房といい、不安な危険の連鎖の責任が、自分にあるように思えてならない。
ジュリアスも光希の背を撫でながら、彼のいくところで、不穏な出来事が続いていることが気懸かりだと感じていた。
「あまり気に病まないでくださいね。しばらくの間、ここでのんびり過ごしていてください」
光希は、数呼吸押し黙ると、ジュリアスを仰ぎ見た。
「……しばらくの間って、どれくらいかな?」
「できれば、この件が片付くまで。少なくとも、アーナトラの嫌疑が晴れるまではここにいてください」
光希は、落胆が顔にでてしまわないよう、気をつけなければならなかった。
正直にいえば、クロガネ隊にいけないのは辛い。ただでさえここのところ鬱々としているのに、部屋に閉じこもっていたら、暗い気が悪化してしまいそうだ。
沈黙が長引くと、ジュリアスは心配そうな様子で光希の手をとり、指の一つ一つにキスをしていく。彼の思いの深さが伝わってきて、光希は悲嘆の言葉を呑みこんだ。
「……わかった」
光希が神妙に頷くと、ジュリアスはほっとしたような顔つきになった。
「ありがとう、光希」
「僕の方こそ、色々と面倒をかけてごめんね。もし会えたら、アーナトラさんやアルシャッド先輩たちに、僕からの謝罪を伝えてくれる?」
「判りました。彼らも貴方のことを心配していましたよ。じきに手紙が届くと思いますから、そうしたければ、返事を書くと喜ぶでしょう」
「うん。そうする」
「では、私はそろそろでかけます。光希はゆっくり休んでいてください」
「ん、気をつけてね」
碧眼がなごむ。黒髪をひと撫でしてから、ジュリアスは静かに寝室をでていった。
ひとりになると光希は、バルコニーにでた。
空気は冷たく、低く垂れこめた空は乳石英色に曇っている。
何をするでもなく、無聊 のままにアール河を眺めやった。
……人間万事塞翁 が馬といえど、この時ばかりは自分が疫病神になった心地がした。根拠があるわけではないが、アーナトラが査問会に召喚されるのも、アッサラームで失踪人が相次いでいるのも、全部光希が見えぬ力で不吉を呼び寄せているからのように思えてしまう。
涼風に躰が震えてなかへ戻ったものの、何をしようか迷い、じっと佇立 していた。ややして工房へ向かうと、ふと棚に置いてある籠に目が留まった。アーナトラ工房でもらったものだ。そういえば何が入っているのだろうと思い、なかを検めてみた。
黄色い花と、アーナトラ工房の名が刻まれた彫り物が入っている。それと小さな手紙が添えられていて、封を開けてみると、工房の名刺が入っていた。さらにもう一枚、白い小さなカードが入っており、手書きで一言、
“お慕いしています”
そっと添えられた一言に、なんとなく、はにかんで挨拶をしてくれた青年の顔が思いだされた。
嬉しい――落ちこんでいた心が少し温まったように感じる。
しかしつぎの瞬間、ジュリアスの顔が脳裡に思い浮かび、奇妙な罪悪感を抱いた。
敬愛と受け取ったが、よくよく眺めていると、恋情めいたものを仄かに感じる。
(……いや、告白されたわけでもないし、考えすぎかな?)
いやまさか、と文字に目を注ぎながら、どうするか迷う。捨ててしまうには忍びなく、かといって持っているのも後ろめたい。
かつて公宮にいた姫、ブランシェットにもらった押花の栞が脳裏に閃いた。あの時も嬉しかったけれど、結局ジュリアスの気持ちを考えて処分したのだ。
記憶のなかで美化されたのかもしれないが、可憐な少女からもらった幻の栞は、ほろ苦く、美しい思い出の欠片として光希のなかに遺っている。
このささやかな恋文も処した方が良いのだろう……が、今でなくても良いはずだ。
名刺と小さなカードを封筒に戻すと、そっと籠のなかに戻した。
ハイラートはサンジャルと共に、再び大カレル・ガレン屑鉄会社を訪れた。以前、ものいいたげな目をしていた、債務奴隷たちから話を聞くためである。
この日この時間帯に、市街へ配送するために荷馬車が工場の敷地からでてくることを、事前にサンジャルは突き止めていた。
彼は、サミーラを訪ねてからというもの、使える時間は全て事件解明に注ぎこみ、苦心
思いつめたように仕事に打ちこむ部下の顔を、ハイラートは複雑な気持ちで見やった。どんな言葉も、彼にとって気休めにならないことは判っている。何かせずにはいられない気持ちも。
しかし、そろそろ休ませないといけないだろう。声をかけようとした時、ちょうど工場の敷地から荷馬車がでてきた。
ハイラートとサンジャルが腕を振りながら道を塞ぐと、御者台に座る少年ふたりは、目を丸くして停車した。
「君、すまないが少し話せないか?」
なるべく穏やかな声を意識してハイラートが声をかけると、少年たちは顔を見あわせ、恐縮したように頷いた。
「何か御用でしょうか?」
まだ十三かそこらの少年だというのに、屑鉄の粉末で咽を傷めたのであろう、低く
「仕事中にすまないね。この工場で失踪した作業員について、知っていることを聞かせてくれないか」
少年は人目を気にする素振りを見せた。
「……失踪した作業員って、誰のことですか?」
「一月二十日に資材を運びにいったふたりのことだよ。知らないのかね?」
「もちろん知っています。ここではもう、彼を含めて十五人がいなくなっています」
「十五人?」
ハイラートは驚いて、次の言葉を発するのに間が空いた。
「一体どうして? なぜ消えたんだ?」
「判りません。ただ、全員が失踪したわけじゃなくて、最初の三人は事故死です。粉砕機に巻きこまれたのです」
思わずハイラートは顔をしかめた。
「それは気の毒に。ハムラホビトは一言もいわなかったぞ」
少年が口ごもると、傍で見ていた少年が代わりに答えた。
「
「よせよ」
慌てて少年が止めている。
ハイラートが横目でサンジャルの顔を窺うと、青い瞳に、正義感の炎が燃えるのが見てとれた。
「他にも事故で死んだ同僚はいるのかね?」
「判りません。なかには逃げだす人もいるから……」
いい辛そうに、少年は口ごもった。
債務奴隷が苦役から逃げだすことはよくある話だ。なかでも屑鉄工場の労働従事者の寿命は、せいぜい五年といわれている。
この少年も声は
しかし、いくら過酷な労働環境といえど、短期間のうちに暫定十二名もの人間が脱走するだろうか? 帰る家もない少年たちが……
思案していると、あの、と少年が声をかけてきた。
「なんだ?」
「その……実は俺、消えるところを見たんです」
「どういうことだ?」
「仕事中にいきなり狂ったみたいに喚きだして……怖くて、近づけませんでした。それで、どうしようか迷って見ていたら、いきなり頸が転げ落ちたのです」
思わずハイラートとサンジャルは顔を見あわせた。
先日市場で話を聞いた老人も、似たような証言をしていた。もはや偶然では済まされないだろう。
「ハムラホビトには話したのか?」
ハイラートが訊ねると、少年は逡巡したが、こくりと頷いた。
「不安を煽るから、皆にはいうなって」
思わずハイラートは唸った。
事情聴取した時には、ハムラホビトはそのようなことは一言も話さなかった。
だがこれで合点がいった。彼は従業員への慰めではなく、工場が呪われていることを恐れて、
その後ハイラートは、少年たちから行方不明者のことを、可能な限り詳しく聞きだした。その間、指示するまでもなくサンジャルは細かく記帳していた。
「ありがとう、助かったよ。仕事の邪魔をして悪かったね」
ハイラートが笑みかけると、少年たちはぎこちなく頷いて荷馬車を引いていった。
「調べることが多いな。とにかく一度本部に戻ろう」
なかなか休めそうにないな――そう思いながら、ハイラートはサンジャルを見ていった。
同日午後。
ジュリアスが本部基地にやってくるなり、数人が集まってきた。
「良かった、お戻りになりましたか」
ナディアの声に振り向いたジュリアスは、彼の目に閃きを見た。
「何かありましたか?」
「少しお時間を頂けますか? 見て頂きたい資料があるのですが」
「構いませんよ」
「例の断頭台ですが、サリヴァンのいった通りでした。今からおよそ百年前、処刑された人数は記録にあるだけでも千人を超えています。周囲で不審な失踪が相次いだ為、
資料に目を注ぎながら、ジュリアスは頷いた。
「ですが、検魂審問の後に
「その断頭台は今もあるのですか?」
と、背後がにわかに騒がしなくなる。振り向くと、ヤシュムとハイラートが戻ってきたところだった。あの二人はすっかり打ち解けたようだ。慇懃ななかにも親しみのこもった微笑を浮かべ、ハイラートがなにかいっている。
ふたりはジュリアスたちに気がつくと、小走りで近づいてきて、ナディアが黒檀の机に拡げた保管庫の記録を、一緒に覗きこんだ。
「検魂審問の後、断頭台は軍預かりになりました。三四五年五月一〇日、断頭台は証拠物品保管庫に移送されました。それから三年間に、保管庫担当者が少なくとも五名代わっています」
ナディアは資料を指差しながら説明した。
「理由は?」
ジュリアスが訊ねる。
「失踪です」
はっと目を瞠る面々を見て、ナディアは彼らの閃きを
「明確な記録は残っていないのですが、失踪に疑問を抱いた保管庫長官が、
「それで、その
ジュリアスが言葉を継ぐと、ナディアは頷いた。
「はい。長官も失踪しています。依頼者と
「なるほど……その処刑具は、まだ保管庫にあるのですか?」
ナディアは残念そうに頸を振った。
「ありません。どこへ消えたのか、今調べているところです」
「サリヴァンに話して、神殿の移送記録も読ませてもらうと良いかもしれませんね」
「そういたします」
「他に報告のある者は?」
ジュリアスが見回すと、包を手に持ったサンジャルが進みでた。
「病室にあったという花切り鋏について、看護師たちに訊いてみたのですが、心当たりのある者はおりませんでした。もしかしたら、見舞い人の忘れ物だったのかもしれません。婦長のカルメンに頼んで、念のため、施設で使われている鋏を幾つかお借りしてきたのですが……」
そういって手に持った包を開くと、三つの黒い鋏が現れた。
「全て療養所のものですか?」
「はい。庭師にも訊いて、黒い鋏をお借りしてきました」
「ありがとう。残念ながら、私が見たものとは違うようです。看護師たちに礼をいって、これは返却してください」
「承知いたしました」
サンジャルが頷くと、今度はハイラートが大カレル・ガレン鋼鉄会社で債務奴隷少年から聞いた話を報告した。
「では、三名が事故死だとして、一月に入ってから十二名が失踪しているのですか?」
ジュリアスは訝しげに訊ねた。
「はい。社長は一月二十日に失踪した二名だけ申告して、ほかは秘匿していたようです。事故死に関しては、家族への支払い義務も果たしておりません」
「取り締まってください。事故死の三名含め、時系列で報告できますか?」
「概要になりますが、十日に三名、そのあと粉砕現場の関係者が三名、廃棄担当が一月半ばに三名、最期に移送担当が続けて四名消えたそうです」
「いくらなんでも多いですね。彼が
ジュリアスが指摘すると、ハイラートは頷いた。
「そのようです。奴隷労働者の鎮魂という名目で、三日に渡る葬儀も執り行っています」
「二十日以降に失踪者はでていないのですか?」
「はい。奴隷労働者の話を聞く限りでは」
「判りました。判明した失踪者と場所を地図に反映してください。他に情報がある者もお願いします」
壁に貼られた巨大な聖都地図には、既に
四五六年一月一〇日:大カレル・ガレン屑鉄会社:粉砕作業担当三名事故死
四五六年一月一一日:大カレル・ガレン屑鉄会社:一名失踪(粉砕作業担当)
四五六年一月一二日:大カレル・ガレン屑鉄会社:二名失踪(粉砕作業担当)
四五六年一月一四日:大カレル・ガレン屑鉄会社:二名失踪(溶解高炉担当)
四五六年一月一六日:大カレル・ガレン屑鉄会社:二名失踪(廃棄場担当)
四五六年一月一七日:大カレル・ガレン屑鉄会社:一名失踪(廃棄場担当)
四五六年一月一九日:大カレル・ガレン屑鉄会社:二名失踪(移送担当)
四五六年一月二〇日:大カレル・ガレン屑鉄会社:二名失踪(移送担当)失踪届あり
四五六年二月一〇日:オセロ石切場:一名失踪
四五六年三月六日:マルタイ納材会社:二名失踪
四五六年三月一〇日:オセロ石切場:二名失踪
四五六年三月一八日:民間の
四五六年三月二〇日:
四五六年三月二五日:療養所:ピルヨム失踪
四五六年三月二八日:
……
やはり、実際の失踪人届けより、数十倍の市民が失踪している。何より、大カレル・ガレン屑鉄会社の失踪人数は異常だ。眺める者たちは愕然たる思いで呻いた。
「サンジャル、ハムラホビトの召喚状を至急発行してください。ヤシュムとハイラートは、警護の名目で大カレル・ガレン屑鉄会社に憲兵を派遣して監視させてください。それから、ナディア主導で断頭台の調査にも人員を割いてください。恐らく、関連があるはずです」
ジュリアスの指示に、全員が真剣な面持ちで頷いた。さらに詳細を説明しようとしたところで、伝令が息を切らしてやってきた。
「伝令です。アーナトラ工房にて、殿下がお倒れになりました。お怪我はございませんが、すぐにクロッカス邸に戻られるそうです」
その瞬間、ジュリアスは心臓が凍りつくのを感じた。
「すみませんが、私は席をはずします。ここはナディアに任せて良いですか?」
「承知いたしました」
ナディアは気遣わしげな表情で頷いた。
部屋をでていくジュリアスの背中を、幾つもの心配げな視線が追いかけた。
クロッカス邸に急ぐ道すがら、神眼で光希の気配をたどると、ささやかだが安定した呼吸を感じとることができたので、少し安堵した。
邸に着くなり寝室に向かうと、扉前にルスタムがいて、ジュリアスを見ると強張った顔で敬礼した。
なかへ入ると、ナフィーサと公宮医が寝台の傍におり、ジュリアスに場所を譲った。
皆が見守るなか、光希は熱病者特有の紅い頬をして眠っている。
「光希は無事ですか?」
ジュリアスは光希の顔を見つめたまま、小声で訊ねた。
「ご安心ください。微熱を発しておられますが、危険はございません。安静にしていれば、自然と熱も引くでしょう」
医師は淀みない口調でいった。
「倒れたと聞きましたが、怪我はしていないのですか?」
そこで初めてジュリアスは医者の顔を見た。
「はい。確認させて頂きましたが、外傷はございませんでした。昏倒の寸前に、護衛神殿騎士が身を呈してかばったそうですよ」
「頭を打ったわけではないのですね?」
「違います。殿下の
医者の説明を聞き終えたあとジュリアスは、ルスタムからも報告を受けた。
互いに光希を心配して少なからず動揺していたが、粛々とした手続きは、普段通りに行われた。
夜になり、医者もナフィーサも寝室を辞したあと、ジュリアスは光希の寝顔を見つめながら、苦い記憶に浸っていた。
二年前、オアシスで雨乞いの祈祷を捧げた際にも、光希は神の恩寵なのか
幸い、しばらくすると記憶を取り戻せたが、あの時の恐怖と絶望、無力感は、今もジュリアスの心の底に沈殿している。
もし光希が目を醒まして、ジュリアスのことを忘れていたら……
そう思うと、一睡もできなかった。
隣で横になりながら、黒髪を撫で、力なく垂れた手をとり、指先にくちびるを押し当てる。心の奥から深い慈しみと愛おしさがとめどなくあふれでて、苦しいほどだった。
一晩中、神に祈っていた。
願いが聴き容れられたのか、朝になると光希は目を醒ました。
黒い瞳がジュリアスを認めてなごんだ瞬間、ジュリアスは言葉ではいい尽くせないほどの深い安堵を覚えた。
「嗚呼、良かった。気分はどうですか?」
「平気……」
声が少しかすれている。
ジュリアスは光希が上体を起こすのを手伝い、彼の手に水の入った硝子の杯を渡してやった。半分ほど飲んだ光希は、声の調子を取り戻した。
「ありがとう」
「いいえ。昨日、アーナトラの工房で倒れたのですよ。それからずっと眠っていました。心配しましたよ」
「昨日?」
「何があったか教えてもらえますか?」
「……視たんだ」
「何を?」
「……すごく怖かった……怖い……っ」
光希は両手で口を抑えた。そうでもしないと、悲鳴が迸ってしまうとでもいいたげに。
あの時――暗い
これ以上彼を怯えさせないよう、ジュリアスは質問することをやめた。
「すみません、無理に話すことはありません。光希が無事で本当に良かった」
慰めを口にしながら、優しく背中を撫でてやると、光希の震えは次第におさまってきた。
「……ありがとう、落ち着いてきた。アーナトラさんは大丈夫かな?」
その声はまだ少し震えているが、黒い双眸には、明瞭な意思の光が灯っている。
「ええ。見舞いの水晶が届いていますよ」
厄払いの水晶を見て、光希は眉を寄せた。
「……これは、アーナトラさんの方が必要としているかもしれない。そうだ、思いだした。
ジュリアスが視線で先を促すと、光希は切羽詰まった顔で続けた。
「
「アーナトラ工房で、光希が指差したという
「そう、それ。あれは絶対に
この流れでジュリアスは、療養所の鏡を連想した。サリヴァンに霊検審問を依頼したが、鏡自体に異変は見つけられなかったのだ。
黙考するジュリアスを仰ぎ見て、光希はきゅっと眉を寄せた。
「僕を信じて」
「もちろん信じています。工房に神官を派遣して、詳しく調べてもらいます」
「ありがとう」
黒髪を指で梳いてやりながら、ジュリアスは口をひらいた。
「……しばらくの間、公務もクロガネ隊も休んでください」
「どうして?」
「ここのところ体調を崩しがちですし、これを機に休暇を取りましょう。ゆっくり心身を休めてください」
「僕なら平気だよ」
光希は笑おうとしたが、ジュリアスの真剣な顔を見て、表情を改めた。
「実は、アーナトラに嫌疑がかけられています」
「えっ?」
あまりに脈絡がなくて、ぽかんとしてしまう。
「彼の工房で起きた一連の出来事が、事故なのか人為的な過失によるものか、これから調べる必要があります」
光希は唖然となった。
「調べるも何も、あれは事故だよ」
「確かに証言はありますが、棚に工具や瓶を配置したのは、アーナトラ本人だそうです」
「偶然だよ! 僕が勝手にぶつかっただけなんだから」
「ですが、一歩間違えれば大惨事に至るところでした。貴方の身に危険が及んだ原因は何か、私は突き止めなくてはなりません」
光希は頑迷に
「原因は判らないけど、アーナトラさんのせいじゃないってことだけは、はっきりしているよ」
「それを立証するのです。四日後の査問会に、アーナトラは重要参考人として召喚されることに決まりました」
「そうなの? 彼を追い詰めるようなことにはならない?」
「なりません。アーナトラは神経を使うでしょうけれど」
「うぅ、そうだよね……ジュリもいくの?」
「いきます」
「僕もいっていい?」
「いけません」
「いや、皆に迷惑をかけてしまったし、先ず僕が謝罪しないと」
「光希のせいではありません。むしろ貴方の霊感が、暗雲に光明を与えてくれているのです」
「でも……」
「証人の一人はルスタムです。心配しなくても、彼なら公平な発言をするでしょう」
光希はジュリアスを見つめた。ルスタムの名を聞いていくらか安堵したものの、不安を完全にはぬぐえなかった。
「……僕って最悪だな」
「そんなことをいわないでください。光希のせいではありませんよ」
光希は頷く気になれなかった。療養所といい、アーナトラ工房といい、不安な危険の連鎖の責任が、自分にあるように思えてならない。
ジュリアスも光希の背を撫でながら、彼のいくところで、不穏な出来事が続いていることが気懸かりだと感じていた。
「あまり気に病まないでくださいね。しばらくの間、ここでのんびり過ごしていてください」
光希は、数呼吸押し黙ると、ジュリアスを仰ぎ見た。
「……しばらくの間って、どれくらいかな?」
「できれば、この件が片付くまで。少なくとも、アーナトラの嫌疑が晴れるまではここにいてください」
光希は、落胆が顔にでてしまわないよう、気をつけなければならなかった。
正直にいえば、クロガネ隊にいけないのは辛い。ただでさえここのところ鬱々としているのに、部屋に閉じこもっていたら、暗い気が悪化してしまいそうだ。
沈黙が長引くと、ジュリアスは心配そうな様子で光希の手をとり、指の一つ一つにキスをしていく。彼の思いの深さが伝わってきて、光希は悲嘆の言葉を呑みこんだ。
「……わかった」
光希が神妙に頷くと、ジュリアスはほっとしたような顔つきになった。
「ありがとう、光希」
「僕の方こそ、色々と面倒をかけてごめんね。もし会えたら、アーナトラさんやアルシャッド先輩たちに、僕からの謝罪を伝えてくれる?」
「判りました。彼らも貴方のことを心配していましたよ。じきに手紙が届くと思いますから、そうしたければ、返事を書くと喜ぶでしょう」
「うん。そうする」
「では、私はそろそろでかけます。光希はゆっくり休んでいてください」
「ん、気をつけてね」
碧眼がなごむ。黒髪をひと撫でしてから、ジュリアスは静かに寝室をでていった。
ひとりになると光希は、バルコニーにでた。
空気は冷たく、低く垂れこめた空は乳石英色に曇っている。
何をするでもなく、
……人間万事
涼風に躰が震えてなかへ戻ったものの、何をしようか迷い、じっと
黄色い花と、アーナトラ工房の名が刻まれた彫り物が入っている。それと小さな手紙が添えられていて、封を開けてみると、工房の名刺が入っていた。さらにもう一枚、白い小さなカードが入っており、手書きで一言、
“お慕いしています”
そっと添えられた一言に、なんとなく、はにかんで挨拶をしてくれた青年の顔が思いだされた。
嬉しい――落ちこんでいた心が少し温まったように感じる。
しかしつぎの瞬間、ジュリアスの顔が脳裡に思い浮かび、奇妙な罪悪感を抱いた。
敬愛と受け取ったが、よくよく眺めていると、恋情めいたものを仄かに感じる。
(……いや、告白されたわけでもないし、考えすぎかな?)
いやまさか、と文字に目を注ぎながら、どうするか迷う。捨ててしまうには忍びなく、かといって持っているのも後ろめたい。
かつて公宮にいた姫、ブランシェットにもらった押花の栞が脳裏に閃いた。あの時も嬉しかったけれど、結局ジュリアスの気持ちを考えて処分したのだ。
記憶のなかで美化されたのかもしれないが、可憐な少女からもらった幻の栞は、ほろ苦く、美しい思い出の欠片として光希のなかに遺っている。
このささやかな恋文も処した方が良いのだろう……が、今でなくても良いはずだ。
名刺と小さなカードを封筒に戻すと、そっと籠のなかに戻した。