アッサラーム夜想曲

聖域の贄 - 10 -

 鋳物いもの屋一家失踪現場を訪れた翌日から、班員たちは区域ごとに分担して、失踪人捜索依頼書の聴取を本格的に開始した。
 ハイラートが先ず足を運んだのは、大カレル・ガレン屑鉄会社である。一月に従業員二人が失踪し、民間の祈祷師マニにも検魂鑑識を依頼しているのだ。
 溶解から製造まで請け負う広大な工場は、往来のはずれにあり、道は簡単だが長い長い一本道を歩いていかねばならならず、長距離の移動に慣れているハイラートでも、辻馬車を拾えば良かったと軽く後悔した。
 小雨まじりの霧のなか、半刻ほど歩いてようやく敷地に辿り着くと、薄汚れた少年労働者たちに不審な目で見られた。軍服を着た髭面の巨漢など、めったにやってこないのだろう。
 建物全体は整然として見えるが、どこか非日常の空気が漂い、玄関に置かれた青磁の香炉からは、魔除けに使われる薬用緋衣草セージの匂いが漂っていた。
 受付にいくと、感じの良い初老の男が対応してくれたが、あいにく社長はでかけており、三日後の休息日、四月十二日まで戻らないという。
 骨の折れることおびただしいが、顕にしたりせず、三日後に面会の申し入れだけして引き返した。
 再び徒歩で市街まで戻ると、声高らかに客を呼びこむはしっこそうな果汁売の少年を見て、ふと閃いた。彼なら界隈かいわい事情に通暁つうぎょうしているだろう。どれ、ちょっと手伝ってもらおうと肩を叩くと、ぱっと振り向いた少年は、ぎょっとしたように目を瞠った。
「俺に何か御用ですか?」
 変声期途中の掠れ声だった。
「一杯もらうから、ちょっと話を聞かせてくれないか? 時間は取らせないよ」
 ハイラートはなるべく柔和な笑みを心がけたが、少年の顔にさっと疑懼ぎくの色が走るのが見てとれた。
「とりあえず、喉が渇いたから一杯もらうよ。ほら」
 硬貨を多めに渡すと、少年の緑がかった青い瞳がぱっと一段明るんだ。
「ありがとうございます。どうぞ」
 白鑞しろめの杯を受け取ると、ハイラートは一気に飲み干した。
「失踪人について、知っていることがあれば教えて欲しい」
 杯を返すと、少年は手を伸ばしながら、不思議そうに小首を傾げた。
鋳物いもの屋の?」
「ああ、そうだ。他にも、ここ最近の失踪人を調べている。何か知っているか?」
 十かそこらの少年は、ふと老成した眼差しになり、じっとハイラートを見つめた。
「……この間、鋳物いもの屋と同じ通りの大衆浴場で、三人消えたって聞きました」
「失踪届けはだしてあるのか?」
「いえ、三人とも男娼だから……あの、俺がいったってことは誰にもいわないで」
「ああ、いわないよ」
 真面目な顔つきで几帳をつけるハイラートを、少年は不安そうに見あげた。
「大衆浴場の子たちは常連客なんです。黙って姿を消す子なんて、しょっちゅういますよ。何で今更……いえ、そのぅ、どうして調べているんですか?」
 少年は罰の悪そうな顔で訊ねた。
「心配するな。観兵かんぺい式が近いから、警邏に力を入れているだけさ」
「……そうですか」
「ありがとう、とっておいてくれ」
 少年の手に銅貨を握らせると、ようやく年相応の嬉しそうな様子を見せた。
「ありがとうございます!」
「うん。俺は憲兵隊第十三支部長のハイラートだ。君は?」
「カジャです」
「カジャ。情報があれば、また教えてくれ。俺は大体毎日、この通りを見回っているから」
「判りました」
 素直に頷くカジャの細い肩を叩き、ハイラートは喧騒に溶けこんだ。
 通りを一巡してから本部に戻ると、サンジャルが戻っていた。
「お帰りなさい、ハイラート隊長」
「サンジャル。療養所の男はどうだった?」
 彼はピルヨムと同室の、記憶喪失の男について調査中のはずである。
「彼は祈祷師マニか、もしくはその助手かもしれません」
 ハイラートは目を瞠った。
「なぜだ?」
「入院した時の衣類を見せてもらいました。ごく普通の普段着でしたが、巾着袋に聖油と薬用緋衣草セージの匂いが染みこんでいたんですよ」
「魔除けの道具か……」
 大カレル・ガレン屑鉄会社の玄関にあった香炉が思いだされた。
「ええ、恐らく。これから、神殿と民間の祈祷師マニを尋ねてみるつもりです」
「判った。ところで、十二日に大カレル・ガレン屑鉄会社の責任者と会うことになったのだが、サンジャルも一緒にきてくれるか」
「かしこまりました」
 翌日、翌々日も冷たい小雨のなか、ハイラートは管轄区域の市街を歩いて回り、失踪届をだした依頼人から話を聞いた。
 めぼしい情報をえられず、喫茶店で休憩をしながら新聞を見ると、尋ね人欄に新たな名前が増えていた。

“探しています――モニカ家の母、ナターシャ。休息日に参拝へでかけ、戻ってきておりません。金の水玉模様の黒い絹の衣装。情報をお持ちの方は、最寄りの憲兵支部までご連絡ください”

“探しています――施工屋のシッラ。桟橋に繋留されているはしけの修理にでかけた後に消息不明。長身痩躯、濃紺の上下に深靴を履いており、工具の入った鞄を所持しています。情報をお持ちの方は、最寄りの憲兵支部までご連絡ください”

 ……気が滅入ることこのうえないが、この調子でいくと十日後には失踪人の数が倍増していそうだ。
 仮に犯人がいるとしたら、これを見て警戒する可能性もあるが、失踪人が相次ぐなか憲兵の脚だけでは情報収集が追いつかないのが現状である。
 日が暮れて本部に戻る途中、正面から朧な影が近づいてきた。一寸先も見通せない濃霧がでていたので、先日駄賃を渡した少年、カジャだとすぐには判らなかった。
「ハイラート隊長! 一緒にきてくれますか?」
 目の前に突如顕れた少年は、少し興奮した様子でいった。
「どうした?」
「煙草屋のじーさんが、話したいことがあるって。人攫いの情報かもしれません」
 少年は軽快な足取りで市場に入ると、路地裏で喫煙をしている老人の前にハイラートを連れていった。脚が悪いようで、椅子の傍に杖がかけてある。
「じーさん、あの話をしてやってくれよ」
 少年の言葉に、老人は細い目をハイラートに向けた。
「憲兵が何の用だ?」
「お邪魔してすみません。このあたりの失踪した住人について調べているのですが、何か知っていれば教えていただけませんか」
 ハイラートが丁寧に説明すると、老人はいくらか警戒を解いた様子で、ぷかぷか煙草を吸った。煙を吐きだしてから、
「古い友人がいてな。あいつが、消えるところを見たんだ。あいつは怯えていた。手を振ってもがいている風だった。ほら、ちょうどそこの角だよ」
 老人のさした狭い路地を、ハイラートは見やった。街灯がぼんやり琥珀色に包まれ、湿った石畳を照らしている。このように細く薄暗い通路なら、かどかわしは成功しやすいだろう。
「何に襲われていたんですか?」
「判らない。最初は酔っ払って、踊っているのかと思ったんだ。また馬鹿をやってるってね。それで、じっと座って眺めていたんだが、そのうち怯えた声で叫びだしたんだ。しめあげられた鶏みたいな声でよ。どうもおかしいと思って近づいていくと……何か、得体の知れない何かから、逃げようと藻掻いていた。声をかけたんだが聞こえちゃいなかった。それで、壁際に追い詰められて……頸が、ごろっと転げ落ちたんだ」
「なんだって?」
「だから頸が、ごろっと転げ落ちたんだよ」
 ハイラートは眉をしかめた。すると老人はむっとして、
「嘘じゃねぇよ。疑うなら祈祷師マニを呼んで、検魂鑑識をしてくれよ。あいつは、死神に殺されたんだ」
「……判りました。話してくれてありがとうございます」
「ふん、どうせ瘋癲ふうてん者の戯言たわごとだと思っているんだろう?」
 ハイラートは、その通り酔っぱらいの寝言だろうと思ったが、懸命にも反駁はんばくするような真似はしなかった。丁寧に礼を伝えて、持っていた煙草を渡すと、老人は機嫌を直して笑顔になった。
 踵を返しながら、ある種の胸騒ぎを覚えていた。
 何かが気になる……老人の言葉に信憑性はないが、鋳物いもの屋の怪異は、実際にこの目で見ている。神殿祈祷師シャトーマニの亡霊が顕れ、彼の頸がごろっと転げ落ちた・・・・・・・・・のだ。これは奇妙な偶然だろうか?
「どうでした? 役に立ちましたか?」
 少し歩いたところで、カジャがハイラートの思考を遮った。
「ああ……助かったよ」
 我に返ったハイラートは、期待顔の少年にねぎらいの言葉をかけると、駄賃を渡してやった。

 四月十二日。
 ハイラートはサンジャルと共に、再び大カレル・ガレン屑鉄会社を訪れた。
 今日も玄関に置かれた青磁の香炉から、薬用緋衣草セージの匂いが漂っている。
 約した通り、今度は応接間に案内されると、ハイラートはさりげなく部屋を見回した。
 美しい部屋だ。白く塗られた壁に、金縁の風景画が何枚か飾られている。温かみのある木の床に、家具は余裕をもって配置され、片側にある本棚には、製造関連の本が整然と並んでいる。
 ハムラホビトという男は、几帳面なのかもしれないな……そんなことを考えていると、部屋に本人が顕れた。
 彼をひと目見た瞬間、どうしたことか、ハイラートの全身の毛が逆立った。
 昨日砂漠から戻ったばかりだと聞いているが、確かに疲れた顔をしている。というよりも、憑かれているみたいだ。浅黒い顔は血色悪く、大して寒くもないのに、裾まである羅紗を羽織り、首に子羚羊れいようの毛皮の襟巻きをしている。
「お待たせしてすみません。失踪した従業員について聞きたいそうですが……」
 ハムラホビトは落ち着いた声で訊ねた。落ち窪んだ青い瞳には、用心深さが滲んでいる。
「ええ、その通りです。我々は失踪人捜査員で、依頼人に順番に事情聴取をしております。貴方は、一月の終わりに祈祷師マニに依頼したそうですが、間違いありませんか?」
「はい、間違いありません。移送担当がふたり同時に姿を消したものですから、おかしいと思いまして」
「姿を消したのは、いつですか ?」
「一月二十日です。ちょうど環状柱列の着工日で、資材を運びにいったふたりが、荷車を残して姿を消したのです」
「なぜ失踪だと?」
 ハムラホビトが脚を組み替えたので、靴が床をこする。
「ふたりとも真面目な男です。仕事を放って消えることは考えられません。それで、翌朝も姿を見せないから、他の従業員に様子を見にいかせたんです。そうしたらもぬけの空だと報告を受けて、その五日後に彼の家族に手紙を送りました」
「家族はなんて?」
「とても驚いていましたよ。誰も、彼等の行方を知らなかったものですから」
「それで祈祷師マニに依頼をしたのですか?」
「はい。作業を中断して、祈祷師マニに鑑識を依頼しました。死亡宣告を受けて、鎮魂儀式を行い、それから葬儀を行いました」
「……鎮魂儀式ですか?」
 記帳の手を休めて、ハイラートは少々意外な思いで訊ねた。
「ええ、皆不安に駆られていましたから……少しでも慰めになればと思いまして」
「それはいつですか?」
「ニ月ニ日から五日にかけてです」
「随分と急ですね」
「仕方がありません。工事を再開しないといけませんし……それで、初日に検魂鑑識、ニ日目に鎮魂儀式、三日目に葬儀を行いました」
「なるほど……大変でしたね」
「ええ、本当に」
 ハムラホビトはくたびれたように答えた。
 ハイラートは同情したように相槌をうちながら、観察の目を走らせた。
 冷静に答えているが、内面はひどく緊張状態にあり、何かに怯えているみたいだ。さっきから両手の置き場所に困っている。部屋は涼しいのに、彼の額の生え際に汗が浮いている。
 経営状況は悪くなさそうだが、従業員がふたりも不審な失踪を遂げたら、誰だってピリピリするだろう。だが、それだけではない何かがある気がする。
 薄汚れた少年労働者たち……この男が仮に義理人情に厚いのだとしても、経営者が奴隷労働者のために、わざわざ祈祷師マニを呼んで三日間に及ぶ儀式を執り行だろうか?
 邪推かもしれないが、いろいろと疑念が浮かんでしまう……
 ハムラホビトもハイラートの懐疑的な様子を肌に感じて、びくびくしているように見えた。
 一通り話を聞き終える頃には、夕闇が迫っていた。辻馬車の広場に向かって歩きながら、サンジャルが訊ねた。
「彼の話は本当だと思いますか?」
 どうだろうな、とハイラートは頸を傾げた。
「嘘をいっているようには見えなかったが、他にも隠していることがありそうだな」
「労働者がふたり失踪したからといって、祈祷師マニを呼んで鎮魂儀式まで行うものでしょうか?」
 サンジャルの疑問に、ハイラートも頷いた。
「ああ、俺も気になった。それにあの男、どうも様子がおかしい」
 なかなか貫禄のある男だが、どこか病的に見えた。
「だいぶ疲れた様子でしたね」
「うむ……他の労働者にも話を聞いた方が良さそうだな」
「引き返しますか?」
「いや、もう日暮れだ。今度にしよう」
「では本部に戻りますか?」
 往来の喧騒が聴こえてきたところで、ハイラートは脚をとめて一寸考えた。
「……ちょっと、サミーラの様子を見にいってくる。先に戻って報告だけしておいてくれるか?」
「かしこまりました」 
 ふたりは同じ馬車に乗りこんだあと、市街前でハイラートだけ降りた。サンジャルを見送ったあと、市場に向かって歩き始めた。
 濃霧がでており、行き交う人々が朧に霞んで見える。
 茶店で手頃な土産を購入してから、ピルヨムの母、サミーラの家を訪ねると、戸口に彼女の娘が顕れた。
「お久しぶりです、ハイラート様」
「久しぶりだな、サンジョラ。息災にしていたか?」
「ええ、おかげさまで。ハイラート様もお変わりありませんか?」
 娘はぎこちなくほほえんだ。
 アッサラームを離れて、綿花畑の零細農家に嫁いだピルヨムの姉だ。どうやら母親が心配で、里帰りしているらしい。
「サミーラはいるだろうか?」
「ええ、少しお待ちください」
 サンジョラは奥へひっこむと、サミーラを呼んで戻ってきた。サミーラはやつれた顔をしていたが、ハイラートを見ると表情を綻ばせた。
「こんにちは、ハイラート様」
「サミーラ。近くまできたから、ちょっと様子を見にきましたよ」
 土産を渡すと、彼女は力ない笑みを浮かべた。
「まぁ、ご親切にありがとうございます。どうぞ、食べていってくださいな」
 狙ったわけではなかったが、ちょうど夕飯時で素晴らしくいい香りが漂っていた。一寸躊躇ったが、断るのも悪い気がして、ありがたく馳走になることにした。
 室内は以前と変わらず、羽目板の塗装はところどころ剥落はくらくしているが、居心地の良い調度で整えられていた。
 独り身のハイラートは、家庭的な空気を懐かしく感じた。母親が生きていた頃は、ハイラートの家も夕餉の匂いが漂っていた。今も一応自宅は維持してあるが、殆ど軍舎で寝泊まりしている。
 食卓につくと、ピルヨムの分と思わしき椀が置いてあった。
「……よみじに空腹でないように。あの子の好きなものを作りました」
 疑問を読んだように、サミーラが答えた。
「母さん」
 娘は嗜めるように口を挟んだが、ハイラートは優しくサミーラの肩に手を置いた。
「あいつは家の飯がうまいって、よく自慢していましたよ。そのうち腹を空かせて、帰ってくるかもしれない。諦めるのはまだ早いですよ」
 うなだれるサミーラの背を、娘のサンジョラが優しく撫でさする。
「母さん、騎士様が尽力してくださっているのよ。きっと見つかるわよ」
「……ええ、そうね」
 サミーラは弱々しい笑みを浮かべた。
 彼女はもう希望を抱いていないのだ。悲しみをたたえた瞳が物語っている。
 だがその悲しみを否定する根拠を提示できないことが、ハイラートにはやりきれなかった。