アッサラーム夜想曲

幾千夜に捧ぐ恋歌 - 1 -

 期号アム・ダムール四五六年一月。
 東西大戦から四年。
 新年を迎えたクロガネ隊の工房では、朝早くから掃除当番の隊員が床を磨いていた。なかには、仕事の準備に取りかかる者もいる。卸棚に並ぶ品を帳簿につけたり、作業机を片づけたりと、クロガネ隊のいつもの朝の風景である。
「お早うございます!」
 扉を開けて元気のいい挨拶をした少年――スヴェンは、絶賛片想い中のケイトを見つけて、瞳を輝かせた。
「ケイト先輩、何か手伝えることはありますか?」
 いそいそと声をかけにいく。意中の相手に、にこっと笑みかけられ、少年の胸は高鳴った。
「ありがとう。俺は大丈夫だから、ノーアたちに訊いてみて」
「ノーアとパシャなら平気です。もう訊きました。なので、遠慮せずに何でもおっしゃってください!」
「それじゃあ、他の人に声をかけてみてくれる?」
「はぁい……」
 恋する少年は、少々がっかりしたように返事をした。彼がケイトにあしらわれて肩を落とす姿は、工房では日常の光景である。片恋は今のところ見込み薄いのだが、スヴェンは何度袖にされても諦めない。
 昼休の鐘が鳴った後、ケイトが一息ついている様子を見て、スヴェンはいそいそとケイトの傍に寄った。近くにいた光希は、つい手を休めて二人に視線を注いだ。
「ケイト先輩、好きです! 恋人になってください!」
「すみませんが、無理です」
 にべもなくケイトがいうと、周囲からささやかな笑いが起きた。悪意あるものではない。スヴェンは真剣そのものなのだが、猪突猛進な少年が空回る姿につい笑みを誘われるのだ。
「あぁッ! 俺の溢れんばかりの愛は、出口を求めて溺れています。このままでは、難破してしまう! ケイト先輩、助けてくださいッ」
「うーん、浮き袋はどこかなぁ」
 工房を見渡すケイトに、はい、と光希は粘土の入った麻袋を渡した。ケイトは笑顔で礼をいうと、それをスヴェンに差しだした。
「酷い、先輩! これじゃ水を吸って余計に沈んでしまいますよ!」
 両手に顔を沈めたスヴェンは、ワッと泣き真似をした。ははは……と笑いが起こる。ぱっと顔をあげたスヴェンは、熱っぽくケイトを見つめた。
「責任をとって、溺れた俺を蘇生してください」
「え?」
 ケイトが答える前に、スヴェンは両腕をケイトの背中に回して抱きついた。捨てられた子犬の風情で、上目遣いに仰ぐ。背伸びをして、顔を近づけようとすると、ケイトは嫌そうな顔でスヴェンを引き剥がした。
「暑苦しい。抱きつくんじゃない」
「先輩ぃ」
 積極的だなぁ……と光希は余興を眺める顔つきでいるが、当事者であるケイトは違った。
「あのね、スヴェン。こういう風に騒がれるのは、苦手です。俺はスヴェンの気持ちには、応えられないよ。本当にごめんね」
 温厚なケイトにしては、誤魔化さず、はっきりとした口調で告げた。
 工房に沈黙が落ちる。
 これまで、なんだかんだいいながらも、スヴェンの振る舞いを許容してきたケイトだが、ついに限度を振り切ったのだろうか?
 底抜けに明るく前向きなスヴェンも、表情を凍りつかせている。悄然と肩を落として、すみません……消え入りそうな声で呟くと、工房をでていってしまった。
「スヴェン」
 後ろを追い駆けようとした光希は、腕を掴まれて振り向いた。ケイトだ。追い駆けるなと視線で訴えられ、言葉に詰まった。
 周囲の隊員たちも、互いの顔を見あわせて肩をすくめている。
 最初に動いたのは、同期の少年たちだった。心配そうな顔でノーアが、飄々ひょうひょうとした顔でパシャが席を立ち、工房をでていく。
「……申し訳ありません、殿下」
 ケイトは非礼を詫びてから腕を離した。
「いや。ごめん、僕は追い駆けるべきじゃないよね」
 ケイトは力なく首を左右に振った。その思い悩んだ表情を見て、想いを断る方もしんどいのだと光希は感じた。
 光希が昼休憩に誘うと、ケイトも同じ気持ちだったようで、二つ返事で応じた。
 工房をでて廊下から中庭にでると、殆ど同時に蒼天を仰いだ。
「元気だしてね。スヴェンには仲間がいるし、立ち直るよ。ケイトは、いつも通りに接すればいいと思う」
「はい……すいません、空気を悪くしてしまって」
「あれはしょうがないよ。ケイトが謝ることじゃない」
 人の心ばかりは、どうにもならないものだ。スヴェンは一生懸命に恋をして、ケイトは受け入れられなかった。誰が悪いわけでもない。
 失恋は辛いけれど、時間が癒やしてくれる……その時が早く訪れることを、祈ることしかできない。
 昼食後、工房へ戻る前に少し歩こうと光希が誘うと、ケイトは感謝するように淡くほほえんだ。
 青空と草花を眺めて、そよ風を顔に浴びながら雑談しているうちに、ケイトの気分も上向いて彼の方から工房へ戻ろうと切りだした。
 幸い、工房に漂っていた気まずい空気は、どこかへ流れていた。
 というより、忙しさが増して、それどころではなくなっていた。話しかけるな、という殺伐とした空気をかもして、誰もが仕事に没頭している。
 スヴェンも戻ってきていたが、互いに視線をあわせようとはしなかった。
 慌ただしい一日が過ぎ去り、終課の鐘が鳴ると、ケイトはスヴェンに一言も言葉をかけず、工房をでていった。
 気落ちしたスヴェンの様子を見て光希は、彼の隣に座った。なんとも弱り切った顔で、少年は光希を見た。
「はぁ……」
 思わしげにため息をついたかと思えば、机の上に突っ伏す。恋する少年の頭を、光希はぽんぽんと叩いた。
「元気だして」
「……俺は殿下になりたい」
「僕?」
「ケイト先輩と仲良くなりたい。少しでいいから、意識して欲しい」
 右頬を机につけたまま、スヴェンは拗ねたように光希を見た。
「まぁ、彼は人見知りするから。最初は僕に対しても、緊張していたよ」
「そうなんですか? 俺にも早く打ち解けてくれないかなぁ……」
「十分、打ち解けていると思うよ。ケイトはスヴェンとはよく喋る方だよ。普段は、もっとずっと口数が少ないから」
 光希は慰めるようにいった。
「あしらわれているだけです。それくらい、判っています」
「卑屈だなぁ。スヴェンは話しやすいから、ケイトも気軽にいいやすいんだと思うよ」
「でも、迷惑だっていわれちゃったから……」
 唇を戦慄わななかせ、歯を噛みならしてスヴェンはいった。普段は陽気に振る舞っている彼からは、想像できないほど弱々しい姿だ。
「う、ん……毎日工房で顔を合わせるし、きついね」
「全然、諦められる気がしない……」
「元気だして。今度の休みに、ノーアやパシャと気晴らしに出掛けてみたら?」
「ケイト先輩といきたい……」
「うん……」
「想うだけでも、許されないのでしょうか?」
「心は自由だよ。スヴェンだけのものだ」
 スヴェンは小さく頷くと、哀しそうに眉をさげた。
「でも、俺はもう伝えることは許されないんだ……」
 かける言葉を見つけられず、光希は黙していたが、ふと思い浮かんだことを口に乗せた。
「その想いを、綴ってみたら?」
「え?」
「あ、いや……かっとなったり、もどかしい想いで、にっちもさっちもいかない時は、紙に書くといいって、前に友人が話していたことを思いだして」
「手紙で、想いを伝えるのか……!」
 閃いた! と、いわんばかりのスヴェンを見て、光希は慌てた。
「ううん、実際に渡さなくていいんだ。書きなぐった後は、敢えて二・三日寝かせるらしい。数日経ってから読み返すと、その苛烈な内容は、とても人に見せる気が起こらなくなるそうだよ」
 と、以前アンジェリカは話していた。やりれきな想いを昇華するのだと。
「なるほど。でも、それでも渡したくなったら、どうするのでしょう?」
「……その時は、渡せばいいんじゃないかな?」
 余計なことをいったかしら。希望を目に灯すスヴェンを見て、光希は少々不安になった。