アッサラーム夜想曲

織りなす記憶の紡ぎ歌 - 9 -

 時折、断片的な記憶が思い浮かぶ。
 それは見慣れた日本の日常であったり、見知らぬはずのアッサラームの光景であったりと様々だ。
 例えば、通勤ラッシュの駅のホーム。毎週読んでいた週刊誌。教室の窓から見える飛行機雲の白い線、風になびくカーテン、雨の雫……退屈な授業。休み時間を告げるチャイム、ざわめく教室。購買で売っているカツサンド。家族で囲む食卓風景。フィギュア制作に熱中している自分……
 例えば、活気にあふれる軍の工房。仲間たちと笑いあい、仕事に没頭し、ぎりぎりの納期をなんとか終えて、累々るいるいと床に伏している光景。
 暮れなずむ夕暮に立ち、ほほえむジュリアス。金色に縁取られた輪郭の神々しさ。二人で飛竜に乗り、雄大な砂漠の上をどこまでも翔けた感動。変装して街に繰りだした喜び。夜の団欒にとりとめのない雑談をして、並んで眠りに就く幾千夜……
 彼が万軍を率いて、敢然と立ち向かう英雄だということを、今は理解している。
 ジュリアスは、絵物語の存在などではなく、熱を持った圧倒的な存在感で光希の傍にいる。
 この世界は夢ではない・・・・・・・・・・――地球とは別にある、もう一つの現実世界だ。
 ふとした瞬間に、ジュリアスと過ごした記憶が蘇る。肌を重ねた記憶が脳裡をよぎった時には、倒れそうになった。
 妄想ならまだいい。
 だが、夢の余韻でちりちりと焦げる肌が、あれは現実に起きたことなのだと、光希にいい聞かせているようで――
 何遍考えてみても、判らない。何をどうして、そのような事態になったのだろう?
 あらゆる才に恵まれた美貌の英雄と、ごく平凡な自分が、次元を飛び越えて恋仲になる過程が全く想像つかない。
 しかし、対の指輪を持ち、寝食を共にし、キスをする仲なのだ。只の知り合いや、友人では済まされないだろう。
 日を重ねるごとに、この てしない大地に光希という存在が根づいていく。
 曖昧模糊あいまいもことした想いが形になっていく。
 不思議な感覚だった。
 視界が晴れていく安心感の一方で、朧な肉体に血が通い出す不安も募る。
 高校の制服を着た自分の姿が日に日に遠ざかり、黒い軍服を着た自分の姿が鮮明になっていく……
「――光希?」
 優しく揺り起こされて、光希は微睡まどろみから醒めた。
 澄んだ青い瞳と遭う。無限回廊のような妄想に囚われていた気がするが、ジュリアスの瞳を見ると、心がアッサラームに引き戻される。
「お早うございます……」
「お早う」
 寝ぼけている光希と違い、ジュリアスは既に軍服に着替えていた。ぼんやりしている光希の髪にキスをしてから、彼は手際よく身支度を整えていく。細長いサーベルを腰にいて、靴に短剣を仕込み、上着を羽織って襟を正す。
 今日も目が醒めるほどの美男子ぶりである。
 凛々しい軍服姿に見惚れていると、ジュリアスは光希を振り向いてほほえんだ。
「いってきます」
「“待って”」
 彼のあとをついて、光希も玄関までおりていくと、ジュリアスは扉の前で立ち止まった。照れくさそうにしている光希を、優しい眼差しで見つめる。
「ゆっくり過ごしていてください。すぐに戻ります」
「“行ってらっしゃい。気をつけて”」
 綺麗な顔が降りてきて、光希は慌てて瞳を閉じる。その緊張を知ってか、かすかな微笑を漏らすと、ジュリアスは頬に優しく口づけた。

 日が暮れて――
 夕食を終えたあと、私室に戻ったジュリアスと光希は、テラスで夕涼みを愉しんでいた。
 雨あがりのしっとりとした夜に、ジュリアスは弦楽器を抱えて、メローな旋律をつま弾いている。
 どこか憂愁メランコリックな、異国情緒に富む輪舞曲ロンド夜闇よるやみに溶けこんでいく。余韻を残して曲が終わると、光希は目を輝かせて手を鳴らした。
「“……上手!”」
 素直な賞賛は、在りし日の姿をジュリアスに彷彿とさせた。
 目を細めて、来し方を懐かしむジュリアスを、光希は不思議そうに見つめ返してくる。
「ジュリ?」
「いえ、なんだか懐かしくて……」
 沈黙が流れる。
 ぼんやりと青い星を仰ぐ光希の横顔を、ジュリアスはじっと見つめた。
 日頃は、心を紛らわせるように気丈に振る舞っている光希だが、やはりどこか無理をしているのだろう。
 月光をもらい受けて、白い輪郭は青白く照らされている。郷愁を誘われて翳る表情は、もの哀しく、そして美しかった。
「光希……」
 静かに呼びかけると、光希は小さく目を見開いて、思いだしたようにジュリアスを見た。
「ジュリ……“俺は、帰れるのかな? 地球に……”」
 弱々しく震える唇から、かすかな呟き――チキュウ――と聞いて、心臓を鷲掴まれた。
(青い星へ還る?)
 思わず腰を引き寄せて顔を覗きこむと、夜空のような瞳は、戸惑ったように揺れた。親指で唇をなぞれば、二人の間に緊張が走る。
「いかないでください」
「ジュリ……」
 我慢できず、きつく抱きしめた途端に光希は身体を硬くした。
「んっ!?」
 気づけば、唇を重ねていた。
 柔らかな唇に、心が甘く痺れる。啄むような口づけを繰り返すと、うっすら唇が開いた。顔を傾けて深く口づけていく。
「……ッ……んぅ」
 舌を絡ませると、光希は甘い吐息を漏らした。限界の縁で堰きとめている理性が、崩壊しかけている。
 少しだけ顔を離すと、黒い瞳にうっすら涙の幕が張っていた。目元を指でなぞると、光希は困惑したように視線を彷徨わせる。
「“な、なんで?”」
 頬を上気させて、唇は扇情的に濡れている。下肢の昂りを感じながら、ジュリアスは手すりを背に光希を追い詰めた。
「……思いだせませんか? こうして何度も、私に触れられたことを」
 頬を手の甲で触れると、光希は、慄いたように身震いした。
「“なんか、恐いんだけど……”」
「光希」
 怯えたように顔を背けられた刹那、殆ど衝動的に唇を奪った。
「んッ」
 口内を貪り、思うがまま唇を奪う。とても止められない――甘い吐息を味わいながら、己がいかに飢えていたかを思い知った。
「ん、ぅ」
 唇の合間から、いつまでも聞いていたいような、艶めいた吐息が漏れる。心臓は激しい鼓動を打ち、全身の血は瞬く間に熱くなる。ほんの少し触れただけで、たがが外れてしまった。本能のままに腰を押しつけると、光希はびくりと肩を撥ねさせた。
「や……“放してッ”」
 抵抗されるほどに、飢えが募る。首すじに吸いつくと、甘い声で啼いた。光希が怯えている、やめなくては――頭の片隅で理性が囁いても、もろい自制の壁は、肌に触れるほどに罅割れた。
「光希が忘れてしまっても、貴方は私の花嫁ロザインだ」
 朱くなった耳朶を甘噛みすると、光希は媚薬のような吐息を漏らした。下腹部を刺激される。彼の全てを自分のものにしたい――激しい衝動に突き動かされ、甘い唇を貪り、舌を深く挿しいれた。
「ッ!」
 舌を噛まれて、痛みに顔を離すと、蒼白な顔で光希はこちらを見ていた。黒い眼差しは涙に濡れている。幾らか冷静になり、そっと手を伸ばすと、光希はびくりと肩を撥ねさせた。
「……すみません……怖がらないで」
「“どうして……?”」
 お互いに、しばらく動くことができなかった。伝えたい想いがあるのに、言葉が見つからない……
 もどかしさを噛みしめながら、ジュリアスは拳を硬く握りしめた。これ以上傍にいたら、自分が何をしでかすか判らないと思い、仕方なくナフィーサを呼んだ。やってきた少年を見て、
「……光希を休ませてあげてください」
 そういって席をはずす。すれ違う瞬間、安堵の表情を浮かべる光希を視界の端で捉えて、胸に切なさがこみあげた。
 ナフィーサに寄り添う姿を見ていられず、目を逸らすジュリアスを、今度は光希が切なげに見ていることには、ジュリアスは気づいていなかった。