アッサラーム夜想曲
織りなす記憶の紡ぎ歌 - 10 -
性急に触れてしまったせいで、翌日は一日避けられた。
視線があうだけで、目に見えて肩を震わせるのだ。自業自得なのだが、怯えられているという現実に、ジュリアスの心は沈んだ。
その夜は、二階の寝室には戻らなかった。
緊張を強いるのは忍びないという念が半分、あとの半分は、面と向かって怯える姿を見たくなかったからだ。
夜も更けた頃。
書斎で深酒をしていたが、眠気は一向に訪れない。どれだけ煽っても、光希の怯えた顔が脳裡にちらついて離れない。
我慢できず、寝顔だけ見るつもりで二階の寝室へ入ると、灯りがついていた。光希がまだ起きていることにも驚いたが、彼の頬を濡らす涙に目を瞠った。
「光希? どうしたんですか?」
「ジュリ……」
傍へ寄ると、光希は握りしめた手紙をジュリに見せた。
「それは……」
寝台の上には、紐でくくられた手紙の束が散らかっていた。文箱を見つけて、中を検めていたようだ。
「“読めないんだ、ちっとも。なのに、文字を眺めているだけで、涙が溢れて……この手紙、ジュリがくれた?”」
手紙は、ジュリアスの直筆だった。東西大戦のさなか、光希に宛てて書いたものだ。
「“なんで、読めないことが、こんなに苦しいんだろう……俺は、何を忘れているんだろうっ”」
彼は、胸に迫るような、涙に濡れた声で訴えた。丸い双眸から、はらはらと透明な雫が零れ落ちる。
「光希……」
思わず伸ばしかけた手を、ぐっと拳に握りしめた。この腕で抱きしめてやりたい。彼を甘やかしてやりたい。そう思うが、動けなかった。昨日の今日で同じ過ちを繰り返すつもりかと自制が働いてしまう。
顔をあげた光希は、涙に濡れた瞳でジュリアスを仰ぎ、おずおずと身を寄せてきた。
「ふ……ッ……」
声を殺して泣く光希の身体を、ジュリアスはそっと抱きしめた。悲痛な気持ちが、ジュリアスにも浸透していく。
「泣かないでください……」
「“なんで思いだせないんだ、俺、なんで……”」
震える背を慎重に撫でていると、光希の方から強い力でしがみついてきた。ジュリアスの胸に顔をうずめて、くぐもった声で呻いている。らしからぬ腕の強さが、彼の心の傷を訴えていた。
(かわいそうに……)
柔らかで清潔な匂いを意識しながら、それ以上に、彼を慰めてやりたい。なにものからも守ってやりたいという、強い庇護の気持ちが滾々と沸いてくるようだった。
「大丈夫、私が傍にいます……貴方を一人にはしない……」
耳元でそっと囁き、濡れた頬を指で拭う。優しく髪を撫でている間、光希は拒むことなくじっとしていた。
その夜は、同じ寝台で寄り添って瞳を閉じた。
音を立てぬよう身体を起こしたジュリアスは、背を向けて眠る光希を見つめた。めくれた毛布を直してやりながら、涙のあとがのこる頬に目を注ぐ。
月灯りに縁どられる丸い頬の輪郭、少し開いた唇……記憶にあるままの、愛しい光希だ。
それなのに、彼の方はジュリアスを覚えていない。
眠る光希を見守りながら、なんともいえぬ寂しさがこみあげた。
このまま、光希の記憶が戻らなかったら?
「……」
言葉にならない。
満点の星が降る夜、泉を通じて現れた光希。一目見た瞬間に、彼こそが生涯ただ一人の恋人だとジュリアスには判った。
初めて交わした視線を忘れない。
黒く濡れた視界を不安そうに揺らして、ジュリアスに縋りついた。青い星から落ちてきた、愛しい存在。かき抱いた身体は柔らかく暖かくて、心なき身体に火を灯したのだ。
あの衝撃も、感動も、喜びも、夜空の美しさまで、あの最初の一瞬のままに思いだされた。
「愛しています……」
あどけない寝顔に、そっと囁く。
同じ言葉を、今の光希は返してはくれない。
傍にいてくれる。それで十分ではないか――そういい聞かせても、寂寥を拭えない。
二人で編んできた、織りなす記憶のより糸は、永遠に解けたままなのだろうか。
胸が痛い……
滔々 と流れゆく時間のなかで、ジュリアスだけが佇んでいるような、壮絶な錯覚に囚われた。
眼を閉じれば――
昨日のことのように、思い浮かべることができる。
オアシスで焚火を前に、ラムーダを奏でた夜。
言葉を覚えようと、励む姿。拙い言葉遣いに、胸を暖かくさせたこと。
艶めいた宮女の姿……それを厭い、拗ねる姿。
ひたむきに、鏨 を打つ姿。応接間を工房に改装すると、それはそれは喜んでくれた。
思うように鉄 に神力を宿せず、打ちひしがれる姿。
倒れたと知らせを聞いた時は、心臓が止まるかと思った。苦しみ、夢うつつに謝罪を繰り返す痛々しい姿。
祭壇に跪く、厳かな横顔。
大戦を前に、不安を押し殺して笑顔を浮かべる健気な姿。高見から手を振る姿……
何度も、何度も、支えられてきた。
武器を持たなくとも、光希は強い。
倒れても、起きあがる度に前を向いて、一つ一つに打ち克ってきた。守っているようで、守られていたのはジュリアスの方だ。光希の存在があったからこそ、東との大戦を乗り越えられたのだ。
国門で再会した喜び。
幾度となく交わした情交……
思いかえせば、切がない。
堰きとめられない想いが、次から次へと溢れていく。
天に導かれて、二つの軌跡は点を結んだのだ。
二人で過ごしてきた時間は、どれだけ経っても褪せぬ宝物。その全てを、光希は失くしてしまった。このまま、永久に思いだせないかもしれないのだ。
甘い感傷と呼ぶには苦しすぎて、喉奥までせりあがるため息を、ジュリアスは封じこめた。額に拳を押し当てて、瞑目する。
(こんなことでどうする――)
不安に思っているのは、光希の方なのだ。見知らぬ場所で、知人もなく、言葉も判らず、どれだけ心細い思いをしていることか。これ以上、彼に苦しい思いをさせてはいけない。
光希の支えにならねば。
日向に咲いたような、優しい笑顔をもう一度見たい。心から朗らかな笑みを浮かべられるよう、この手で守ってやりたい。
それが最優先だ。自分の欲や感傷など、二の次でいい。ジュリアスは強くいい聞かせた。
視線があうだけで、目に見えて肩を震わせるのだ。自業自得なのだが、怯えられているという現実に、ジュリアスの心は沈んだ。
その夜は、二階の寝室には戻らなかった。
緊張を強いるのは忍びないという念が半分、あとの半分は、面と向かって怯える姿を見たくなかったからだ。
夜も更けた頃。
書斎で深酒をしていたが、眠気は一向に訪れない。どれだけ煽っても、光希の怯えた顔が脳裡にちらついて離れない。
我慢できず、寝顔だけ見るつもりで二階の寝室へ入ると、灯りがついていた。光希がまだ起きていることにも驚いたが、彼の頬を濡らす涙に目を瞠った。
「光希? どうしたんですか?」
「ジュリ……」
傍へ寄ると、光希は握りしめた手紙をジュリに見せた。
「それは……」
寝台の上には、紐でくくられた手紙の束が散らかっていた。文箱を見つけて、中を検めていたようだ。
「“読めないんだ、ちっとも。なのに、文字を眺めているだけで、涙が溢れて……この手紙、ジュリがくれた?”」
手紙は、ジュリアスの直筆だった。東西大戦のさなか、光希に宛てて書いたものだ。
「“なんで、読めないことが、こんなに苦しいんだろう……俺は、何を忘れているんだろうっ”」
彼は、胸に迫るような、涙に濡れた声で訴えた。丸い双眸から、はらはらと透明な雫が零れ落ちる。
「光希……」
思わず伸ばしかけた手を、ぐっと拳に握りしめた。この腕で抱きしめてやりたい。彼を甘やかしてやりたい。そう思うが、動けなかった。昨日の今日で同じ過ちを繰り返すつもりかと自制が働いてしまう。
顔をあげた光希は、涙に濡れた瞳でジュリアスを仰ぎ、おずおずと身を寄せてきた。
「ふ……ッ……」
声を殺して泣く光希の身体を、ジュリアスはそっと抱きしめた。悲痛な気持ちが、ジュリアスにも浸透していく。
「泣かないでください……」
「“なんで思いだせないんだ、俺、なんで……”」
震える背を慎重に撫でていると、光希の方から強い力でしがみついてきた。ジュリアスの胸に顔をうずめて、くぐもった声で呻いている。らしからぬ腕の強さが、彼の心の傷を訴えていた。
(かわいそうに……)
柔らかで清潔な匂いを意識しながら、それ以上に、彼を慰めてやりたい。なにものからも守ってやりたいという、強い庇護の気持ちが滾々と沸いてくるようだった。
「大丈夫、私が傍にいます……貴方を一人にはしない……」
耳元でそっと囁き、濡れた頬を指で拭う。優しく髪を撫でている間、光希は拒むことなくじっとしていた。
その夜は、同じ寝台で寄り添って瞳を閉じた。
音を立てぬよう身体を起こしたジュリアスは、背を向けて眠る光希を見つめた。めくれた毛布を直してやりながら、涙のあとがのこる頬に目を注ぐ。
月灯りに縁どられる丸い頬の輪郭、少し開いた唇……記憶にあるままの、愛しい光希だ。
それなのに、彼の方はジュリアスを覚えていない。
眠る光希を見守りながら、なんともいえぬ寂しさがこみあげた。
このまま、光希の記憶が戻らなかったら?
「……」
言葉にならない。
満点の星が降る夜、泉を通じて現れた光希。一目見た瞬間に、彼こそが生涯ただ一人の恋人だとジュリアスには判った。
初めて交わした視線を忘れない。
黒く濡れた視界を不安そうに揺らして、ジュリアスに縋りついた。青い星から落ちてきた、愛しい存在。かき抱いた身体は柔らかく暖かくて、心なき身体に火を灯したのだ。
あの衝撃も、感動も、喜びも、夜空の美しさまで、あの最初の一瞬のままに思いだされた。
「愛しています……」
あどけない寝顔に、そっと囁く。
同じ言葉を、今の光希は返してはくれない。
傍にいてくれる。それで十分ではないか――そういい聞かせても、寂寥を拭えない。
二人で編んできた、織りなす記憶のより糸は、永遠に解けたままなのだろうか。
胸が痛い……
眼を閉じれば――
昨日のことのように、思い浮かべることができる。
オアシスで焚火を前に、ラムーダを奏でた夜。
言葉を覚えようと、励む姿。拙い言葉遣いに、胸を暖かくさせたこと。
艶めいた宮女の姿……それを厭い、拗ねる姿。
ひたむきに、
思うように
倒れたと知らせを聞いた時は、心臓が止まるかと思った。苦しみ、夢うつつに謝罪を繰り返す痛々しい姿。
祭壇に跪く、厳かな横顔。
大戦を前に、不安を押し殺して笑顔を浮かべる健気な姿。高見から手を振る姿……
何度も、何度も、支えられてきた。
武器を持たなくとも、光希は強い。
倒れても、起きあがる度に前を向いて、一つ一つに打ち克ってきた。守っているようで、守られていたのはジュリアスの方だ。光希の存在があったからこそ、東との大戦を乗り越えられたのだ。
国門で再会した喜び。
幾度となく交わした情交……
思いかえせば、切がない。
堰きとめられない想いが、次から次へと溢れていく。
天に導かれて、二つの軌跡は点を結んだのだ。
二人で過ごしてきた時間は、どれだけ経っても褪せぬ宝物。その全てを、光希は失くしてしまった。このまま、永久に思いだせないかもしれないのだ。
甘い感傷と呼ぶには苦しすぎて、喉奥までせりあがるため息を、ジュリアスは封じこめた。額に拳を押し当てて、瞑目する。
(こんなことでどうする――)
不安に思っているのは、光希の方なのだ。見知らぬ場所で、知人もなく、言葉も判らず、どれだけ心細い思いをしていることか。これ以上、彼に苦しい思いをさせてはいけない。
光希の支えにならねば。
日向に咲いたような、優しい笑顔をもう一度見たい。心から朗らかな笑みを浮かべられるよう、この手で守ってやりたい。
それが最優先だ。自分の欲や感傷など、二の次でいい。ジュリアスは強くいい聞かせた。