アッサラーム夜想曲

織りなす記憶の紡ぎ歌 - 8 -

 沈黙が流れる。
 黒い双眸を丸く見開いて、光希はジュリアスの瞳に答えを探している。かと思えば、我に返ったように目元を赤く染めた。
 視線を逸らされる前に、ジュリアスは無意識に頬に手を伸ばした。
「……貴方は、私の運命そのものです。幾千夜を越えて、砂漠で巡り逢い、虚ろな心に火を灯してくださった。恋を知り、生きる喜びを知り、私の何もかもを変えたのです――光希」
「はい」
 妙に畏まった返事をする光希を見て、ジュリアスはほほえんだ。銀色の円環をはめた手をそっと持ちあげて、優しく唇で触れる。
「あ……」
 戸惑いに揺れる黒い瞳を見つめたまま、ジュリアスは姿勢を正した。踵をそろえ、礼節にのっとって、片手を右肩に当てる。
「光希が好きです。出会った時から、変わらずに貴方だけを想っています……愛している。私を知って、どうかもう一度、私を好きになってください」
「ジュリ……」
「……口づけてもいい?」
 想いを抑え切れず、ジュリアスは光希の両肩を手で包みこんだ。潤んだ瞳を見つめながら、ゆっくり顔を近づける。
「“あ、あの”」
「光希……」
 距離を取ろうと突きだされた腕を無視して、ジュリアスは腰を引き寄せた。光希が怯えている。判っているが、止まれそうにない。唇に視線を落とすと、光希は顔を背けた。緊張に強張る身体を、逃がすまいと抱き寄せる。
「逃げないで」
 そっと唇の端に口づければ、光希は小さく震えた。ジュリアスは朱くなった頬を両手で挟むと、じっと見つめてから顔を傾け、唇を押し当てた。
 えもいわれぬ陶酔感。久しぶりに触れた唇に、全身が痺れた。もっと欲しい――欲望のままに、さざなみのように震えている光希の腰を引き寄せ、隙間がないほど密着させた。啄むような口づけを何度か繰り返し、少しずつ口づけを深めていく。
「ん、ぅっ」
 上唇を柔らかく食むと、うっすら開いた唇から甘い吐息が零れた。頭がくらくらする。強烈な劣情がこみあげて、舌を挿し入れた。歯列を割って、逃げ惑う舌をからめ捕る。優しく啜りあげれば、腕のなかで柔らかな肢体がびくんと跳ねた。ぎゅっと抱きしめた瞬間、光希は本格的に腕をつかって逃げようとした。逃がさない。反射的に両腕を掴み――
「ジュリッ」
 怯えのいりまじった悲鳴を聞いて、ジュリアスは我に返った。光希は、頬を上気させ、泣きだしそうな顔をしている。
(なんてことを――)
 こんな風に強引に迫ったりして、光希を脅かしてしまうなんて。優しくしなければいけないのに。
「……すみません」
 名残惜しく思いながらも、ジュリアスは身体を離した。記憶を失くしているのだと知っていても、怯えた表情をされるのは辛い。
「驚かせてしまいましたね……」
 悄然しょうぜんと視線を落とすジュリアスを見て、光希は今の口づけが、戯れでないことを悟った。
 嫌ではなかった。
 天地がひっくり返り、全力疾走したかのように心臓は拍動しているが、決して嫌ではなかった。
 無意識に濡れた唇に触れると、じんと、身体が甘く痺れた。キスがこんなにも気持ちいいだなんて、知らなかった。
(知らなかった? 本当に……?)
 消失した記憶の奥底で、熾火が揺れている。得体の知れない何かが、泉のように胸から溢れだして、さざなみ のように全身に拡がった。
「“俺たちは、やっぱり、そのぅ……そういう関係なの?”」
 訳が判らない……殆ど自問するように光希は呻いた。首を振って、熱をもった頬に手をあてる。と、今度は暴れる心臓に手を置いて、宥めようと試みる。
「光希……」
 そわそわする光希に、ジュリアスは優しく呼びかけた。許されるのなら、彼が落ち着くまで、腕に抱きしめてやりたいと思う。それはまだ許さないと思ったから、そっと指先を握った。
「私といると、落ち着きませんか?」
「……?」
 光希は戸惑った表情を浮かべているが、手を振り払おうとはしなかった。
 手を繋ぐぐらいが、今の二人には、適切な距離なのかもしれない。じっとしている光希を観察することで、ジュリアスは、抱きしめたいという衝動をどうにかやり過ごした。
 このキスをきっかけに、二人は距離を測りかねるようになった。
 互いを意識しながら、踏みこめない。
 光希は恥ずかしそうに緊張している風だが、ジュリアスの事情はもっと切実だった。
 己を律していても、やり場のない欲望は募っていく。手を伸ばせば触れられる距離に光希がいるのに、触れられない。ふと気づけば、光希の唇やうなじ、身体の線に目を注いでいる。居心地悪そうに身じろぐ光希を見る度に、我に返るのだ。
 このままでは、いつか刹那的な欲望に負けて、強引に奪ってしまいそうだ……
 これまでのように触れぬよう、細心の注意を払わねばならなかった。
 怖がらせないように、驚かせないように――甘く切ない戒めに苛まれながら、ジュリアスはそれでも光希の傍にいたかった。
 食事の合間に、団欒の一時に、西に傾く日射しを眺めながら、これまでの出来事を光希に話して聞かせた。
 言葉は判らずとも、ジュリアスが語りかけると、光希は澄んだ黒い眼差しを向けてじっと聴きいった。
 夜の静寂しじま には、寝物語の代わりに昔話を聞かせた。
「……昨夜は、どこまで話しましたっけ? クロガネ隊に勤め始めたところまで?」
 絨緞に寝転んだままジュリアスが首を傾けると、光希も同じように首を傾けた。忍び笑いを漏らしながら、そうそう、と続ける。
「あの時は、本当に心配をしましたよ。少しでも目を放すと、貴方は思いもよらないことをしてくれる」
「ん?」
「この話をもちだす度に、光希はよくそうやってとぼけて……今は本当に判らないんだから、もう……」
 ふと絨緞についた白い手に目が留まり、触れたい欲求に駆られた。意志の力で視線を逸らしながら、ジュリアスは再び唇を開いた。
「貴方が急に抜けだすものだから……」
 切ない想いに蓋をして、光希の忘れてしまった記憶を紡ぐ。いつか、彼が思いだしてくれることをねがいながら……