アッサラーム夜想曲
織りなす記憶の紡ぎ歌 - 7 -
アール河の煌めく水面を眺めると、光希は表情を和らげた。
束の間、彼の顔から、陰りが消えたように見えて、ジュリアスは内心で安堵した。
「……なかに入りましょう」
そういって光希の肩を引き寄せると、彼は素直にしたがった。記憶を失くしていても、アッサラームを描いた絵画的な草木染めの絨緞はお気に入りらしく、進んで腰をおろした。なんともなしに、指を滑らせて手触りを愉しんでいる。
「気持ちいい? 二人でエルドラード市場へ繰りだした際、購入したものですよ」
光希は楽しそうに笑みを浮かべ、
「“ふかふかだ”」
「フカフカ?」
ジュリアスが言葉を真似ると、光希は嬉しそうに何度も頷いた。絨毯を撫でながら、紅茶を煎れる様子を興味津々といった風に眺めている。
紅茶は、一般家庭では火で沸すことが多いが、公宮では正式に炭火で沸かしている。
給仕の様子に見入る光希を、ジュリアスがじっと見つめていると、唐突に目が遭った。黒曜の瞳が細められ、きらきらとした光がこぼれだす。
眩い笑顔に不意打ちで見惚れてしまい、ジュリアスは咄嗟に言葉がでてこなかった。
「“凄いなぁ、本格的だなぁ”」
心を奪われているジュリアスには気づかず、光希は興奮した様子でいった。
「……工房を見せたら、貴方はもっと喜ぶのでしょうか」
「“何ですか?”」
にこにこしている光希を見て、ジュリアスはほほえんだ。
紅茶を飲んで寛いだあと、ジュリアスは光希を連れて工房へ入った。
作業机の上にかけられた布をめくると、鋼の腕輪が置かれていた。オアシスへ発つ前まで、光希が取り組んでいたものだ。
「これを覚えていますか?」
「“何ですか?”」
光希は不思議そうに首を傾げ、自ら打った意匠に目を凝らした。手にとり、しばらく矯 めつ眇 めつ眺めていたが、やがて違うものに視線を移した。残念ながら、記憶を呼び起こす糸口には至らなかったようだ。
ささやかな落胆を覚えながら、ジュリアスは気を取り直して、部屋を案内した。
しかし、強い関心を寄せるものの、光希は記憶を手繰り寄せるような反応は見せなかった。
ひとしきり案内し終えたあと、ふと思い立って、ジュリアスは腰に佩いたサーベルを鞘から抜いた。驚いている光希に、鉄 の刀身を見せる。
そこに彫られているのは、光希が自ら意匠した双竜の柄 と“光希”の二文字だ。
「“なんで、俺の名前……?”」
光希は茫然とした様子で呟いた。
「光希が私の為に、刀身に刻んでくれました。遠く離れていても、この剣を通じて、いつでも貴方は私の傍にいてくれます」
じっと耳を傾けながら、光希は刀身に指を滑らせた。何かを読み取ろうとするように、黒い鋼に彫られた名を撫でる。その様子を眺めながら、ジュリアスは黒髪に手を滑らせた。頼りげない眼差しを向けられ、愛しさが胸にこみあげた。
「たとえ記憶を失くしても、貴方が光希であることに変わりはありません。私の大切な花嫁 です」
「“えっと……”」
「ん?」
視線で先を促すと、光希は顔を伏せた。恥じらう姿に胸を暖かくさせながら、ジュリアスは耳にかかる金髪を掻きあげ、銀細工の飾りを見せた。
「これは、先日光希からいただいたものです」
「“へぇ、ピアス? よく似合ってる”」
光希は自分の装飾品はあまり造らないが、ジュリアスには日頃から贈り物をよくしてくれる。
「他にもありますよ。お茶を飲みながら、眺めましょう」
私室に戻ると、ナフィーサが心得たように、今度は違う茶葉で紅茶を煎れた。桜桃の砂糖漬を見て、光希は表情を綻ばせている。
「美味しい?」
「おいしい」
頬を膨らませて、光希はジュリアスの言葉を真似た。幸せそうに咀嚼する姿がかわいらしい。
「良かった。光希の好きな菓子の一つでしたよ」
照れ臭そうに視線を逸らす光希を見て、ジュリアスは頬杖をついて、彼に魅入っていたことに気がついた。
「……少し失礼」
席を立つと寝室に入り、大切にしている宝石箱を手に戻った。
なかには、光希からもらった指輪や耳飾り、帯や鞘の装飾といった様々な貴金属が収められている。
光希は興味深そうに眺めると、そろりと手を伸ばしつつ、ジュリアスを窺った。
「“触っても平気ですか?”」
「どうぞ。全部、光希が作ってくださったんですよ」
揃いの二つの指輪を手に取り、光希の掌に乗せる。光希は、じっと銀色の円環を眺めた。
それは、光希がクロガネ隊に勤務するようになり、しばらくした頃に贈られた最初の指輪だ。自分の装飾品は滅多に造らない光希が、珍しく自分とジュリアスの分を揃えて作った。恋人の証なのだと、はにかみながら指に通してくれて……
「“これは……イニシャル? にしては長いな……”」
不思議そうな声に我に返り、ジュリアスは光希の手元を覗きこんだ。指輪の裏に刻まれた文字に気づいたようだ。
「結婚の記念にと、名前と時を刻んだ指輪です。とても嬉しかったですよ」
お互いに日頃は指輪を外しているが、外出する際はよく身に着けている。
「“ペアリングみたい……あれ? ちょうどいい?”」
首を傾げ、光希は少し小さい指輪の方を自分の薬指にはめた。すんなり収まる指輪を見て、不思議そうにしている。思わずジュリアスが微笑すると、問いかけるような視線を向けられた。
「それは光希の指輪だから……これは私」
もう一つの指輪をジュリアスは薬指にはめた。ぴたりと収まる指輪を見て、光希は目を丸くした。
「“えッ、なんで? え……?”」
「今から二年前、私たちはアッサラーム中の祝福を浴びて婚姻を結びました」
「“ちょっと待って……俺とジュリは、一体どういう関係なんだ?”」
束の間、彼の顔から、陰りが消えたように見えて、ジュリアスは内心で安堵した。
「……なかに入りましょう」
そういって光希の肩を引き寄せると、彼は素直にしたがった。記憶を失くしていても、アッサラームを描いた絵画的な草木染めの絨緞はお気に入りらしく、進んで腰をおろした。なんともなしに、指を滑らせて手触りを愉しんでいる。
「気持ちいい? 二人でエルドラード市場へ繰りだした際、購入したものですよ」
光希は楽しそうに笑みを浮かべ、
「“ふかふかだ”」
「フカフカ?」
ジュリアスが言葉を真似ると、光希は嬉しそうに何度も頷いた。絨毯を撫でながら、紅茶を煎れる様子を興味津々といった風に眺めている。
紅茶は、一般家庭では火で沸すことが多いが、公宮では正式に炭火で沸かしている。
給仕の様子に見入る光希を、ジュリアスがじっと見つめていると、唐突に目が遭った。黒曜の瞳が細められ、きらきらとした光がこぼれだす。
眩い笑顔に不意打ちで見惚れてしまい、ジュリアスは咄嗟に言葉がでてこなかった。
「“凄いなぁ、本格的だなぁ”」
心を奪われているジュリアスには気づかず、光希は興奮した様子でいった。
「……工房を見せたら、貴方はもっと喜ぶのでしょうか」
「“何ですか?”」
にこにこしている光希を見て、ジュリアスはほほえんだ。
紅茶を飲んで寛いだあと、ジュリアスは光希を連れて工房へ入った。
作業机の上にかけられた布をめくると、鋼の腕輪が置かれていた。オアシスへ発つ前まで、光希が取り組んでいたものだ。
「これを覚えていますか?」
「“何ですか?”」
光希は不思議そうに首を傾げ、自ら打った意匠に目を凝らした。手にとり、しばらく
ささやかな落胆を覚えながら、ジュリアスは気を取り直して、部屋を案内した。
しかし、強い関心を寄せるものの、光希は記憶を手繰り寄せるような反応は見せなかった。
ひとしきり案内し終えたあと、ふと思い立って、ジュリアスは腰に佩いたサーベルを鞘から抜いた。驚いている光希に、
そこに彫られているのは、光希が自ら意匠した双竜の
「“なんで、俺の名前……?”」
光希は茫然とした様子で呟いた。
「光希が私の為に、刀身に刻んでくれました。遠く離れていても、この剣を通じて、いつでも貴方は私の傍にいてくれます」
じっと耳を傾けながら、光希は刀身に指を滑らせた。何かを読み取ろうとするように、黒い鋼に彫られた名を撫でる。その様子を眺めながら、ジュリアスは黒髪に手を滑らせた。頼りげない眼差しを向けられ、愛しさが胸にこみあげた。
「たとえ記憶を失くしても、貴方が光希であることに変わりはありません。私の大切な
「“えっと……”」
「ん?」
視線で先を促すと、光希は顔を伏せた。恥じらう姿に胸を暖かくさせながら、ジュリアスは耳にかかる金髪を掻きあげ、銀細工の飾りを見せた。
「これは、先日光希からいただいたものです」
「“へぇ、ピアス? よく似合ってる”」
光希は自分の装飾品はあまり造らないが、ジュリアスには日頃から贈り物をよくしてくれる。
「他にもありますよ。お茶を飲みながら、眺めましょう」
私室に戻ると、ナフィーサが心得たように、今度は違う茶葉で紅茶を煎れた。桜桃の砂糖漬を見て、光希は表情を綻ばせている。
「美味しい?」
「おいしい」
頬を膨らませて、光希はジュリアスの言葉を真似た。幸せそうに咀嚼する姿がかわいらしい。
「良かった。光希の好きな菓子の一つでしたよ」
照れ臭そうに視線を逸らす光希を見て、ジュリアスは頬杖をついて、彼に魅入っていたことに気がついた。
「……少し失礼」
席を立つと寝室に入り、大切にしている宝石箱を手に戻った。
なかには、光希からもらった指輪や耳飾り、帯や鞘の装飾といった様々な貴金属が収められている。
光希は興味深そうに眺めると、そろりと手を伸ばしつつ、ジュリアスを窺った。
「“触っても平気ですか?”」
「どうぞ。全部、光希が作ってくださったんですよ」
揃いの二つの指輪を手に取り、光希の掌に乗せる。光希は、じっと銀色の円環を眺めた。
それは、光希がクロガネ隊に勤務するようになり、しばらくした頃に贈られた最初の指輪だ。自分の装飾品は滅多に造らない光希が、珍しく自分とジュリアスの分を揃えて作った。恋人の証なのだと、はにかみながら指に通してくれて……
「“これは……イニシャル? にしては長いな……”」
不思議そうな声に我に返り、ジュリアスは光希の手元を覗きこんだ。指輪の裏に刻まれた文字に気づいたようだ。
「結婚の記念にと、名前と時を刻んだ指輪です。とても嬉しかったですよ」
お互いに日頃は指輪を外しているが、外出する際はよく身に着けている。
「“ペアリングみたい……あれ? ちょうどいい?”」
首を傾げ、光希は少し小さい指輪の方を自分の薬指にはめた。すんなり収まる指輪を見て、不思議そうにしている。思わずジュリアスが微笑すると、問いかけるような視線を向けられた。
「それは光希の指輪だから……これは私」
もう一つの指輪をジュリアスは薬指にはめた。ぴたりと収まる指輪を見て、光希は目を丸くした。
「“えッ、なんで? え……?”」
「今から二年前、私たちはアッサラーム中の祝福を浴びて婚姻を結びました」
「“ちょっと待って……俺とジュリは、一体どういう関係なんだ?”」