アッサラーム夜想曲

織りなす記憶の紡ぎ歌 - 6 -

 茫漠ぼうばくの碧空のした、光希は記憶が戻らぬまま、ジュリアスと共にアッサラームへ帰還しようとしていた。
 オアシスを発つ際、勇壮な飛竜を見て倒れそうになったが、しばらく飛ぶうちに、どうにか耐性を身につけた。今は、ジュリアスの腕のなかに納まっている。
「アッサラームが、見えてきましたよ」
 ジュリアスの言葉に、光希は彼方へ目を凝らした。
「アッサラーム?」
 復唱すると、そうだというように、腹に回された腕に軽く力がこめられた。
 砂の向こうに揺れる陰影は、近づくにつれ鮮明になり、やがて輝く街並みを視認できるまでになった。
 光の悪戯で、玉ねぎ型の尖塔が天まで伸びて見える。空を映す水鏡に、金色の尖塔が映りこむ様は、呼吸を忘れるほど美しい。
 しかし光希は、感動を覚えると同時に、疑問を抱いた。
(あれ……この景色、見たことがある……?)
 初めて見る景色のはずなのに、不思議と昔から知っているような気がするのだ。
「光希?」
 我に返り、ジュリアスを仰ぐと、透度の高い青い瞳が細められた。頬がかっと熱くなり、思わず視線を逸らしてしまう。
 恥じらう自分に疑問を覚えるが、いちいち甘い仕草をするジュリアスがいけない。
 彼は、目を瞠るほど格好いいのだ。鍛えられた長身体躯、男として理想的な身体でありながら、非常に洗練された容姿をしている。淡い褐色の肌、豊かな金髪にオアシスのような碧眼。まるで異国の皇子様だ。
 甘くほほえまれると、同姓と知っていても胸が高鳴ってしまう。それでいて、傍にいると不思議と安心感に包まれるのだ。ずっと、寄り添っていたいような……
 数日前から始まった摩訶不思議に、正気を失わずにいられるのは、この親切で優しい美貌の青年が、常に傍にいてくれるおかげだ。
 言葉の通じない、寄る辺ない世界で、赤子も同然の光希を何かと気遣い、世話を焼いてくれる。関係は不明だが、彼の方は光希をよく知っているらしく、親密すぎるくらいに光希に接する。
 今も猫の子にするように、優しい手つきで光希の黒髪を梳いている。
 彼が何を考えているのか不明だが、こんな風に触れられて、少しも嫌とは思わない光希の方がもっと意味不明である。嫌どころか、むしろ……
「さぁ、到着しますよ。覆面をつけて」
 下げていた覆面を摘まれて、光希は意識を呼び戻された。
「ん、“つける?”」
 意図を察して、覆面をあげると、よくできました、というように髪を撫でられた。大きな手は、男性的なのに綺麗で、耳や頬を滑り落ちる指に、つい見入ってしまう。
 心拍数を撥ねさせながら、光希はどうにか平静を保った。
 果たして、彼との関係はどのようなものなのだろう?
 ここはどこなのか、どうして自分はここにいるのか……判らないことだらけだが、何よりもそれが最大の疑問だ。
 光希には、高校二年生までの記憶しかない。
 目を醒ましたあの日、鏡に映る自分の姿を見て、知らぬ間に、二・三年の月日が流れていると予測していた。
 空白の時間を、この未知の世界で、恐らくはジュリアスと共に過ごしてきたのだろう。彼の仕草には、月日に裏づけられた親密さを感じる。
 夜空を仰いで郷愁に誘われる度に、傍で慰めてくれた。不安で堪らずに、涙の滲んだ目の端に、口づけられたこともある。
「ッ」
 思いだしたら顔が火照り、光希は小さく息をのんだ。
「光希?」
「“なんでもない!”」
 彼のことを何も知らないのに、怖いほど、急速に惹かれていく。
 記憶喪失も悩みの種だが、それ以上に、膨れていく想いを落ち着けることの方に苦労している光希だった。
 間もなく、緑の庭園に舞い降りると、駆け寄ってきた軍関係者に飛竜を任せ、ジュリアスは黒い一角獣を光希の前に連れてきた。
「トゥーリオですよ。覚えていますか?」
 美しい生き物は懐っこく、光希を見て嬉しそうに首を伸ばした。艶やかな鬣を大人しく撫でさせてくれる。
「……トゥーリオ?」
 天鵞絨びろうどのような手触りに夢中になっていると、くすくす、と小さな微笑が聴こえた。
 顔をあげると、蕩けるようなほほえみを向けられて、音速で視線を逸らした。まるで、恥じらう乙女の反応である。
 視線を戻さねば――自分にいい聞かせていると、ジュリアスは身を屈めて、頭のてっぺんに優しいキスを落とした。
「わぁっ!」
 光希は慌ててジュリアスから離れた。彼は悪戯が成功したような顔で、楽しそうに笑っている。そんな目で見られると、どうしていいか判らなくなる。
 彼は、しどろもどろになっている光希を、しばらく愛おしそうに見つめたあと、トゥーリオの背に乗るのを手助けした。自分もその後ろに跨り、慣れた仕草で手綱をさばく。
 ジュリアスの腕が自分を囲うように伸ばされたので、光希は再び緊張を強いられた。
 二人は、しばらく黙ったまま、花盛りのジャスミンを眺めながら道を進んだ。
 そよ風に梢が揺れて、煉瓦の道に木漏れ陽が躍る。
 やがて針葉樹の合間から、陽を浴びて煌めく瀟洒な邸が姿を現し、光希は思わず息を呑んだ。
「“すげぇ……”」
 物語に登場する、宮殿のような佇まいだ。
 一面を紫の絨緞、クロッカスに覆われており、そよ風が吹く度に、爽やかに香る。
 唖然茫然。視線が釘づけになっている光希の顔を覗きこみ、ジュリアスは満足そうにほほえんだ。
(ジュリって、本当に皇子様だったりして……)
 薄々気づいてはいたが、彼はかなり身分が高いらしい。使用人たちが、主を出迎えるように、左右に列をなして頭をさげているのだ。
 人々の崇敬と注目を浴びるジュリアスの隣で、光希は、不審な目で見られやしないか不安を覚えたが、無用な心配だった。誰も彼もが、笑顔で親切に接してくれるのだ。
「ロザイン、“って俺のことか?”」
 光希に対して、そのように声をかけるのは一人二人ではなかった。好意的な笑みを向けられているので、愛称か何かなのかもしれない。こんなにも多くの人に、どうして光希は周知されているのだろう?
 顔中に疑問符を浮かべる光希の背を、大丈夫だよ、というようにジュリアスは柔らかく押した。大きな扉が衛兵の手で恭しく開かれ、宮殿のなかへと足を踏み入れた。
「わ……」
 外観にも圧倒されたが、内装も素晴らしかった。
 壁面を飾る青い幾何学模様のタイル。あちこちに穿たれた窓からは、自然光が降り注ぎ、照明がいらないほど明るい。
 正面に優美な螺旋階段があり、ジュリアスは光希を二階へと案内した。
 奥の部屋へ入ると、どこからか風が流れて、爽やかな異国の香りが漂った。
 光希は、薄く開いた窓硝子に目をやった。テラスへでてみると、陽光を弾いて煌めく大河を一望できた。
「アール河ですよ」
 隣で、ジュリアスがいった。
「アール……」
 光希は、聞き取れないほど小さな声で呟いた。優しいジャスミンの香る異国の風に吹かれていると、奇妙な既視感に襲われた。
(まただ……)
 この場所から、こうして景色を眺めるのは、これが初めてではないような気がする。
 大河を眺めながら思索に耽っていると、ふと顔に影が射した。
「ジュリ?」
 不意打ちで背中から抱きしめられ、光希は強張った。たちまち顔が熱くなる。肩を縮めていると、頬に口づけられた。
「っ!?」
 心臓が破裂しそうなほど鳴っている。
 緊張に耐えかねて目を瞑ると、唇の端に柔らかなものが触れた。少しでも口を動かせば、触れあってしまいそうだ。
「恐がらないで……」
 耳朶にそっと囁かれて、増々体温はあがった。心臓が破れそうだ。緊張を解そうとするように、ジュリアスは光希に優しく触れた。髪をくすぐったくなるほど、丁寧な手つきで梳いて、耳の輪郭をなぞる。
 親密過ぎる空気に、ついていけない。
 首筋を指が滑り、危うくでかけた声を呑みこんだ。綺麗だけれど、骨ばった男らしい手が、喉を撫でて顎をくすぐる。
「あ、の」
 どうすればいいか判らず、そっと上目で窺うと、信じられないほど甘い眼差しに見下ろされていた。綺麗な顔がゆっくり降りてくる……
「ん……っ」
 唇が触れあい、慌てて顔を背けると、すぐに顔は離れたが、ジュリアスは光希を離そうとはしなかった。至近距離で、髪を撫でたり、耳や頬を気ままに撫でる。
 彼の触れ方は、まるで恋人のそれだ。
 一体自分は、普段彼とどんな風に過ごしていたのだろう? まさか、これが当たり前だったのだろうか?
 混乱の極致に陥っていると、ナフィーサが茶器を運んできた。
 空気が変わることにほっとして、光希はいそいそと部屋のなかに入った。毛足の長い絨毯に腰をおろすと、隣に座ったジュリアスは、光希の腰を抱き寄せた。
 人が見ているのに、と焦る光希と違い、ジュリアスは堂々としている。ナフィーサも特に驚いたりもせず、にこやかに給仕をしている。
 恥ずかしいと思いながらも、彼等の傍にいることで、光希は不思議な安らぎを覚えていた。
 この和やかな空気は、なんというか……とてもしっくりくるのだ。
 恐らく、過ごしてきた時間の長さに因るものなのだろう。記憶を失くす前にも、こうして、彼等と紅茶を飲んでいたのかもしれない。