アッサラーム夜想曲
織りなす記憶の紡ぎ歌 - 5 -
「光希……」
星明かりを浴びて佇む光希。空を仰ぐ想い人の背に、そっとジュリアスは声をかけた。血の気の失せた顔がこちらを向く。迷子のような顔をしていた。
「大丈夫、何も怖いことなんてありませんよ。なかへ入りましょう?」
手を差し伸べると、光希はふらふらと戻ってきた。
「“……信じられない”」
「シィ。こちらへいらっしゃい」
光希は手を引かれるまま天幕に入り、力なく絨緞に腰をおろした。ジュリアスも隣に座り、丸まった背中を宥めるように摩った。
光希は、茫然自失したように項垂れていたが、しばらくすると、隣にいるジュリアスを思いだしたように顔をあげた。
目が合うと、照れたように視線を逸らし、また戻すを繰り返す。ほほえみかけると、目に見えて狼狽えた。
こんな状況であっても、光希に意識されていると思うと、喜びが芽生えた。幸い、肩や背に触れても嫌がる様子はない。
「光希。こちらへ」
ジュリアスは光希の手を引いて、寝台に座らせた。頼りげない黒い瞳が、どうすればいいのかしら、そう囁いている。不安そうにしていると、彼は普段よりもずっと幼く見える。
出会った頃の、いとけない印象をまざまざと思いだしながら、ジュリアスは光希の足元に跪いた。そうでもしないと、何も知らない光希に、衝動的に口づけてしまいそうだった。
屈みこんで靴を脱がせようとすると、光希は戸惑ったように身じろいだ。
「えっ!? “待って”」
「動かないで」
手際よく脱がせ、跪いたまま、ジュリアスは安心させるようにほほえんだ。
「疲れたでしょう? もう休みましょう」
努めて優しく囁いたが、光希は返事をしなかった。戸惑ったように、ジュリアスを黒い目でじっと見つめている。出会った頃のように、視界から少しでも多くの情報を得ようとしているのだろう。
「……大丈夫ですよ。怖いことは何もありません。私が傍にいます」
黒髪を指で梳くと、光希は途端に身体を強張らせた。
「“何?”」
「いえ……疲れたでしょう? もう休みましょう」
反対側から、ジュリアスも寝台にあがると、光希は目を見開いた。
「今夜はもう、眠ってしまいなさい。お休みなさい、光希」
背を向けて横になると、照明を落とした。すると光希は、窺うように声をかけてきた。
「え……“本当に寝るの?”」
緊張の後にやってきたような、いかにも拍子抜けした声が、かわいらしかった。
光希はしばらく上体を起こしたまま、もじもじしていたが、やがて横に寝転がった。
「“お休みなさい”」
小声で呟く。なんとなく、言葉の意味は想像がついた。控えめな夜の挨拶に胸を暖かくさせながら、ジュリアスは密かにほほえんだ。
夜の静寂 のなか、隣で眠っている男の背を、光希はぼんやりと見つめていた。
胸の真んなかに、大きな穴が開いてしまったように感じる。大切な何かが抜け落ちてしまったような……どうしてこんな所にいるのか、何も思いだせない。
一体、自分の身に何が起きているのだろう?
彼は、誰なのだろう? どうして親切にしてくれるのだろう?
何一つ判らないのに、不思議と彼の傍にいると心が安らぐ。
どうして? どうして……尽きることのない疑問は、間もなく曖昧模糊にぼやけた。揺るやかな眠りに誘われながら、優しく髪を梳かれる気配を感じていた。
光希が眠ったあと、音を立てぬよう、ジュリアスはゆっくり身体を起こした。慎重に手を伸ばして、寝台に散った黒髪に触れる。
「……」
こみあげる想いを押え切れず、そっと顔を寄せた。閉じた瞼に、唇で触れる。
彼が目を醒ましたら、ジュリアスを見て、何もかも思いだしてくれたら……そう願わずにはいられなかった。
しかし、彼の切望が現実になることはなく、結局、光希の記憶は戻らぬまま、予定よりも七日遅れてジュリアスたちはオアシスを発った。
星明かりを浴びて佇む光希。空を仰ぐ想い人の背に、そっとジュリアスは声をかけた。血の気の失せた顔がこちらを向く。迷子のような顔をしていた。
「大丈夫、何も怖いことなんてありませんよ。なかへ入りましょう?」
手を差し伸べると、光希はふらふらと戻ってきた。
「“……信じられない”」
「シィ。こちらへいらっしゃい」
光希は手を引かれるまま天幕に入り、力なく絨緞に腰をおろした。ジュリアスも隣に座り、丸まった背中を宥めるように摩った。
光希は、茫然自失したように項垂れていたが、しばらくすると、隣にいるジュリアスを思いだしたように顔をあげた。
目が合うと、照れたように視線を逸らし、また戻すを繰り返す。ほほえみかけると、目に見えて狼狽えた。
こんな状況であっても、光希に意識されていると思うと、喜びが芽生えた。幸い、肩や背に触れても嫌がる様子はない。
「光希。こちらへ」
ジュリアスは光希の手を引いて、寝台に座らせた。頼りげない黒い瞳が、どうすればいいのかしら、そう囁いている。不安そうにしていると、彼は普段よりもずっと幼く見える。
出会った頃の、いとけない印象をまざまざと思いだしながら、ジュリアスは光希の足元に跪いた。そうでもしないと、何も知らない光希に、衝動的に口づけてしまいそうだった。
屈みこんで靴を脱がせようとすると、光希は戸惑ったように身じろいだ。
「えっ!? “待って”」
「動かないで」
手際よく脱がせ、跪いたまま、ジュリアスは安心させるようにほほえんだ。
「疲れたでしょう? もう休みましょう」
努めて優しく囁いたが、光希は返事をしなかった。戸惑ったように、ジュリアスを黒い目でじっと見つめている。出会った頃のように、視界から少しでも多くの情報を得ようとしているのだろう。
「……大丈夫ですよ。怖いことは何もありません。私が傍にいます」
黒髪を指で梳くと、光希は途端に身体を強張らせた。
「“何?”」
「いえ……疲れたでしょう? もう休みましょう」
反対側から、ジュリアスも寝台にあがると、光希は目を見開いた。
「今夜はもう、眠ってしまいなさい。お休みなさい、光希」
背を向けて横になると、照明を落とした。すると光希は、窺うように声をかけてきた。
「え……“本当に寝るの?”」
緊張の後にやってきたような、いかにも拍子抜けした声が、かわいらしかった。
光希はしばらく上体を起こしたまま、もじもじしていたが、やがて横に寝転がった。
「“お休みなさい”」
小声で呟く。なんとなく、言葉の意味は想像がついた。控えめな夜の挨拶に胸を暖かくさせながら、ジュリアスは密かにほほえんだ。
夜の
胸の真んなかに、大きな穴が開いてしまったように感じる。大切な何かが抜け落ちてしまったような……どうしてこんな所にいるのか、何も思いだせない。
一体、自分の身に何が起きているのだろう?
彼は、誰なのだろう? どうして親切にしてくれるのだろう?
何一つ判らないのに、不思議と彼の傍にいると心が安らぐ。
どうして? どうして……尽きることのない疑問は、間もなく曖昧模糊にぼやけた。揺るやかな眠りに誘われながら、優しく髪を梳かれる気配を感じていた。
光希が眠ったあと、音を立てぬよう、ジュリアスはゆっくり身体を起こした。慎重に手を伸ばして、寝台に散った黒髪に触れる。
「……」
こみあげる想いを押え切れず、そっと顔を寄せた。閉じた瞼に、唇で触れる。
彼が目を醒ましたら、ジュリアスを見て、何もかも思いだしてくれたら……そう願わずにはいられなかった。
しかし、彼の切望が現実になることはなく、結局、光希の記憶は戻らぬまま、予定よりも七日遅れてジュリアスたちはオアシスを発った。