アッサラーム夜想曲
織りなす記憶の紡ぎ歌 - 3 -
――期号アム・ダムール四五四年七月二五日。
夜も明けきらぬ、黎明の空。
砂に囲まれたオアシスの天空には、無数の星屑が瞬いている。
美しい満点の星空を仰いで、光希は両腕を広げた。肺一杯に懐かしい空気を吸いこむ。そうして深呼吸を繰り返していると、背中から抱きしめられた。
「久しぶりだね。ここへくるのは」
腹部に回された腕にそっと手を置いて、光希は静かにいった。
「光希……」
声に滲んだ幽かな不安を嗅ぎ取り、光希はジュリアスの腕を軽く叩いた。
「大丈夫だよ」
あまり口にしないが、ジュリアスは光希がオアシスへくることを、長い間恐れていた。
ここは、始まりの場所だから。
星を越えて、光希が初めて砂を踏んだ場所。あの泉の底から、異次元の扉を開いてやってきたのだ。同じ場所から、天空へ還ってしまうかもしれない――そんな不安に駆られてしまうのだろう。
「そろそろ、着替えてくるね」
そういって光希は、抱擁を解いた。到着したばかりだが、夜には祈祷が始まる。その準備をしなければならない。
天幕にさがる光希の背を、ジュリアスは複雑な気持ちで見送っていた。
朝の静けさのなか、儀式を執り行えるよう、急ぎ祭壇は整えられた。
身支度を終えた光希が祭壇の前に現れると、要人たちは手を休めて一礼した。
光希は、いつもの銀糸の聖衣ではなく、金銀の円盤が一面に縫いつけてある伝統的な衣装を着ている。雨乞いをする神官装束である。
「僕は、祭壇の前にいて良いのでしょうか?」
首を傾げる光希に、サリヴァンは首肯で応じた。
「はい。殿下は私の後ろで、この泉が満たされることをお祈りください」
「祝詞をあげなくても平気ですか?」
「その役は、ナフィーサが勤めます。想いは祈祷の根源。殿下は、心で呼びかけてくだされ。声なき祈りを、天は拾いあげてくださいます」
「判りました」
光希はサリヴァンの後ろで着座した。師の傍で、ナフィーサは真剣な顔つきで学んでいる。
ここへくる前に、光希が提案したのだ。オアシスでは光希の身の回りの世話よりも、師の傍で学んで欲しいと。
それは儀式に疎い光希の補佐の為でもあるが、ナフィーサの後学にも良いだろうという目論みもあった。光希の傍仕えとして心を尽くしてくれている彼が、ゆくゆくは星詠神官 の道を歩みたいと考えていることは知っていた。前途ある少年の時間を、光希の傍にいることで全て取りあげてしまうのは忍びない、以前からそう思っていた。
砂の上に、焔が揺れる。
絹織のかけられた祭壇の上、無数の蝋燭に火が灯された。
神官たちは祭壇を輪になって囲み、神聖な音を奏でて、祈りの場を清める。厳粛な気が満ちて、清涼な風が吹き始めた。
両手を胸の高さに持ちあげて、サリヴァンが聖句を唱えると、輪になって座す神官たちが復唱する。水晶が共鳴するように、波紋が広がってゆく。
彼等は、砂に敷いた絨緞の上に胡坐をかいたままの姿勢で、拝礼をした。
光希も礼節通りに、絨緞の上で三度、身体を平伏する。滔々 と流れる祈祷に耳を澄ませながら、心の中でシャイターンに呼びかけた。
(オアシスが満ちますように……)
一心に祈りを捧げていると、やがて、瞼の奥に神秘的な光が揺らめいた。
蒼い燐光に包まれた朧な輪郭――シャイターンが見える。彼 の神が自らの姿を見せるのは、これが初めてのことかもしれない。
流れる豪奢な金髪。涼しげな蒼い瞳。褐色の肌をもつ、威風堂々たる美丈夫だ。
顕現した戦神は、つと手を伸ばし、光希を指した。
“怨嗟を絶つ為に、試練が課せられる。それは永久ではない、想いがあれば乗り越えられる……”
彼の声は、頭のなかに直接響いて聞こえるようだった。
どのような試練かは判らないが、期待されていると知り、光希は緊張した面持ちで頷いた。
刹那――音を立てて蒼い空は落ちた。
視界は暗闇に覆われ、身体は虚空に突き落とされる。無尽の静寂に包まれた。
胸に大穴を開けられたような、凄まじい衝撃がして胸元を見れば、金色の砂粒がさらさらと零れ落ちているではないか。
「うわっ……」
溢れでる砂を手で堰き止めようとするが、指の合間から、砂の粒子は流れて落ちていく。
(何これっ!?)
痛みはないが、途方もない焦燥感と喪失感に襲われる。大切な何かを、失ってしまう気がする。
最後の一粒がこぼれ落ちる瞬間、ジュリアスの顔が脳裏を過 った。
視界が戻ると、駆け寄る本人の姿が見えた。いつでも冷静な彼が、心配そうな顔をしている。
「光希!」
大丈夫。そういいたいのに、瞼が重い――力強い腕を感じた瞬間、意識は途切れた。
頽 れる光希の身体を、ジュリアスは両腕でえ抱きとめた。
辺りが騒然となった時、天を覆う雨雲から、ぽつ、と雫が垂れた。唖然と空を仰ぐ面々に、雫は次々と降り注ぐ。
恵みの慈雨は三日降り続け、その間、光希は一度も目を醒まさなかった。
夜も明けきらぬ、黎明の空。
砂に囲まれたオアシスの天空には、無数の星屑が瞬いている。
美しい満点の星空を仰いで、光希は両腕を広げた。肺一杯に懐かしい空気を吸いこむ。そうして深呼吸を繰り返していると、背中から抱きしめられた。
「久しぶりだね。ここへくるのは」
腹部に回された腕にそっと手を置いて、光希は静かにいった。
「光希……」
声に滲んだ幽かな不安を嗅ぎ取り、光希はジュリアスの腕を軽く叩いた。
「大丈夫だよ」
あまり口にしないが、ジュリアスは光希がオアシスへくることを、長い間恐れていた。
ここは、始まりの場所だから。
星を越えて、光希が初めて砂を踏んだ場所。あの泉の底から、異次元の扉を開いてやってきたのだ。同じ場所から、天空へ還ってしまうかもしれない――そんな不安に駆られてしまうのだろう。
「そろそろ、着替えてくるね」
そういって光希は、抱擁を解いた。到着したばかりだが、夜には祈祷が始まる。その準備をしなければならない。
天幕にさがる光希の背を、ジュリアスは複雑な気持ちで見送っていた。
朝の静けさのなか、儀式を執り行えるよう、急ぎ祭壇は整えられた。
身支度を終えた光希が祭壇の前に現れると、要人たちは手を休めて一礼した。
光希は、いつもの銀糸の聖衣ではなく、金銀の円盤が一面に縫いつけてある伝統的な衣装を着ている。雨乞いをする神官装束である。
「僕は、祭壇の前にいて良いのでしょうか?」
首を傾げる光希に、サリヴァンは首肯で応じた。
「はい。殿下は私の後ろで、この泉が満たされることをお祈りください」
「祝詞をあげなくても平気ですか?」
「その役は、ナフィーサが勤めます。想いは祈祷の根源。殿下は、心で呼びかけてくだされ。声なき祈りを、天は拾いあげてくださいます」
「判りました」
光希はサリヴァンの後ろで着座した。師の傍で、ナフィーサは真剣な顔つきで学んでいる。
ここへくる前に、光希が提案したのだ。オアシスでは光希の身の回りの世話よりも、師の傍で学んで欲しいと。
それは儀式に疎い光希の補佐の為でもあるが、ナフィーサの後学にも良いだろうという目論みもあった。光希の傍仕えとして心を尽くしてくれている彼が、ゆくゆくは
砂の上に、焔が揺れる。
絹織のかけられた祭壇の上、無数の蝋燭に火が灯された。
神官たちは祭壇を輪になって囲み、神聖な音を奏でて、祈りの場を清める。厳粛な気が満ちて、清涼な風が吹き始めた。
両手を胸の高さに持ちあげて、サリヴァンが聖句を唱えると、輪になって座す神官たちが復唱する。水晶が共鳴するように、波紋が広がってゆく。
彼等は、砂に敷いた絨緞の上に胡坐をかいたままの姿勢で、拝礼をした。
光希も礼節通りに、絨緞の上で三度、身体を平伏する。
(オアシスが満ちますように……)
一心に祈りを捧げていると、やがて、瞼の奥に神秘的な光が揺らめいた。
蒼い燐光に包まれた朧な輪郭――シャイターンが見える。
流れる豪奢な金髪。涼しげな蒼い瞳。褐色の肌をもつ、威風堂々たる美丈夫だ。
顕現した戦神は、つと手を伸ばし、光希を指した。
“怨嗟を絶つ為に、試練が課せられる。それは永久ではない、想いがあれば乗り越えられる……”
彼の声は、頭のなかに直接響いて聞こえるようだった。
どのような試練かは判らないが、期待されていると知り、光希は緊張した面持ちで頷いた。
刹那――音を立てて蒼い空は落ちた。
視界は暗闇に覆われ、身体は虚空に突き落とされる。無尽の静寂に包まれた。
胸に大穴を開けられたような、凄まじい衝撃がして胸元を見れば、金色の砂粒がさらさらと零れ落ちているではないか。
「うわっ……」
溢れでる砂を手で堰き止めようとするが、指の合間から、砂の粒子は流れて落ちていく。
(何これっ!?)
痛みはないが、途方もない焦燥感と喪失感に襲われる。大切な何かを、失ってしまう気がする。
最後の一粒がこぼれ落ちる瞬間、ジュリアスの顔が脳裏を
視界が戻ると、駆け寄る本人の姿が見えた。いつでも冷静な彼が、心配そうな顔をしている。
「光希!」
大丈夫。そういいたいのに、瞼が重い――力強い腕を感じた瞬間、意識は途切れた。
辺りが騒然となった時、天を覆う雨雲から、ぽつ、と雫が垂れた。唖然と空を仰ぐ面々に、雫は次々と降り注ぐ。
恵みの慈雨は三日降り続け、その間、光希は一度も目を醒まさなかった。