アッサラーム夜想曲

織りなす記憶の紡ぎ歌 - 11 -

 深夜。
 目の醒めた光希は、隣にジュリアスがいないことに気がついた。
 最近は、いつもそうだ。光希と同じ寝台で眠ることを、避けているように思う。
 もの哀しく感じながら、いつもであれば眠りにつくのだが、その日はどうにも心細くて起きあがった。
「はぁ……」
 自分でも、驚くほど沈んだため息が零れた。
 あの夜から、ジュリアスは光希に対して一線を引くようになった。あんな風に触れたのに、今になって二人の距離を軌道修正するかのように、触れなくなったのだ。
 丁寧で柔らかな物腰は変わらないが、光希の常識にあわせるように、紳士的な触れ方しかしなくなった。差し伸べる手はどこまでも優しいのに……何かが物足りない。
 一体、何が?
 最初はあんなに戸惑っていたのに、触れられなくなると、離れていく指先を未練がましく視線で追いかけてしまう。
 もう、いい逃れはできない。
 夜毎、身体の奥に焔が揺らめいている。
 記憶も定かではないのに、光希はジュリアスを欲していた。
 こんな思いをするなら、あの夜、彼を拒まなければ良かった……一夜限りでもいいから、抱いてもらえば良かった。
 日が経つほどに、あの夜を後悔している。あの夜が二人の分岐点だったように思える。
(もう、どうすればいいのか判らない……)
 夜空を見あげれば郷愁を誘われるが、それ以上にジュリアスに背を向けられることが辛い。
 彼が、離れていってしまう――そう思うと、途方もなく胸を締めつけられた。どんな不安よりも、ジュリアスに見放されることが怖い。
 目頭がふいに熱くなり、堪える間もなく、涙が溢れた。ぱたぱたと次から次へと零れて、手を濡らす。酷い精神状態で、自分でも制御できない。彼を想うだけで、泣いてしまうなんて。
 あぁ……いつの間に、こんなにも惹かれていたのだろう?
 彼を失うかもしれないと思っただけで、身体が竦んでしまう。
 こうまで追い詰める理不尽な運命が、理解を越えた世界が憎い。一体自分が何をした?
 欲しい説明は、何一つ得られない。この世界に、光希の居場所なんてない。ジュリアスの示す居場所に、甘えているだけだ。
「ジュリ……」
 そっと呼んだ名は、虚空に吸いこまれた。唇を噛みしめると、涙を拭って光希は顔をあげた。
 寝台の傍に置かれた照明に手を伸ばして、火を灯す。ジュリアスの姿を探して、静かに部屋をでた。
 寝静まった屋敷を歩いたことがないので、少々不安だったが、応接間の扉下から、光が漏れていることに気づいて胸を撫でおろした。扉の前で足を止めると、
「誰です?」
 なかからジュリアスが誰何すいかを発した。
「“あ、あの”」
 しどろもどろで返事をすると、こちらへ近づいてくる靴音が聴こえた。扉を開いたジュリアスは、立ち尽くす光希を見おろして、目を瞠った。
「光希?」
「“こんばんは……すみません、目が醒めてしまって”」
 普段とは違う、襟を寛げたジュリアスのしどけない様子に、光希は思わず視線を逸らした。
「こんな時間にどうかしました?」
 問いかけるような口調に視線を戻すと、光希は曖昧に頷いた。ジュリアスからかすかに酒精の香りがする。部屋の奥を覗きこむと、書斎机に酒杯が置かれていた。一人で飲んでいたようだ。
「“……いいな”」
 羨ましそうに呟くと、ジュリアスは扉を大きく開いて、光希を中へ招き入れた。紳士らしく、椅子にかけていた上着を拡げて、光希の肩にかけようとする。
「“平気です”」
 光希は遠慮しようとしたが、ジュリアスは着ていなさい、というように肩にかけた。
「こんな薄着で……一体どうしたのですか?」
 何かに気づいたように、ジュリアスは光希のまなじりにそっと指で触れた。少し赤い眼淵まぶちをなぞり、心配そうに眉を寄せる。
 慰めるように肩を撫でられ、光希は誤魔化すように笑みを浮かべた。机の傍へ寄り、酒瓶を見おろす。不作法を心配しながら、恐る恐る杯に手を伸ばすと、
「光希?」
 ジュリアスは見咎めはしなかったが、心配そうな顔をしている。
「“やっぱり、お酒?”」
 一口含むなり、光希は顔をしかめた。喉が燃えるようだ。随分と強い蒸留酒だが、割りもせずに飲んでいたのだろうか?
「そんなに傾けては、貴方はあまり強くないのですから……」
 杯を取りあげられそうになり、光希は咄嗟に手を引いた。
「“俺も飲みたい”」
 そういって杯に口をつけると、ジュリアスは困ったように笑った。書棚にしまわれた硝子箱を空けて、小ぶりの杯を取りだすと、中に酒を注いで光希に差しだした。
「こちらをどうぞ」
「“いいの?”ありがとう……」
 杯を受け取ると、光希は絨緞に腰をおろした。
「少し飲んだら、休みましょう」
 彼が心配していることは判っていたが、光希は想いを持て余し、強い酒を次から次へと煽った。
「光希? そんなに飲んでは……」
 見かねたジュリアスが杯を取りあげようとすると、光希は拗ねた顔をした。取りあげられてたまるものかと、杯を持った手を遠ざける。
「“いいんだ。俺、きっと成人しているから”」
「そんなに顔を赤くして。ほら、水を飲んで」
「“飲みたいんだ”」
 水を勧める手を巧みに躱して、酒を煽る。仕方なさそうに笑うジュリアスを見て、光希は悪戯めいた笑みを零した。するとジュリアスは、ほっとしたように肩から力を抜いた。
「記憶を失くしても、貴方は変わりませんね。こうして傍にいるだけで、本当に、どうしようもなく惹かれてしまう……」
 途中で言葉を切ると、ジュリアスはどこか困ったように視線を揺らした。
「この間は、すみませんでした。私が狼狽えてはいけないのに、冷静を欠いてしまって……」
「だいじょうぶ」
 彼が落ちこんでいるような気がして、思わず光希はそう口走った。発音はたどたどしいが、ジュリアスは驚いたように小さく目を瞠っている。
「ジュリ、だいじょうぶ。だいじょうぶ……」
 繰り返すと、ジュリアスは間もなく相合を緩めた。青い瞳を細めて、光希を見つめる。
「はい、大丈夫です……」
 黒水晶のような双眸に映りながら、ジュリアスは救われた心地で囁いた。
 巡り逢えたことが奇跡なのだ――傍に光希がいて、何を恐れることがあるのだろう。
 記憶を失くしていても、光希は光希だ。今夜も、沈んでいるジュリアスを心配して、夜分に姿を探してくれた。愛する本質は何も変わらない……そう思うと、昏い霧のような諦念は晴れていった。
 優しく慰められてジュリアスの気分は上向いたが、今度は光希の方が沈んだ声をだした。
「“迷惑をかけて、すみません……”」
 注意深く様子を見守りながら、ジュリアスは光希の肩を抱き寄せた。柔らかな身体が素直にもたれてきて、思わず胸が高鳴る。
「“ジュリは、特別なんだ……それだけは判る。迷惑かけてばかりだけど、見放さないで……”」
 潤んだ声を噛み殺すと、光希はジュリアスの胸に顔を押し当てた。
 いたいけな姿に庇護本能が膨れあがり、ジュリアスは強く抱きしめたい衝動に駆られた。固く拳を作り、理性を総動員させてじっとしていると、光希の方から抱き着いてきた。