アッサラーム夜想曲

クロガネの応援歌 - 5 -

 歓迎会、当日。
 木造の居酒屋は、典型的なアッサラームの民家を改装したもので、とても雰囲気が良かった。
 室内は青銅製の明かりで照らされ、居心地の良さそうな民芸風の調度で調えられている。部屋の隅で、足の悪い老人が弦をかき鳴らし、溌剌とした看板娘が手際よく注文を受けている。
 わくわくしながら光希も卓につくと、間もなく人数分の麦酒が配られた。
「さぁ、飲もう!」
 サイードが声をかけると、全員が杯を掲げた。気安い空気に、誰もが笑顔を浮かべている。
 高級料理の並ぶ宮殿では、なかなかお目にかかれない素朴な家庭料理に、光希は新鮮な気持ちで舌鼓を打った。冷えた麦酒が料理によくあう。
 卓の反対側でヤシュムとユニヴァースは、早くも飲み比べを始めていた。
 部屋の隅では、音楽に覚えのある若い兵士が老人に混じって弦を鳴らし、仲間と一緒になって陽気に歌っている。
 賑やかな空気のなか、薄い琥珀色の酒を傾けながら、光希は目を和ませた。
「殿下ぁー、飲んでますかぁー」
 対面の席にスヴェンが座った。早くも酔っぱらっているらしく、赤ら顔で呂律も妖しい。
 周囲は面白がっているようだが、光希は心配になり、水を飲ませたりと世話を焼き始めた。
「殿下はお優しいなぁ」
 いつの間にか傍にやってきたユニヴァ―スが、茶々を入れてきた。
「だって、まだ子供なんだから」
 光希が返すと、ヤシュムや他の兵士も酔っぱらったスヴェンを見た。
「なに、大して飲んじゃいませんよ」
「泥酔して正体不明になるなんざ、軍に入った以上は通過儀礼だ。そのうち強くなりますよ」
 軍の猛者もさ達は鷹揚おうように笑うが、光希にしてみれば、十三歳はまだ子供である。アッサラームで暮して大分経つが、成人したての子供に酔っぱらうまで飲酒を許容する感覚には、馴染めそうにない。軍隊ならではの空気かもしれないが……
「こらこら、もう飲むんじゃない」
 手前に水を置いてやったのに、スヴェンは身を乗りだして酒に手を伸ばしてくる。光希が世話を焼くせいか、なんだかんだいいつつ、他の兵士がスヴェンの面倒を見始めた。
「これは泥酔かなぁ」
 苦笑いを浮かべているのは、ケイトだ。水差しを卓に置いて、スヴェンに飲ませようとしている。酒に伸ばすスヴェンの手をケイトが掴むと、スヴェンは据わった目でケイトを見た。
「先輩……」
「何?」
「先輩――ッ」
「わぁ、何っ」
 でろでろに酔っぱらっていたスヴェンは、急に機敏な動きでケイトに抱き着いた。唖然とする光希の肩を、さりげなくローゼンアージュは引いている。
「あちゃー、もう泥酔だったか。アージュ、助けてあげて」
 はい、と端的に応えた青年は、乱暴にスヴェンに手を伸ばすと、ぽいっ、と放った。スヴェンは撃沈して、口から泡を吹いている。
「なんか瀕死なんだけど!?」
 光希が慌てて駆け寄ると、離れた席にいたノーアが飛んできた。店の者に手桶と水を用意してもらい、甲斐甲斐しく汗の浮いた額を拭き始めた。
「ノーアかよ。触るな、馬鹿! ケイト先輩ー……」
「煩い、馬鹿はお前だ! だらしないなぁ、もう! 殿下の前で、恥ずかしくないの。しっかりしろよ」
 舌打ちをして不平を零すノーアを見て、光希とケイトは笑った。普段と立場が逆転していて面白い。
 少し前まで一方的にやりこめられていたノーアが、年相応の瑞々しい表情でスヴェンに噛みつくようになったのは、実にいい傾向だ。
 文句をいいあっていても、傍から見れば、子供がじゃれているようにしか見えない。パシャも他の兵士に構われて、否応なしに溶けこんでいるようだ。
 愉しげな様子を肴に、光希はいい気持ちで杯を傾けた。壁に穿たれた窓から夜風が流れて、火照った肌を冷やしてくれる。
 楽しい夜は更けていく。
 店内はまだ賑わっているが、迎えの知らせを聞いて、光希は一足先に暇を告げた。
 少々ふらつきながら店をでると、双龍の紋章が入った黒塗りの馬車が停まっていた。
 御者台に座っているのは、ルスタムだ。もしやと期待して見ていると、扉を開いて、ジュリアスがおりてきた。
「きてくれたんだ」
 満面の笑みを浮かべる光希を見て、どことなく、ジュリアスはほっとしたような表情を浮かべた。
「楽しかった?」
「うん! 酔っぱらったなぁ……」
 嬉しそうにジュリアスの傍へ寄る光希の後ろで、兵士たちは、赤ら顔を引き締めて、敬礼をしていた。
「楽にしてください。もういきますから」
「総大将も一緒にどうだ?」
 剛胆なヤシュムが気軽に誘うと、年若い兵士たちは、直立のまま、ぎょっとしたように目を剥いた。
「そりゃいい! 飲み比べしましょうよ!」
 緊張を孕んだ空気には気づかず、ユニヴァースが悪のりをする。光希が窘めようとするよりも早く、
「勝者には、殿下がとっておきのご褒美をくれますよ!」
 高らかに宣言した。
「えっ、僕?」
 光希はもちろん、兵士たちからも驚きの声があがった。ローゼンアージュに至っては襲いかかる一歩手前だ。ジュリアスは涼しげにユニヴァースを一瞥すると、光希の肩を抱いて背を向けた。
「あっ! 逃げないでくださいよ、総大将ッ!」
「その手には乗りませんよ。あまり騒がしくして、店に迷惑をかけないように」
「えぇッ」
 不平を垂れるユニヴァースの頭を、周囲の兵士は一斉に叩いた。
「ありがとう。でも、私がいては、皆の気が休まらないでしょう。遠慮せず、今夜は楽しく過ごしてください」
 柔らかな表情でジュリアスがいうと、兵士たちは舞いあがった。軍の頂点に立つ英雄から、気さくに声をかけられれる幸運など、そうそうあることではない。
 酒と興奮で頬を紅潮させた兵士たちは、馬車が通りを過ぎていくまで敬礼で見送った。
 馬車の緩やかな揺れに眠気を誘われる……ジュリアスにもたれかかりながら、光希はうとうと微睡みかけた。
「楽しかった?」
 優しく髪を撫でられ、光希は幸せそうにほほえんだ。
「とてもね。今日はありがとう。いって良かった……」
 気持ち良さそうに寝入る光希を見て、ジュリアスも穏やかな充足感に浸された。
 実を言えば、今日は何をするにしても、同僚と出掛ける光希のことばかり考えていた。 
 万が一にも害が及ばぬよう、密かな護衛策を講じながら、他の者達とどのように過ごすのか、気になって仕方がなかったのだ。
 彼を束縛するつもりはない。
 とはいえ、朝帰りは流石に認められず、朝課の鐘が鳴るまでに戻らなければ、迎えにいくつもりでいた。事前に了承は得ていたが、不興を買わないか少々心配もしていた。
 だから、扉を開いて目があった瞬間、表情を綻ばせた光希を見て安堵したのだ。
 なかなか自由をあげられないが、今日の笑顔を見てしまっては、こうした機会をもっと増やしてやりたいと思うジュリアスであった。