アッサラーム夜想曲

幕間 - 2 -

恋心と嫉妬(前編)

 凱旋から数日。
 名だたる驍将ぎょうしょうが、アルサーガ宮殿の大神殿に召集された。
 アッサラーム防衛戦の論功行賞――アッサラーム・ヘキサ・シャイターンの名誉元帥である、アデイルバッハ・ダガー・イスハーク皇帝自ら、戦績を挙げた兵士を労い、褒美を与える場である。
 ジュリアスと共に最前線の大将として戦ったアーヒムとヤシュムには、それぞれ純金の勲章と、報奨金、宝物五点、肥沃な土地を与えられた。
 次に、五千から万もの軍勢を率いて、見事に中央拠点を征したジャファール、ナディアは大将に昇進、アルスランは少将に昇進し、純金の勲章の他、報奨金、宝物三点が与えられた。
 そしてジュリアスは、アーヒムとヤシュム同等の褒章を賜った後、正式に神剣闘士アンカラクスに任命され、その場で叙任式が執り行われた。
 星詠神官メジュラ時空神官ルティエのそれぞれで最高位神官シャトーウェルケを兼任する、サリヴァンが、式に使うブルーダイヤモンドをあしらったティアラと、真鍮しんちゅうの指輪を手に持って現れた。

「ジュリアス・ムーン・シャイターン、前へ」

 祭壇の前に進み出て膝を折ると、静かな声が頭上に降る。

「アッサラームの思し召しにより、ジュリアス・ムーン・シャイターンを神剣闘士に任命いたします。奢ることなく、礼節を守り、神力を存分に活かしてください」

 サリヴァンの手で頭にティアラを載せられた。立ち上がると、今度は左手の人差し指に指輪をはめられる。

「ティアラを飾るブルーダイヤモンドは守護神シャイターンの象徴。指輪にはめ込まれた水晶ロッククリスタルは、曇りなき一途な心の象徴です。これを神剣闘士の証としてお渡しいたします」

 手袋の上からでも、難なくはめられる儀式用の指輪である。フープには神剣闘士、そしてジュリアスの名が刻まれている。

「感謝いたします」

 サリヴァンは笑みを含んだ視線で、ジュリアスを見つめた。
 彼も“宝石持ち”の一人だ。花嫁ロザインを渇望する気持ちは、誰よりも知っていることだろう。
 しかし、湖水を思わせる瞳は鏡のように凪いでおり、羨望や嫉妬の色は欠片も映っていない。師が弟子を想うような、優しさと祝福に溢れている。
 どれほどの葛藤の果てに、たどり着いた境地なのか……この人の言葉には、耳を傾けなくてはいけない。自然と背筋が伸び、心が澄み渡った。

「花嫁をお守りし、ひいては聖都アッサラームをお守りください」

「命に代えても」

 背後を振り返ると、列席している軍関係者はもちろん、皇族や貴人達まで、全員深く頭を下げていた。
 今この時から、ジュリアスは皇帝陛下に次ぐ権威である神剣闘士――賢者と呼ばれる権力者であると正式に認められた。
 度重なる刺客の襲撃から判る通り、内心では憤懣ふんまんたぎらせている者もいるであろう。
 その者達はこうなることを、なんとしても防ぎたかったに違いない。
 ふと、祭壇傍の内陣に立つコーキと眼が合った。周囲を気にかけながら、口元を優しげに綻ばせる。その優しいほほえみを見た瞬間に、心に沈んだおりは溶けた。
 コーキは、薄汚い宮廷事情なんて知らなくていい。
 あの屋敷で、心安かに過ごしてくれたら……それさえ叶うのなら、何が起きようとも耐えてみせる。そう思った。

 +

 公宮において、天上人でありシャイターンの花嫁であるコーキは第一位の身分である。
 誰にも脅かされることはない。安全そのもの……そう思っていたのに、コーキはジュリアスの公宮を見て衝撃を受けたらしく、塞ぎ込んでしまった。
 宮女がどれだけいようと、ジュリアスにとっては、意識に留まらぬ背景と同じ。コーキが気に留めるとは考えてもいなかった。
 憂いを解こうとしたはずなのに、結婚を待って欲しいと請われ……冷静ではいられなくなった。

「待って、いかないでっ! 助けて! 俺もいく!」

「いい加減にしろ! 私を……怒らせるな!」

 口論の末に、苛立ちを抑えきれず、何よりも大切な花嫁を力で捻じ伏せようとした。床を砕いて、何処へも行かせまいと――
 最悪だ。
 今度こそシャイターンの元へ帰ってしまうのでは? そんな恐怖に襲われた。万の軍勢を散らせても、コーキの一挙一動が怖かった。
 彼は思い留まってくれたが、一人客室へ下がってしまった。小さな後姿はジュリアスを完全に拒絶していた。
 コーキのいない寝台で一人眠る気にもなれず、手酌で酒を煽るうちに、黎明れいめいの空は白み始めた。
 眠ることを諦めて着替えると、屋敷を出る前にコーキの顔を見にいった。
 あどけない寝相に、笑みが浮かんだ。
 コーキは少し寝相が悪い。今朝もクッションは二つ下に落ちていて、痛くないのかと思うほど首を逸らしている。
 起こさぬよう姿勢や掛布を直すと、枕元に肘をついて、コーキの寝顔を覗きこんだ。かわいい。子犬みたいに小さく鼻を鳴らしている。

「すみません……怖い思いをさせて、悲しませて……私を嫌いにならないで……愛している。私の花嫁」

 とても自分の言葉とは思えない、弱々しい言葉が口をついた。けれど本心だ。この人に嫌われたら、まともではいられないだろう。

 早朝の大神殿。
 朝課に勤しむサリヴァンを呼び出し、公宮解散の申請を半ば強制的に押しつけた。時間のかかる公式手順を踏んでいる余裕など無かった。
 鬱々としながらも軍議をこなし、陽が暮れて屋敷に戻ると、直ぐに書斎にルスタムを呼んだ。

「過去の姫君達との関係を、とても気にされているようでした。肩を落としておいででしたが……本日も庭園に足を運ばれました。まるで恋敵を見るような眼差しでしたよ」

「恋敵!? そんな者、いるわけない――」

「無垢なお方ですから……四阿あずまやではブランシェット姫と仲睦まじいご様子で、庭園を出る際にシェリーティア姫から釘を刺されておりました」

「ブランシェット姫……確か、ピティーソワーズ家の一人娘でしたか? アースレイヤの姫が、なぜコーキと?」

 苛々する。八つ当たりと知っていても、つい詰問口調になってしまう。

「稀に見る可憐な姫君ですから、殿下が見惚れるのも無理はありません。西妃レイラン様とお出かけになるお約束をしておりました。別れ際には、姫君から手作りの栞をいただいておられました」

「宮女ごときが、私の花嫁を誘惑していると?」

「そう睨まないでください。公宮事情を何も知らされておらず、お気の毒でしたよ。天上人といえど、ここで暮らす以上、やはり公宮指南が必要なのではありませんか?」

「――コーキはもう、帰っているんですよね?」

 席を立つと、いけませんよ、と窘めるように声をかけられた。

「なぜ? 本人の口から聞きたい」

「そんな怖いお顔で、殿下を追い詰めてはいけませんよ」

「追い詰めたりしません。心外なだけです。私の気持ちを疑われているなんて。不満や不安があるのなら、直接私にいえばいい!」

「同じ出来事でも見る者によって捉え方は変わるものです。シャイターンにとっては空気同然の些事でも、花嫁にとっては違うかもしれません。それを上から説き伏せようとされても、理解はえられないでしょう」

「面倒なことです。公宮など、さっさと潰しておけば良かった」

「短気はよくありませんよ」

 思慮深い声を無視して、ジュリアスは部屋を出た。
 ルスタムと話している時は苛立ちが強かったが、客間の前でコーキを待っているうちに頭は冷えた。昨日の二の舞はご免だ。
 やがて、濡れた髪を拭きながらコーキが戻ってきた。ジュリアスに気付いて、表情を強張らせる。
 慎重に、努めて穏やかに声をかけると、昨日の亀裂をいくらか修復できた。ぎこちない態度ではあったが、祝賀会に同行することにも了承してもらえた。