アッサラーム夜想曲
青い星 - 2 -
言葉を失くしていると、花嫁 に両肩を掴まれた。
黒水晶のような瞳に、茫然としたアルスランの姿が映っている。
「ノーヴァ壊滅の知らせは、偵察隊から聞いています。アルスラン、貴方の荷の中にあった、貴重なノーヴァ情報を記した手紙は、ルーンナイト皇子にお渡ししました。ルーンナイト皇子は昨日、五万のアッサラーム兵と、元ノーヴァ部隊と共にスクワド砂漠へ向かいました。ジャファールの託した指示の通り、これからノーヴァ海岸沿いに布陣してサルビア空軍を迎え撃つ算段です」
アルスランは眼を瞠った。味方はもう、向かってくれているのか……!
「ノーヴァの要塞については、何かご存知ですか?」
「三日前、ノーヴァの要塞から、壊滅と撤退を伝える狼煙 が上がったそうです。最後は、火柱が上がったと聞きました」
「攻め落とされたのか!?」
動揺しきった声が出た。花嫁は労わりの滲んだ口調で続ける。
「狼煙の後に火が上がったので、恐らく要塞に最後まで残った味方の仕業だろうと、話していました」
「……逃げ延びたノーヴァ部隊の数は、どれくらいですか?」
「およそ四百だそうです」
「四百……」
アルスランは愕然とした。
開戦時には五万もいた兵を、たったの四百まで減らされたと言うのか。サルビアはまだ空の主力部隊を二十万は残しているというのに!
痛みを忘れて立ち上がると、無言で病室の外へ出た。
「どこへ行くんですか!?」
「私もルーンナイト皇子と合流します」
「無茶です! その怪我で行こうだなんて!」
花嫁は必死に追い駆けてくるが、もはや口を利く気にもなれなかった。こんな所で、三日も費やしてしまった。一刻も早く向かわなければならない。
「待ってください、アルスランッ!」
左腕を取られて、思わず反射的に振り払った。
驚くほど、手応えがなかった。花嫁はいともあっさり吹き飛ばされ、固い石壁に身体をぶつけて頽 れる。一瞬、骨が折れたのでは……と背筋が冷えた。
苦しそうに呻く花嫁を、傍にいた武装親衛隊の少年兵が心配そうに助け起こしている。
「花嫁、申し訳ありません。お怪我は――」
顔を覗き込もうとしたら、凄まじい殺気を感じて思わず飛びのいた。
人形めいた顔立ちの少年兵は、外見を裏切る禍々しい殺気でアルスランを牽制してきた。これ以上近寄れば、斬り掛かってきそうな勢いだ。
「アージュ」
宥めるように名を呼ばれると、殺気は細波 のように引いた。
そういえば、ローゼンアージュという名前だった。軍では割と有名だ。何で上等兵に留まっているのか疑問の剣技を持ち、ムーン・シャイターンに重用され、花嫁の武装親衛隊に大抜擢された、よく判らない経歴の少年である。
「申し訳ありませんでした。お怪我はありませんか?」
「大丈夫です。僕こそ、弱くてすみません……」
なぜか、花嫁は肩を落として項垂れた。
「あ、いや……こちらこそ。つい力加減を忘れてしまいました」
「アルスラン、ここに留まってください」
請うような眼差しに映りながら、かける言葉が見つからない。
「ルーンナイト皇子が出兵した今、この要塞で一番の階位は貴方だ。いや、本当は僕なんですけど。皆が奔走してくれてどうにか機能しているけど、判断に困ることも多くて……ここに残って、皆と一緒に指揮を手伝ってもらえませんか?」
「花嫁……」
「お願いします、アルスラン。貴方の力が必要なんです」
お助けしてさしあげたい。
しかし……ノーヴァに散った仲間を思うと、今すぐにでもあの空に戻りたい。とはいえ、戻ったところで、この身体ではもう……。
「……私の飛竜は、ここにいますか?」
花嫁の強張った表情を見て、誤解を与えたことに気付いた。
「無茶な飛ばし方をしたから、様子を見に行きたいだけです」
「それなら……判りました。案内します」
どうやら、花嫁も一緒に来るつもりらしい。
花嫁の隣に並ぼうとしたら、少年兵と眼が合った。何を考えているのか、表情からは全く読み取れない……と思っていたら、すっと身体を引いて、数歩後ろへ下がる。アルスランに場所を譲ってくれることにしたらしい。
「花嫁の護衛は無表情だが、いい腕をしている」
「いつも僕を助けてくれるんです」
我がことのように嬉しそうに笑う。良好な主従関係にあるのだろう。好ましいことだ。
外に出ると、日はすっかり暮れていた。
夜空に浮かぶ、美しい青い星が視界に飛びこんでくる。これまでの戦いで、あの星にどれだけの同胞が還っていったことだろう……。
竜舎に入ると、ブランカは首を伸ばしてアルスランを歓迎してくれた。元気そうな姿に、胸に安堵が広がる。
「ブランカ、疲れさせて悪かった。お前のおかげだ……助かったよ、ありがとう」
大きな顔を撫でながら、このままブランカの背に乗ってしまいたい誘惑に駆られた。
「ブランカっていうんですね。綺麗な飛竜……」
「そうでしょう。花嫁……シャイターンのお告げはありましたか?」
「え?」
「次こそ、サルビアに勝てるのだと、花嫁の口からお聞きしたい」
「――うん。絶対に勝つよ。アルスランやジャファールが、命がけで届けてくれた情報は、僕を含めて、ここにいる皆と……スクワド砂漠に向かった全員が共有しています。一つも無駄にしないから」
花嫁は思慮深い眼差しにアルスランを映し、落ち着いた口調で聞かせた。
「ノーヴァから戻ってきた兵達は皆、アルスランがここにいると聞いて、すごく喜んでいましたよ。砂漠へ向かった彼等の為に、アルスランの分も、僕からたくさんお祈りしておいたから」
祈りと聞いて、自然と空に浮かぶ青い星を見上げた。
叶うことなら、仲間と一緒に戦いたい。今すぐ砂漠に駆けつけたい。負傷していなければ、右腕さえあれば。だが、何よりも願うことは――
「花嫁。シャイターンに伝えて欲しい。ジャファールだけは、あの青い星に連れて行かないでくれ。連れて行くなら、私にして欲しい」
花嫁に優しく背中を叩かれた。
「……ジャファールが無事に帰って来るようにって、祈ります」
「後から来ると、約束してくれたんです……」
「うん」
穏やかな即答を受けて、ふと荒れていた身の内で何かが弾けた。ジャファールは約束を違えたりしない。今までも、これからも――
「必ず帰って来る。ここで、ジャファールの帰りを待ちます」
「うん。僕も……待っているんです。毎日祈ってる。皆が……ジャファールが、帰ってくるようにって、いつも祈ってるよ」
情のこもった言葉が嬉しくて、力加減に気をつけながら花嫁の背中を叩いた。
「ここで私に出来ることをいたしましょう。ノーヴァの全てをこの眼で見てきました。伝令をお貸しください、手紙にはない情報がまだあります」
「はいっ!」
花嫁の満面の笑みに、アルスランもつられたように笑顔を浮かべた。
歩む震動すら傷口に響くので、決して早くは歩けないが、ここへ来た時よりも足取りは軽かった。
黒水晶のような瞳に、茫然としたアルスランの姿が映っている。
「ノーヴァ壊滅の知らせは、偵察隊から聞いています。アルスラン、貴方の荷の中にあった、貴重なノーヴァ情報を記した手紙は、ルーンナイト皇子にお渡ししました。ルーンナイト皇子は昨日、五万のアッサラーム兵と、元ノーヴァ部隊と共にスクワド砂漠へ向かいました。ジャファールの託した指示の通り、これからノーヴァ海岸沿いに布陣してサルビア空軍を迎え撃つ算段です」
アルスランは眼を瞠った。味方はもう、向かってくれているのか……!
「ノーヴァの要塞については、何かご存知ですか?」
「三日前、ノーヴァの要塞から、壊滅と撤退を伝える
「攻め落とされたのか!?」
動揺しきった声が出た。花嫁は労わりの滲んだ口調で続ける。
「狼煙の後に火が上がったので、恐らく要塞に最後まで残った味方の仕業だろうと、話していました」
「……逃げ延びたノーヴァ部隊の数は、どれくらいですか?」
「およそ四百だそうです」
「四百……」
アルスランは愕然とした。
開戦時には五万もいた兵を、たったの四百まで減らされたと言うのか。サルビアはまだ空の主力部隊を二十万は残しているというのに!
痛みを忘れて立ち上がると、無言で病室の外へ出た。
「どこへ行くんですか!?」
「私もルーンナイト皇子と合流します」
「無茶です! その怪我で行こうだなんて!」
花嫁は必死に追い駆けてくるが、もはや口を利く気にもなれなかった。こんな所で、三日も費やしてしまった。一刻も早く向かわなければならない。
「待ってください、アルスランッ!」
左腕を取られて、思わず反射的に振り払った。
驚くほど、手応えがなかった。花嫁はいともあっさり吹き飛ばされ、固い石壁に身体をぶつけて
苦しそうに呻く花嫁を、傍にいた武装親衛隊の少年兵が心配そうに助け起こしている。
「花嫁、申し訳ありません。お怪我は――」
顔を覗き込もうとしたら、凄まじい殺気を感じて思わず飛びのいた。
人形めいた顔立ちの少年兵は、外見を裏切る禍々しい殺気でアルスランを牽制してきた。これ以上近寄れば、斬り掛かってきそうな勢いだ。
「アージュ」
宥めるように名を呼ばれると、殺気は
そういえば、ローゼンアージュという名前だった。軍では割と有名だ。何で上等兵に留まっているのか疑問の剣技を持ち、ムーン・シャイターンに重用され、花嫁の武装親衛隊に大抜擢された、よく判らない経歴の少年である。
「申し訳ありませんでした。お怪我はありませんか?」
「大丈夫です。僕こそ、弱くてすみません……」
なぜか、花嫁は肩を落として項垂れた。
「あ、いや……こちらこそ。つい力加減を忘れてしまいました」
「アルスラン、ここに留まってください」
請うような眼差しに映りながら、かける言葉が見つからない。
「ルーンナイト皇子が出兵した今、この要塞で一番の階位は貴方だ。いや、本当は僕なんですけど。皆が奔走してくれてどうにか機能しているけど、判断に困ることも多くて……ここに残って、皆と一緒に指揮を手伝ってもらえませんか?」
「花嫁……」
「お願いします、アルスラン。貴方の力が必要なんです」
お助けしてさしあげたい。
しかし……ノーヴァに散った仲間を思うと、今すぐにでもあの空に戻りたい。とはいえ、戻ったところで、この身体ではもう……。
「……私の飛竜は、ここにいますか?」
花嫁の強張った表情を見て、誤解を与えたことに気付いた。
「無茶な飛ばし方をしたから、様子を見に行きたいだけです」
「それなら……判りました。案内します」
どうやら、花嫁も一緒に来るつもりらしい。
花嫁の隣に並ぼうとしたら、少年兵と眼が合った。何を考えているのか、表情からは全く読み取れない……と思っていたら、すっと身体を引いて、数歩後ろへ下がる。アルスランに場所を譲ってくれることにしたらしい。
「花嫁の護衛は無表情だが、いい腕をしている」
「いつも僕を助けてくれるんです」
我がことのように嬉しそうに笑う。良好な主従関係にあるのだろう。好ましいことだ。
外に出ると、日はすっかり暮れていた。
夜空に浮かぶ、美しい青い星が視界に飛びこんでくる。これまでの戦いで、あの星にどれだけの同胞が還っていったことだろう……。
竜舎に入ると、ブランカは首を伸ばしてアルスランを歓迎してくれた。元気そうな姿に、胸に安堵が広がる。
「ブランカ、疲れさせて悪かった。お前のおかげだ……助かったよ、ありがとう」
大きな顔を撫でながら、このままブランカの背に乗ってしまいたい誘惑に駆られた。
「ブランカっていうんですね。綺麗な飛竜……」
「そうでしょう。花嫁……シャイターンのお告げはありましたか?」
「え?」
「次こそ、サルビアに勝てるのだと、花嫁の口からお聞きしたい」
「――うん。絶対に勝つよ。アルスランやジャファールが、命がけで届けてくれた情報は、僕を含めて、ここにいる皆と……スクワド砂漠に向かった全員が共有しています。一つも無駄にしないから」
花嫁は思慮深い眼差しにアルスランを映し、落ち着いた口調で聞かせた。
「ノーヴァから戻ってきた兵達は皆、アルスランがここにいると聞いて、すごく喜んでいましたよ。砂漠へ向かった彼等の為に、アルスランの分も、僕からたくさんお祈りしておいたから」
祈りと聞いて、自然と空に浮かぶ青い星を見上げた。
叶うことなら、仲間と一緒に戦いたい。今すぐ砂漠に駆けつけたい。負傷していなければ、右腕さえあれば。だが、何よりも願うことは――
「花嫁。シャイターンに伝えて欲しい。ジャファールだけは、あの青い星に連れて行かないでくれ。連れて行くなら、私にして欲しい」
花嫁に優しく背中を叩かれた。
「……ジャファールが無事に帰って来るようにって、祈ります」
「後から来ると、約束してくれたんです……」
「うん」
穏やかな即答を受けて、ふと荒れていた身の内で何かが弾けた。ジャファールは約束を違えたりしない。今までも、これからも――
「必ず帰って来る。ここで、ジャファールの帰りを待ちます」
「うん。僕も……待っているんです。毎日祈ってる。皆が……ジャファールが、帰ってくるようにって、いつも祈ってるよ」
情のこもった言葉が嬉しくて、力加減に気をつけながら花嫁の背中を叩いた。
「ここで私に出来ることをいたしましょう。ノーヴァの全てをこの眼で見てきました。伝令をお貸しください、手紙にはない情報がまだあります」
「はいっ!」
花嫁の満面の笑みに、アルスランもつられたように笑顔を浮かべた。
歩む震動すら傷口に響くので、決して早くは歩けないが、ここへ来た時よりも足取りは軽かった。