アッサラーム夜想曲
青い星 - 1 -
アルスラン・リビヤーン――中央広域戦空路少将
中央広域戦――史上最大の東西戦争では、腹心の戦友であり、兄でもあるジャファール・リビヤーンと共にバルヘブ中央大陸の北に広がる、ノーヴァの広大な空を翔ける。
二十日以上に及ぶ空中戦の果てに、アッサラーム軍はサルビア軍の半数以上、実に二十万もの飛竜隊を撃墜した。しかし、この快進撃に恐れをなしたサルビア軍は、空の主力部隊を全てノーヴァに集結させて、アッサラーム軍を壊滅へと追い込んだ。
戦傷により右腕を失ったアルスランは、戦線離脱を余儀なくされ、断腸の思いでノーヴァの窮地を逃れた。ノーヴァで起きた一部始終を味方に伝えるべく、数名の護衛と共に通門拠点へと向かうのであった。
アルスランは瀕死の状態で、どうにか通門拠点へ辿り着いた。
サルビア兵の追撃からアルスランを守ろうとした護衛は、殆ど全員ノーヴァの海に散って行った。
振り返らずに、前を見続けるしかない――。
昼夜兼行で飛び続け、どうにか味方陣営に辿り着いたものの、右腕を欠いた長期飛行に身体はとうに限界を越えていた。通門拠点の飛翔場に降りるなり、頽 れるアルスランの身体を、周囲のアッサラーム兵は慌てて支えた
まともに意識が戻った時には、血の匂いに満ちた病室に寝かされていた。
そこらじゅうから、鈍い呻き声が聞こえてくる。
首を傾けた拍子に、額の上に乗せられていた湿った布がずれ落ちた。
――ここは……国門に着いたのか……。
起き上がろうとして、右腕がないことを思い出した。その途端に、じくじくとした痛みが蘇る。傷口は綺麗に包帯が巻かれていた。この腕では、もう前線には……。
いや、今はそんなことより――
広い病室には溢れかえるほどの兵士が寝かされていた。血に染まった重症の者が多い。彼等の合間を縫うようにして、知っている顔を探した。
最後までアルスランと一緒に、ここへ辿り着いた護衛が二人いたはずだ。一人は、アルスランよりも重傷を負っていた。
「――カミル!」
ようやく一人見つけて、枕元に膝をついた。
真っ青な顔で、今にも死にそうな呼気で喘いでいる。胸に巻かれた包帯は、どす黒く変色していた。どれだけの血を流したのだろう……もはや浄化石をもってしても止血が間に合わないのか。
「アルスラン! 動いたら駄目だ!」
彼の様子をじっと見つめていたら、袖を捲りあげた花嫁 がこちらへ駆けてきた。
何て姿だ。血まみれじゃないか――。
「花嫁……」
「やっと熱が下がったんです。血は止まっているけど、動かない方がいい」
アルスランの身を案じる言葉で、花嫁はここで負傷兵を診ているのだと察した。
「彼は私の護衛なんです。少し話がしたい」
「カミルは……運ばれてから、まだ一度も意識が戻らないんです」
「カミル、お前のおかげだ。国門まで無事に辿り着いたぞ」
呼びかけに応じるように、カミルは瞼を震わせて、ゆっくり瞳を開いた。
「あ! 気がついた……」
アルスランを視界に認めると、瞳に安堵の色を浮かべて弱々しく頷いた。もう、声を出すことは難しいらしい。
「そっか……ずっと、アルスランを心配していたんだ……アルスランは、もう大丈夫ですよ。ちゃんと手当を受けて、しっかり歩いている」
花嫁は手が汚れることも躊躇わず、カミルの手を握りしめる。青白い顔は、ほっとしたように和らいだ。
「お水、飲めますか?」
カミルはいらない、というように視線を逸らした。渇きなど、とうに失せた感覚なのだろう。恐らく、もう……。
「辛い? 薬を飲んで欲しいんけど……」
花嫁は残念そうに呟くと、手にしていた水差しを床に置いた。カミルは瞳に感謝の色を浮かべて、病床から花嫁を見上げている。
「ありがとう、と言いたいようだ……」
声の出せないカミルに代わって伝えると、花嫁は哀しそうに顔を歪めた。今にも泣きだしそうに見える。
カミルは淡く微笑んだ。
彼の胸から、青い光が立ち昇る……。
花嫁は小さく息を呑んだ。
周囲の同胞達も、悲しそうに彼を見つめている。
全てのアッサラームの同胞がそうであるように、彼もまた青い星へ――神々の世界 に召されるのだ。
花嫁は歯を食いしばって、あらゆる痛みを堪えていた。血と汗にまみれた髪を梳いてやり、穏やかな最期を迎えさせようとしている。
「お休み、カミル……」
優しい囁きに眠りを誘われるように、カミルはゆっくり瞳を閉じた。
苦しみから解き放たれるのだ……。
命の火を燃やして、青い燐光が空へと昇ってゆく。隊服とネームプレートだけを花嫁の腕の中に残して……。
しばらく、誰も動けなかった。
「ありがとうございます。彼の最期を、優しいものにしてくれて」
「僕じゃないよ……カミルが笑ってくれたのは、アルスランが会いに来てくれたからだ」
唇を噛みしめる花嫁を見ていると、聞くことは躊躇われたが、どうしても知りたかった。
「もう一人、ユハという護衛を……」
最後まで言い終わらぬうちに、花嫁は悲しそうに力なく首を左右に振った。カミルとユハのネームプレートを、左手にそっと握らせてくれる。
「そうか……」
「ユハは、一度も意識が戻らないうちに、昨日……アルスランは無事だよって、言ってあげれば良かった……」
「ありがとう」
「僕は、何も……」
沈んだ表情で瞼を半ば伏せる。隠れた黒い瞳を見下ろしながら、慎重に口を開いた。
「彼の最期を教えてくれて、ありがとう。貴方から聞けて良かった……。他に、ノーヴァ部隊は来ていませんか?」
「はい、何人か……今、治療を受けています」
「その中に、私より後にきた者は? ジャファールはいませんか?」
花嫁は顔をあげると、黒い瞳に気遣わしげな色を浮かべて、アルスランを見返した。
「ジャファールは、ここには来ていません……」
身体から力が抜け落ちた。彼は、ここに来ていない……。
中央広域戦――史上最大の東西戦争では、腹心の戦友であり、兄でもあるジャファール・リビヤーンと共にバルヘブ中央大陸の北に広がる、ノーヴァの広大な空を翔ける。
二十日以上に及ぶ空中戦の果てに、アッサラーム軍はサルビア軍の半数以上、実に二十万もの飛竜隊を撃墜した。しかし、この快進撃に恐れをなしたサルビア軍は、空の主力部隊を全てノーヴァに集結させて、アッサラーム軍を壊滅へと追い込んだ。
戦傷により右腕を失ったアルスランは、戦線離脱を余儀なくされ、断腸の思いでノーヴァの窮地を逃れた。ノーヴァで起きた一部始終を味方に伝えるべく、数名の護衛と共に通門拠点へと向かうのであった。
アルスランは瀕死の状態で、どうにか通門拠点へ辿り着いた。
サルビア兵の追撃からアルスランを守ろうとした護衛は、殆ど全員ノーヴァの海に散って行った。
振り返らずに、前を見続けるしかない――。
昼夜兼行で飛び続け、どうにか味方陣営に辿り着いたものの、右腕を欠いた長期飛行に身体はとうに限界を越えていた。通門拠点の飛翔場に降りるなり、
まともに意識が戻った時には、血の匂いに満ちた病室に寝かされていた。
そこらじゅうから、鈍い呻き声が聞こえてくる。
首を傾けた拍子に、額の上に乗せられていた湿った布がずれ落ちた。
――ここは……国門に着いたのか……。
起き上がろうとして、右腕がないことを思い出した。その途端に、じくじくとした痛みが蘇る。傷口は綺麗に包帯が巻かれていた。この腕では、もう前線には……。
いや、今はそんなことより――
広い病室には溢れかえるほどの兵士が寝かされていた。血に染まった重症の者が多い。彼等の合間を縫うようにして、知っている顔を探した。
最後までアルスランと一緒に、ここへ辿り着いた護衛が二人いたはずだ。一人は、アルスランよりも重傷を負っていた。
「――カミル!」
ようやく一人見つけて、枕元に膝をついた。
真っ青な顔で、今にも死にそうな呼気で喘いでいる。胸に巻かれた包帯は、どす黒く変色していた。どれだけの血を流したのだろう……もはや浄化石をもってしても止血が間に合わないのか。
「アルスラン! 動いたら駄目だ!」
彼の様子をじっと見つめていたら、袖を捲りあげた
何て姿だ。血まみれじゃないか――。
「花嫁……」
「やっと熱が下がったんです。血は止まっているけど、動かない方がいい」
アルスランの身を案じる言葉で、花嫁はここで負傷兵を診ているのだと察した。
「彼は私の護衛なんです。少し話がしたい」
「カミルは……運ばれてから、まだ一度も意識が戻らないんです」
「カミル、お前のおかげだ。国門まで無事に辿り着いたぞ」
呼びかけに応じるように、カミルは瞼を震わせて、ゆっくり瞳を開いた。
「あ! 気がついた……」
アルスランを視界に認めると、瞳に安堵の色を浮かべて弱々しく頷いた。もう、声を出すことは難しいらしい。
「そっか……ずっと、アルスランを心配していたんだ……アルスランは、もう大丈夫ですよ。ちゃんと手当を受けて、しっかり歩いている」
花嫁は手が汚れることも躊躇わず、カミルの手を握りしめる。青白い顔は、ほっとしたように和らいだ。
「お水、飲めますか?」
カミルはいらない、というように視線を逸らした。渇きなど、とうに失せた感覚なのだろう。恐らく、もう……。
「辛い? 薬を飲んで欲しいんけど……」
花嫁は残念そうに呟くと、手にしていた水差しを床に置いた。カミルは瞳に感謝の色を浮かべて、病床から花嫁を見上げている。
「ありがとう、と言いたいようだ……」
声の出せないカミルに代わって伝えると、花嫁は哀しそうに顔を歪めた。今にも泣きだしそうに見える。
カミルは淡く微笑んだ。
彼の胸から、青い光が立ち昇る……。
花嫁は小さく息を呑んだ。
周囲の同胞達も、悲しそうに彼を見つめている。
全てのアッサラームの同胞がそうであるように、彼もまた青い星へ――神々の
花嫁は歯を食いしばって、あらゆる痛みを堪えていた。血と汗にまみれた髪を梳いてやり、穏やかな最期を迎えさせようとしている。
「お休み、カミル……」
優しい囁きに眠りを誘われるように、カミルはゆっくり瞳を閉じた。
苦しみから解き放たれるのだ……。
命の火を燃やして、青い燐光が空へと昇ってゆく。隊服とネームプレートだけを花嫁の腕の中に残して……。
しばらく、誰も動けなかった。
「ありがとうございます。彼の最期を、優しいものにしてくれて」
「僕じゃないよ……カミルが笑ってくれたのは、アルスランが会いに来てくれたからだ」
唇を噛みしめる花嫁を見ていると、聞くことは躊躇われたが、どうしても知りたかった。
「もう一人、ユハという護衛を……」
最後まで言い終わらぬうちに、花嫁は悲しそうに力なく首を左右に振った。カミルとユハのネームプレートを、左手にそっと握らせてくれる。
「そうか……」
「ユハは、一度も意識が戻らないうちに、昨日……アルスランは無事だよって、言ってあげれば良かった……」
「ありがとう」
「僕は、何も……」
沈んだ表情で瞼を半ば伏せる。隠れた黒い瞳を見下ろしながら、慎重に口を開いた。
「彼の最期を教えてくれて、ありがとう。貴方から聞けて良かった……。他に、ノーヴァ部隊は来ていませんか?」
「はい、何人か……今、治療を受けています」
「その中に、私より後にきた者は? ジャファールはいませんか?」
花嫁は顔をあげると、黒い瞳に気遣わしげな色を浮かべて、アルスランを見返した。
「ジャファールは、ここには来ていません……」
身体から力が抜け落ちた。彼は、ここに来ていない……。