アッサラーム夜想曲

ノーヴァ空中広域戦 - 4 -

 空中戦で腕を失ったアルスランは、その夜から高熱を出して生死の淵を彷徨った。
 飛竜隊最速の乗り手であり、陣の要であり、何より兵達から絶対的な支持を集めていたアルスランの前線離脱は、風前の灯火であった要塞の息の根を完全に止めた。

「アルスランを逃がしたい。頼む」

 ジャファールは集めた将達の前で、頭を深く下げた。

「判っております。アルスラン将軍を、必ず通門拠点までお連れいたします」

「我々が囮になります。ジャファール将軍も、どうかお逃げください」

 すぐに答えてくれた彼等に、救われた想いで顔を上げた。ジャファールを見る眼差しには、ただただ心配の色が浮かんでいる。

「気持ちは嬉しいが、最後まで指示を出す人間は必要だろう……」

「心配には及びません。ここは我等にお任せください!」

「貴方を失うわけには行きません。それこそアッサラームの損失です。今こそスクワド砂漠まで撤退し、どうか援軍と共に立て直しを」

「我等が間違っておりました。損害を大きくする前に、撤退すべきだった――お許しください。この上、ジャファール将軍まで失っては、今度こそ同胞達に顔向けできませぬ」

「どうか、お逃げください……!」

 必死に言い募る将達の顔を一人一人見つめて、ジャファールは穏やかに微笑んだ。

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 鐘楼に上がり、空を埋め尽くさんばかりのサルビア軍を見ていると、騒々しい軍靴ぐんかの音が聞こえてきた。

「ジャファールッ!!」

「アルスラン、走るな。傷にさわる」

「出て行けとは、どういうことだっ!?」

「聞いた通りだよ。護衛と共に一刻も早く、拠点へ――」

 激昂したアルスランは左手だけでジャファールの襟を掴み、凄まじい形相で睨みつけてきた。

「ふざけるな! ここで最期まで戦う」

「その腕でか?」

「――っ!」

「……アルスラン、通門拠点に下がり、ノーヴァで見た全ての布陣、兵力を一刻も早く味方に伝えてくれ。必ず同胞達が応えてくれる」

 アルスランは苦痛に顔を歪めた。
 彼の苦しみを思うとジャファールの胸も激しく痛む。
 しかし、これで脱出の名目が立ったのだと思うと……彼が腕を失ったことは、アッサラームの思し召しなのかもしれないとすら思えた。
 ふと、彼の頬を濡らす涙に気付いて、自然と笑みが浮かんだ。

「泣くな……アルスラン。もう子供じゃないだろう?」

 遠い記憶が蘇る。幼い五歳の子供の姿と、立派に成長したアルスランの姿が重なって見える……。
 ジャファールを追いかけて入隊し、よくここまで立派に戦ってくれた。肩を並べて戦えたことを、心から誇りに思う。

「ジャファール、頼む、戦わせてくれ……! 飛竜に乗れなくても、指示は出せる!」

 子供のように涙を流す弟が、たまらなく愛しかった。

「お前はもう、十分戦った」

「終わっていない! まだ……っ!」

「アルスラン。お前の役目は、ノーヴァの一部始終を一刻も早く味方に伝えることだ。ムーン・シャイターンの決着は近い。布陣を整えて耐え忍べば必ず勝てる。皆にそう伝えてくれ」

「なら、ジャファールも……!」

「私は残る。死地にも、指示を出す将は必要だ」

 涙に濡れた顔は絶望に染まった。
「死ぬ気じゃないだろうな……」

「まさか、そう簡単にやられはしない。必ず後から追い駆ける。お前は先に行ってくれ」

 縋るような眼差しを向ける弟の頭を引き寄せて、額を突き合わせた。

「大丈夫だ、次は必ず勝つ」

「ああ……!」

「アルスラン、お前は自慢の弟だ。共に戦えたことを誇りに思う――」

  隻腕になっても、彼の誇りは少しも損なわれない。どうか、苦しんでくれるなと祈る。

「おいっ、今生の別れのようだぞ、縁起でもない」

 不服そうに顔をしかめるアルスランを見て、笑みが零れた。

「はは、悪い」

「死ぬなよ、絶対に。頼むから……!」

「判っている。人のことより、自分の心配をしろ。隻腕でも飛べるか?」

「問題ない」

 しっかりとした口調だが、相当な苦痛と戦っているのだろう。額に玉のような脂汗が浮かんでいる。だが、強がりを叩けるうちは信じて大丈夫だ。
 飛翔場へ降りると、アルスランの護衛達が飛竜の準備を整えて待っていた。

「よし、行け!」

 アルスランの背中を押して、騎乗を手伝ってやった。苦痛に顔を歪ませているが、呻き声一つあげなかった。大した根性だ。
 飛翔の衝撃を避けて離れる前に、彼を乗せる飛竜の顔を撫でた。

「――ブランカ、アルスランを頼むぞ」

 澄み切った金色の瞳が、自信を宿して煌めいている。何が何でも、背に乗せたアルスランを守るだろう。

「行け!」

「ジャファールッ! 後から来ると、約束してくれ!」

「約束する! 行け!」

 アルスランは辛そうに顔を歪めたが、見事に隻腕で飛翔した。
 西へ飛び立つ姿を見届けた後、ジャファール達もまたすぐに飛び立つ準備を始めた。アルスランの飛行が無事であるように――囮になるのだ。
 ふと、妻のエミリア、幼い息子の顔が脳裏に浮かんだ。
 この決断を責めるだろうか……。いや、そんなことはあるまい。
 こんな時だというのに、自然と笑みが浮かんだ。それよりも、アルスランの後に彼女を思い出したと知れば、そちらの方が叱られそうだ。
 飛竜の傍へ駆け寄ると、優美な飛竜が首を下げて、ジャファールに頬をすりよせてくる。最後まで仕えてくれる、強く頼もしい相棒の顔を叩いた。

「頼むぞ、シルビア――」

 金色の瞳には、ジャファールへの信頼と信愛が確かに浮かんでいた。どんな悪路でも恐れずに駆ける、ジャファールにはもったいないくらいの優れた飛竜だ。
 振り返ると、覚悟を決めた味方の目が一斉にジャファールに集中した。

「この先、私の指示を待つ必要はない。各自最善と思う路を選び、可能な限り拠点を目指せ。私はサルビア兵を引き寄せて断崖絶壁の狭路を行くが、従う必要はない。アルスランを唸らせた難関地形だ。命の保証はない」

「どこまでも――」

 そういうだろうとは思っていたが、つい苦笑が零れた。何故、最後に選ぶのは、我が身ではないのだろう。ジャファールを含めて――。

「後続部隊は、最後に砦に火を放ち、同じく拠点を目指せ」

 全員がジャファールを見て、しっかりと頷いた。最敬礼でひれ伏す。

「行くぞ!」

 手綱を引いて、ノーヴァの空へと飛翔する。
 ジャファールはサルビア軍の注目を十分に浴びてから、誘いこむように狭路へと飛竜を走らせた――。