アッサラーム夜想曲
中央山岳狭路の戦い - 1 -
アーヒム・ナバホラトゥーダ――中央広域戦陸路大将
中央広域戦――史上最大の東西戦争では、聖戦を共にしたムーン・シャイターン、ヤシュムと共に中央激戦区の前線に立つ。
アッサラーム軍は山岳戦闘民族八千の手練れに一度は大敗を喫したものの、敗走に見せかけた奇襲でこれに勝利し、中央大陸中腹まで進軍する。
後方支隊に十万、アーヒムら率いる前線に十万の兵力を残したまま、遂に難関地形とされる山岳狭路でサルビア十万の軍勢と初戦を迎えた――。
中央大陸において、最も行軍困難とされる断崖絶壁の狭路を抜けた先、ようやく視界の開けた平地でサルビア軍が「無敵」と誇る重装歩兵隊の待ち伏せにあった。
分厚い鉄の壁に押し負け一時退却を命じると、背後を襲うサルビア軍の攻撃に、足を踏み外して転落する者が相次いだ。
山岳での狭い一本道では、攻めるよりも守る側の方が有利だ。
しかも、向こうは最寄の高地を占領しており、狭路から攻め込まなければならないアッサラーム軍と比べて、各段に有利だった。
目と鼻の先にサルビアの旗を視界に収めながら、一太刀も攻め込めず、アッサラーム軍は狭路の奥へ後退せざるをえなかった。
「初戦はサルビアに軍配が上がったか……」
アーヒムは中央山岳の地図を睨みながら、忌々しい気持ちで呟いた。対面に座るヤシュムも「全く」と頷く。
「それにしても、よくもこんな所まで、あのように重い装備を持ってきたものだ」
全身鋼に鎧 われた、あの重装備で行軍してきたとは思えないから、東大陸からはるばる別途に運んで来たのだろう。荷運びの労を考えると、敵ながら少々感心してしまう。
対面に座るヤシュムも忌々しそうに唸った。
「うーむ。しかし、あそこを抜けない限りは、この先に進めんな」
「ムーン・シャイターンは?」
「直ぐに来られよう」
ヤシュムが答えると同時に、ムーン・シャイターンは天幕にやってきた。
我々を見るなり「今日はよくやった」と労いの言葉をかける。退却一手のどこを褒められたのか……閉口していると若き覇王は口端を上げて笑んだ。
「今日の一戦で気付けたことは多い。まともに衝突すれば巨岩の如しでも、あの重たい部隊には弱点がある。散開隊形になってしまえば機能しないし、狭い地積 の密集方陣では混み合い、互いに邪魔をしてしまう。こちら側の狭路に誘えれば勝利を得られます」
「それはそうですが……狭路となれば、向こうも先ず深追いはして来ないでしょう」
思わず反論すると、ヤシュムも「向こうは高地を陣取り、見晴らしも良い」と頷いた。
「明日も再び正面から挑みます。いかにもこの路を攻めるのだと、向こうに印象づける陽動です。今日を果敢に凌いだからこそ、相手の眼には自然に映るでしょう。敢えて奥へは攻め込まず、じりじりと苦戦していると思わせるのです。向こうが勇み足で狭路に入れば、すかさず叩きますし、そうでなければ日暮れと共に撤退して、翌日に後方から回らせた部隊で挟撃 しましょう」
「左右は絶壁。飛竜も降りれますまい。挟撃とは、どの部隊を動かすのです?」
アーヒムが問えば、彼は一つ頷いてヤシュムを見やる。
「ヤシュム、身軽な精鋭を三百動かせますか? 明日は敵の目が本陣に向いている間に絶壁に移動し、そのまま待機してください。翌昼、合図を待ってサルビアを後方から叩いてください」
指名を受けたヤシュムは、狼狽えたように腕を組んだ。
「しかし軽装備では、あの重装備にかすり傷一つ負わせられないぞ。投石機でもないと無理でしょう」
「敵の体力を出来る限り削ります。明日は果敢に攻めると見せかけ、三日目以降が勝負です。三日目も私とアーヒムで、敵の前に姿を見せます。サルビアは我々の進軍を警戒して、陣立てを整えてくるでしょう。敵の陣がすっかり整った後、我々はいったん退却します」
そこで、ムーン・シャイターンの作戦が読めた。
「ふむ……あの狭路では、こちらが後退しても、敵は攻めるに攻められませんな。やっかいとばかり思っていましたが、陽動を起こしやすい地の利もある」
「あの重装備では、数刻立っているだけでも体力を奪われるでしょう。こちらが仕掛ける頃には、疲労している上に空腹というわけだ」
ヤシュムの言に愉快な気持ちがこみあげた。
「では奴らの目の前で、将兵にはゆっくり喫飯 させてやりましょう」
今日の前進が、明日の陽動に活きるというわけか……。
なるほど、ムーン・シャイターンが、今日はよくやったと褒めた理由が判った。ヤシュムもにやりと笑むと「では、そのように」と軍議を中断し、地図の上に杯を載せた。
ちょうど喉が渇いていたところだ。
アーヒムも従卒を呼び寄せ、酒の肴にしようと、雉 の燻製を焼いて持ってくるよう命じた。
「準備がいい、アーヒム。いつも気の利いた酒や肴を用意してくれて、俺は嬉しいぞ」
砕けた雰囲気に、ムーン・シャイターンも姿勢を崩すと、思案気に腕を組んで息を吐いた。
「お疲れですなぁ」
「いえ……」
「重いため息でしたよ。拠点で待つ花嫁 が気になりますか?」
軽口のつもりであったが、彼は「はい」と素直に首肯した。
「心配なさいますな。この狭路を抜けても尚、拠点までは遠く離れています。敵も、そう簡単には辿りつけますまい。それに一大事となれば、皆一丸となって殿下を御守りすることでしょう」
「もちろんです。ですが……それとは別の理由で、連れてきたことを、少し後悔しています」
敵襲以外の何を心配しているのだろう……。
ヤシュムと二人で見ていると、彼は気まずそうに口を開いた。
「この先、前線に復帰できない負傷兵が、拠点に運ばれると思うのですが……」
「ふむ」
「すぐに人手は足りなくなる。光希は優しいから……恐らく彼等を手伝うでしょう」
それのどこが問題なのだろう……話が見えずに困惑していると、対面に座るヤシュムは可笑しそうに笑った。
「つまり、殿下が他の者を気にかけることが、お嫌なのですね」
「光希の優しさを、相手が勘違いしなければいいのですが……」
そういうことか。しかし、無用な心配に思える。恐れ多くもムーン・シャイターンの花嫁に手を出す兵 は、我がアッサラーム軍には皆無だろう。
ヤシュムも同じことを思ったのか「心配し過ぎでしょう」と苦笑している。
「でも、前例がありますから」
前例と言われて、殿下の元武装親衛隊、ユニヴァース・サリヴァン・エルムの顔が浮かんだ。
殿下を宮殿の外へ連れ出して、ムーン・シャイターンの怒りを買ったことは軍でも有名な話だ。しかし……。
「きっちり報復されたではありませんか。あれを見て、震え上がらなかった連中は一人もいませんでしたよ」
謀反を起こしたヘルベルト家に至っては慈悲なき血の制裁が下り、花嫁を連れ出した元武装親衛隊の兵士も公開鞭打ち刑に処された。
極刑こそ免れたものの、わざわざ円形闘技場で行われた公開刑を、ほぼ全将兵が見させられたのだ。
高みから眺めるムーン・シャイターンの氷の眼差しは、アーヒムですら空恐ろしいものを覚えたものだ。あの凄惨な光景を見た者は、殿下に無礼を働こうなど、露ほども思わないだろう。
「だといいのですが……」
「あまり心配し過ぎては、明日に響きますよ」
雉の燻製が運ばれてきたので勧めると、ムーン・シャイターンもようやく酒に手をつけた。
彼の場合、いささか度を越した心配に思えるが、残してきた者を想う気持ちは、アーヒムにもよく判る。
妻は亡くして久しいが、アッサラームで帰りを待つ忘れ形見の双子は、アーヒムにとって掛け替えのない生きる支えだ。あの子達が待っていると思うと、こんな所ではとても死ねないと、腹の底から思う。
「――アッサラームに」
そう言って杯を掲げると、二人もアーヒムに続いて酒を煽った。
中央広域戦――史上最大の東西戦争では、聖戦を共にしたムーン・シャイターン、ヤシュムと共に中央激戦区の前線に立つ。
アッサラーム軍は山岳戦闘民族八千の手練れに一度は大敗を喫したものの、敗走に見せかけた奇襲でこれに勝利し、中央大陸中腹まで進軍する。
後方支隊に十万、アーヒムら率いる前線に十万の兵力を残したまま、遂に難関地形とされる山岳狭路でサルビア十万の軍勢と初戦を迎えた――。
中央大陸において、最も行軍困難とされる断崖絶壁の狭路を抜けた先、ようやく視界の開けた平地でサルビア軍が「無敵」と誇る重装歩兵隊の待ち伏せにあった。
分厚い鉄の壁に押し負け一時退却を命じると、背後を襲うサルビア軍の攻撃に、足を踏み外して転落する者が相次いだ。
山岳での狭い一本道では、攻めるよりも守る側の方が有利だ。
しかも、向こうは最寄の高地を占領しており、狭路から攻め込まなければならないアッサラーム軍と比べて、各段に有利だった。
目と鼻の先にサルビアの旗を視界に収めながら、一太刀も攻め込めず、アッサラーム軍は狭路の奥へ後退せざるをえなかった。
「初戦はサルビアに軍配が上がったか……」
アーヒムは中央山岳の地図を睨みながら、忌々しい気持ちで呟いた。対面に座るヤシュムも「全く」と頷く。
「それにしても、よくもこんな所まで、あのように重い装備を持ってきたものだ」
全身鋼に
対面に座るヤシュムも忌々しそうに唸った。
「うーむ。しかし、あそこを抜けない限りは、この先に進めんな」
「ムーン・シャイターンは?」
「直ぐに来られよう」
ヤシュムが答えると同時に、ムーン・シャイターンは天幕にやってきた。
我々を見るなり「今日はよくやった」と労いの言葉をかける。退却一手のどこを褒められたのか……閉口していると若き覇王は口端を上げて笑んだ。
「今日の一戦で気付けたことは多い。まともに衝突すれば巨岩の如しでも、あの重たい部隊には弱点がある。散開隊形になってしまえば機能しないし、狭い
「それはそうですが……狭路となれば、向こうも先ず深追いはして来ないでしょう」
思わず反論すると、ヤシュムも「向こうは高地を陣取り、見晴らしも良い」と頷いた。
「明日も再び正面から挑みます。いかにもこの路を攻めるのだと、向こうに印象づける陽動です。今日を果敢に凌いだからこそ、相手の眼には自然に映るでしょう。敢えて奥へは攻め込まず、じりじりと苦戦していると思わせるのです。向こうが勇み足で狭路に入れば、すかさず叩きますし、そうでなければ日暮れと共に撤退して、翌日に後方から回らせた部隊で
「左右は絶壁。飛竜も降りれますまい。挟撃とは、どの部隊を動かすのです?」
アーヒムが問えば、彼は一つ頷いてヤシュムを見やる。
「ヤシュム、身軽な精鋭を三百動かせますか? 明日は敵の目が本陣に向いている間に絶壁に移動し、そのまま待機してください。翌昼、合図を待ってサルビアを後方から叩いてください」
指名を受けたヤシュムは、狼狽えたように腕を組んだ。
「しかし軽装備では、あの重装備にかすり傷一つ負わせられないぞ。投石機でもないと無理でしょう」
「敵の体力を出来る限り削ります。明日は果敢に攻めると見せかけ、三日目以降が勝負です。三日目も私とアーヒムで、敵の前に姿を見せます。サルビアは我々の進軍を警戒して、陣立てを整えてくるでしょう。敵の陣がすっかり整った後、我々はいったん退却します」
そこで、ムーン・シャイターンの作戦が読めた。
「ふむ……あの狭路では、こちらが後退しても、敵は攻めるに攻められませんな。やっかいとばかり思っていましたが、陽動を起こしやすい地の利もある」
「あの重装備では、数刻立っているだけでも体力を奪われるでしょう。こちらが仕掛ける頃には、疲労している上に空腹というわけだ」
ヤシュムの言に愉快な気持ちがこみあげた。
「では奴らの目の前で、将兵にはゆっくり
今日の前進が、明日の陽動に活きるというわけか……。
なるほど、ムーン・シャイターンが、今日はよくやったと褒めた理由が判った。ヤシュムもにやりと笑むと「では、そのように」と軍議を中断し、地図の上に杯を載せた。
ちょうど喉が渇いていたところだ。
アーヒムも従卒を呼び寄せ、酒の肴にしようと、
「準備がいい、アーヒム。いつも気の利いた酒や肴を用意してくれて、俺は嬉しいぞ」
砕けた雰囲気に、ムーン・シャイターンも姿勢を崩すと、思案気に腕を組んで息を吐いた。
「お疲れですなぁ」
「いえ……」
「重いため息でしたよ。拠点で待つ
軽口のつもりであったが、彼は「はい」と素直に首肯した。
「心配なさいますな。この狭路を抜けても尚、拠点までは遠く離れています。敵も、そう簡単には辿りつけますまい。それに一大事となれば、皆一丸となって殿下を御守りすることでしょう」
「もちろんです。ですが……それとは別の理由で、連れてきたことを、少し後悔しています」
敵襲以外の何を心配しているのだろう……。
ヤシュムと二人で見ていると、彼は気まずそうに口を開いた。
「この先、前線に復帰できない負傷兵が、拠点に運ばれると思うのですが……」
「ふむ」
「すぐに人手は足りなくなる。光希は優しいから……恐らく彼等を手伝うでしょう」
それのどこが問題なのだろう……話が見えずに困惑していると、対面に座るヤシュムは可笑しそうに笑った。
「つまり、殿下が他の者を気にかけることが、お嫌なのですね」
「光希の優しさを、相手が勘違いしなければいいのですが……」
そういうことか。しかし、無用な心配に思える。恐れ多くもムーン・シャイターンの花嫁に手を出す
ヤシュムも同じことを思ったのか「心配し過ぎでしょう」と苦笑している。
「でも、前例がありますから」
前例と言われて、殿下の元武装親衛隊、ユニヴァース・サリヴァン・エルムの顔が浮かんだ。
殿下を宮殿の外へ連れ出して、ムーン・シャイターンの怒りを買ったことは軍でも有名な話だ。しかし……。
「きっちり報復されたではありませんか。あれを見て、震え上がらなかった連中は一人もいませんでしたよ」
謀反を起こしたヘルベルト家に至っては慈悲なき血の制裁が下り、花嫁を連れ出した元武装親衛隊の兵士も公開鞭打ち刑に処された。
極刑こそ免れたものの、わざわざ円形闘技場で行われた公開刑を、ほぼ全将兵が見させられたのだ。
高みから眺めるムーン・シャイターンの氷の眼差しは、アーヒムですら空恐ろしいものを覚えたものだ。あの凄惨な光景を見た者は、殿下に無礼を働こうなど、露ほども思わないだろう。
「だといいのですが……」
「あまり心配し過ぎては、明日に響きますよ」
雉の燻製が運ばれてきたので勧めると、ムーン・シャイターンもようやく酒に手をつけた。
彼の場合、いささか度を越した心配に思えるが、残してきた者を想う気持ちは、アーヒムにもよく判る。
妻は亡くして久しいが、アッサラームで帰りを待つ忘れ形見の双子は、アーヒムにとって掛け替えのない生きる支えだ。あの子達が待っていると思うと、こんな所ではとても死ねないと、腹の底から思う。
「――アッサラームに」
そう言って杯を掲げると、二人もアーヒムに続いて酒を煽った。