アッサラーム夜想曲

山岳戦闘民族撃退戦 - 2 -

 翌朝。夜明けの濃霧に乗じて、アーヒムは密かに少数精鋭の伏兵を、野営地から少し外れたところに配置した。
 作戦通り、ヤシュムとムーン・シャイターンは野営地に食料を残したまま、戦意を失くしたように撤退準備を始める。
 ヤシュムは辺りに聞こえるよう、自分の副官に「今一度攻めましょう」と言わせ「後方に戻り配置換えを行う」と尤もらしく答えた。

「退却せよ!」

 大きく号令をかけると、全隊と見せかけたアッサラーム軍は、野営地に背を向けて歩き出した。
 湿地の入り口は平野で、一本の河が横たわっている。来る時にも越えてきた河だ。熟知の浅瀬から渡河前進を命じると、兵達は間もなく渡り終えた。
 もともと後方に残しておいた支隊と合流すると、伏兵にすべく、窪みや岩場の影といった地形にうまく隠した。
 渡河を終えてずぶ濡れの本陣も、対岸から見えぬところで火に当たらせ、皮膚には防寒の油を塗らせる。
 いつでも来るがいい。
 対岸の茂みを睨みつけるヤシュムの傍に、軽食を手にムーン・シャイターンが戻ってきた。持っていた一つをヤシュムに渡してくれる。

「ありがたく……しかし、ここにいては危険です。どうかお下がりください」

「ヤシュムが心細いかと思いまして」

「ぶっ」

 彼らしからぬ軽口に、思わず吹き出してしまった。こんな冗談を言える人だったろうか。

「何をおっしゃる」

 ふと衝撃から立ち直ると、余計に張っていた力が抜けたことに気付いた。
 参った。気を遣われてしまったようだ……。
 自分とは一回りも歳の離れた若者に、穏やかに諭された気分だ。わざとらしく咳払いすると、余裕のある笑みを浮かべてみせる。

「ありがとうございます。しかし、総大将が待ち構えていては、とても敗走には見えませぬ。お気遣いくださるのなら、どうぞ辺りの茂みにでも隠れていてください」

「そうしましょう」

 彼はヤシュムの肩を叩いてから、大人しく引き下がった。
 その背を見送りながら、思えば行軍の最中にも幾度となく気遣われたいたのだと、今更ながら気付いた。
 昨日の軍議にしても、ヤシュムの言を立てれば次はアーヒムを立てていた。年若いムーン・シャイターンから見れば、アーヒム共に口煩い将だろうに、贔屓なく重用し、達成感を抱かせるのだから大したものだ。
 スクワド砂漠でくつわを並べた時には、淡々とした態度が癇に障ったものだ。今では隣を走るだけで、勇気づけられるのだから不思議なものだ。
 元から軍略の才には恵まれていたが、いつの間に人心掌握まで身につけたらしい。そういえば、アーヒムの態度も、彼に対して随分と柔らかくなった……。
 ふと一陣の風に異変を知る。
 殺気を捉えて気を引き締めた途端、対岸に山岳の蛮族が現れた。ざっと見積もっても、数百はいる。
 ヤシュムは対岸に向かって、昨日の仕返しとばかりに恫喝どうかつを吠えた。

「ここまでは、到底追ってこれまい!」

 作戦を把握している兵達も、ヤシュムに次いで盛大に野次を飛ばす。

「今に立て直し、襲ってやる。首を洗って待っているがいい!」
「合間に隠れてばかりの臆病者め!」

 散々に喚いてから背を向けると、蛮族達は無思慮に追い駆けてきた。流石に渡河は素早い。
 彼等の半数が越えたところで、ムーン・シャイターンは「今だ!」と茂みから立ち上り、隠しておいた伏兵も一斉に続く。
 動きやすい平地で、兵力を分散させられた蛮族を追い詰めることは容易かった。
 未だ渡っていない向こうの部隊は、対岸の味方を救援出来ず、渡り終えた部隊もヤシュム達の黒牙に襲われて、後退動機の自由がない。
 存分に刃を振るった。
 ムーン・シャイターンも目にも止まらぬ速さで、敵を斬り伏せている。瞬く間に、彼等のむくろで河は赤く染めあげられた――。
 対岸にアーヒムが姿を見せると、蛮族達は完全に戦意を失くして湿地へと逃げ帰ろうとした。
 その背を見た途端に、昨日の悔しさが再燃する。
 しかし、追い駆けようとするヤシュムの肩をムーン・シャイターンは強く押さえる。殆ど睨みつけるように振り返った。

「今なら――っ!」

「ヤシュム! 今戦いで、山岳民族は本来の敵ではない! 背中を向けて逃げる者に、容赦なく追いすがることは得策とは言えません。判りますか?」

 冷静さを求められている――。
 どうにか怒りを抑え込み、期待に応えようと口を開いた。

「やむをえずして、烈しく抗戦する展開を避ける為でしょうか……」

「それもありますが、敗者に対して戦場で寛容だと評判が拡がれば、それを耳にした別の者と相対した時、指揮官が直ぐに退却する決心をしてくれるようになる」

 深い言葉に眼を瞠った。彼がこれほどに思索の人とは知らなかった。

「この先も長い。再び剣を交える機会を、少しでも有利にしておくんです」

「なるほど……頼もしい将師だ」

 ヤシュムが絶句していると、いつの間に渡河を終えたアーヒムが、感心したように呟いた。
 確かに、彼の経験に裏打ちされた格言には、感心させられることが多い。とても一回りも歳が離れているとは思えぬ。

「アーヒム、野営地は?」

 問いかけると、アーヒムは不敵な笑みで応えた。思わずムーン・シャイターンと揃って笑顔になる。

「やれやれ……これで一つ、勝ちを取り戻しましたな」

「痛手はこうむりましたが、ようやく進軍できます」

「しかし、随分と遅れを取った。有利な地形は、もう押えられているかもしれませんな……」

 三人揃って表情を消した。アーヒムの懸念は現実のものになるだろうと、確信に近い思いを抱いたからだ。
 サルビアと一戦も交えぬうちから、大きく出遅れてしまった。

「――まぁ、今夜の野営では酒を振る舞いましょう。皆よく粘った」

 アーヒムの言葉に、ヤシュムもにやりと頷いた。
 勝ちは勝ちだ。
 陰気を忘れるくらい、憂さ晴らししておいた方がいい。窺うようにムーン・シャイターンを見ると、笑みを浮かべて頷いてくれた。

「そうですね、今日は皆を労いましょう」

 よし! 今夜はうまい酒が飲めそうだ。
 二人の肩を叩けば、同じように叩き返される。そこでようやく、ヤシュムの沈んだ気分は上向いた。