アッサラーム夜想曲
血統 - 2 -
東西大戦の終結から四年。
間もなくアメクファンタムは、十三歳になる。
柔らかな曇り空の下、ザインから帰還するアッサラーム軍を、アメクファンタムは宮殿の滑走場で待っていた。隣には現皇帝であるアデイルバッハと、次期皇帝のアースレイヤがいる。
やがて空の彼方に飛竜の陰翳が見えると、同じく滑走場で待つ兵士が、一斉に帽振りで歓呼を叫んだ。
先頭を翔ける飛竜には、砂漠の英雄――シャイタ-ンとその至宝――花嫁 が騎乗している。
「元気そうですね」
彼らの無事な姿を認めて、アースレイヤは微笑した。アメクファンタムも笑顔で頷くと、ふたりが降り立つ様子を見守った。
青い軍旗を手にしたシャイタ-ンは、凛然と美しく、秘められた大きな力をもっているように見えた。
事実、彼は神の不滅の力をその身に宿している。
陽を浴びて、頭髪を金色燦然 と煌めかせて歩く姿は、世界と神のあいだに在るのだと思わせた。
半神の総司令官は、皇帝の前で跪くと、恭しい手つきで軍旗を捧げた。
「アッサラームを代表して、聖霊降臨儀式を見届けて参りました。お預かりしていた軍旗を、謹んでお返しいたします」
軍旗の返上と共に、任務に与えられていた全権限を返上する。
「うむ、大義であった。こうして、そなたから軍旗を受け取るのは、今度こそ最後になるな」
穏やかにアデイルバッハが告げると、跪いたシャイターンも顔をあげて、控えめな笑みを浮かべた。
皇帝は軍旗を手に取り、高く掲げてみせた。周囲から喜びの咆哮があがる。
歓喜に包まれながら、アメクファンタムの心は平静であった。いや、緊張しているのだ。
ザインの聖霊降臨儀式が終わった。次は己の番だ。成人の儀式と、戴冠式が待っている。
+
期号アム・ダムール四五七年。一月三〇日。
聖都の幾星霜を知る神殿の、大理石の鐘楼で鐘が鳴り、次代の始まり告げた。
光に照らされ、聖別された香油の漂うなか、神殿つきの守備隊が太鼓を打ち鳴らし、熟練の神殿楽師 が円盤を爪弾く。数千本もの管楽器が、厳かで喜ばしい福音を大神殿に響かせた。
深紅の祭壇布は金糸の縫い取りがあり、大粒の焔のような紅玉と、白翡翠の連なりで飾られている。中央には水晶の宝冠、剣 が横たわっていて、蝋燭の燈を照り返し、金色に煌めいている。
十二名の白き神殿騎士が、彫刻のごとく微動だにせず見守るなか、金色の紋様のある緋色の寛衣 をまとったサリヴァンが祭壇前に立ち、滔 々と祈祷を暗誦している。
真面目で音楽的な声で、この国の安寧と祝福を祈り、いと高き星の御導き、いと慈悲深い贖い主の恩寵によりて、課せられたいかなる苦行も耐え抜き、聖都に生きて死にゆく――神と民と自身への誓いを唱える。
広い空間を、神聖な言葉と精神が満たした。
「アースレイヤ・ダガー・イスハーク皇太子」
ながい祝詞を終えて、サリヴァンが名を読みあげると、アースレイヤは静かに進みでて、祭壇の前に跪いた。
顔に聖油を塗り、優雅に白貂 をまとった彼は、厳かで美しく、立派であった。
石床を鳴らし、アデイルバッハはアッサラームの歴史を重ねた水晶の宝冠を、彼の頭上に与えた。更に金色の錫杖 と宝珠を渡す。
皇帝自ら手を取りアースレイヤを立たせると、その背を押して皆の前に立たせた。
「新皇帝――アースレイヤ・ダガー・イスハーク」
今この瞬間、最高権威はアースレイヤに委譲された。
列席する各国の名士、貴顕 達は深く跪いた。ザインから招かれたリャン・ゴダールも、礼装姿のシャイターン、聖衣を纏う花嫁も新皇帝の誕生に跪く。
厳かな空気は、数々の神事に参列してきたアメクファンタムにも、緊張をもたらした。
「アメクファンタム・ダガー・イスハーク」
名を呼ばれて、アメクファンタムは感情が昂るのを覚えた。きた――いよいよその瞬間、継承の瞬間が訪れたのだ。
安息香に包まれた祭壇へ上がる時、石畳に刻まれた、幾世代もの足音が聞こえた気がした。
心臓は早鐘を打っている。くらりと眩暈を堪えて仰ぎ見ると、新皇帝と目が遭った。
血統に支えられてきた階 へと足をかける。踏みだす一歩を、これほど頼りなく感じるのは、いつぶりだろうか。
「アメクファンタム様、もう少し前へ」
サリヴァンに小声に囁かれて、慌てて数歩を調整した。
「アメクファンタム・ダガー・イスハークの成人を認め、皇太子として遇することを、シャイターンに誓って宣言する」
アースレイヤが告げると、成人の象徴である黒牙のサーベルを、サリヴァンは両手で差しだした。鞘に納められた刀身には、青い星の御使いが手ずから彫った双竜が意匠されている。
「命ある限り、皇家の責務を負い、アッサラームに仕えることを誓いなさい」
「はい、我が陛下」
全身を緊張させながら、戴冠したアースレイヤに最高位の敬称で応えた。
幸せな皇子時代は終わった。これからは皇太子として、この国を見据えていかねばならない。
皇家が揃って露台に姿を見せると、眼下に集まる群衆から、割れんばかりの喝采が送られた。
灰青色の衣を着た少年聖歌隊が、清らかなる澄んだ声で“アッサラームに栄光あれ ”を唱和している。
遠く――
金色の陽に照らされ、尖塔の輪郭は鹿毛 色に輝いている。
満ちる熱気と祈りの波動を肌に感じながら、アメクファンタムは瞳を閉じた。
アッサラームを讃える大歓声が、聞こえる。
新しい御世が始まる。
時が満ちれば、連綿と続く歴史の後衛に、アメクファンタムも名を連ねるのだ。
神の御心に従う魂が続いていく限り、この国の栄光は亡びない。
青い星に帰すとも、魂は朽ちることなく砂漠に宿り、シャイターンの守護大地たる西全土に遍 く伝わるであろう。
ふたたび目を開けると、手を挙げて歓声に応えた。
権威に怯まず、奢らず、長い道のりに屈することなく、歩んでいこう――その先にきっと、未来がある。
間もなくアメクファンタムは、十三歳になる。
柔らかな曇り空の下、ザインから帰還するアッサラーム軍を、アメクファンタムは宮殿の滑走場で待っていた。隣には現皇帝であるアデイルバッハと、次期皇帝のアースレイヤがいる。
やがて空の彼方に飛竜の陰翳が見えると、同じく滑走場で待つ兵士が、一斉に帽振りで歓呼を叫んだ。
先頭を翔ける飛竜には、砂漠の英雄――シャイタ-ンとその至宝――
「元気そうですね」
彼らの無事な姿を認めて、アースレイヤは微笑した。アメクファンタムも笑顔で頷くと、ふたりが降り立つ様子を見守った。
青い軍旗を手にしたシャイタ-ンは、凛然と美しく、秘められた大きな力をもっているように見えた。
事実、彼は神の不滅の力をその身に宿している。
陽を浴びて、頭髪を
半神の総司令官は、皇帝の前で跪くと、恭しい手つきで軍旗を捧げた。
「アッサラームを代表して、聖霊降臨儀式を見届けて参りました。お預かりしていた軍旗を、謹んでお返しいたします」
軍旗の返上と共に、任務に与えられていた全権限を返上する。
「うむ、大義であった。こうして、そなたから軍旗を受け取るのは、今度こそ最後になるな」
穏やかにアデイルバッハが告げると、跪いたシャイターンも顔をあげて、控えめな笑みを浮かべた。
皇帝は軍旗を手に取り、高く掲げてみせた。周囲から喜びの咆哮があがる。
歓喜に包まれながら、アメクファンタムの心は平静であった。いや、緊張しているのだ。
ザインの聖霊降臨儀式が終わった。次は己の番だ。成人の儀式と、戴冠式が待っている。
+
期号アム・ダムール四五七年。一月三〇日。
聖都の幾星霜を知る神殿の、大理石の鐘楼で鐘が鳴り、次代の始まり告げた。
光に照らされ、聖別された香油の漂うなか、神殿つきの守備隊が太鼓を打ち鳴らし、熟練の
深紅の祭壇布は金糸の縫い取りがあり、大粒の焔のような紅玉と、白翡翠の連なりで飾られている。中央には水晶の宝冠、
十二名の白き神殿騎士が、彫刻のごとく微動だにせず見守るなか、金色の紋様のある緋色の
真面目で音楽的な声で、この国の安寧と祝福を祈り、いと高き星の御導き、いと慈悲深い贖い主の恩寵によりて、課せられたいかなる苦行も耐え抜き、聖都に生きて死にゆく――神と民と自身への誓いを唱える。
広い空間を、神聖な言葉と精神が満たした。
「アースレイヤ・ダガー・イスハーク皇太子」
ながい祝詞を終えて、サリヴァンが名を読みあげると、アースレイヤは静かに進みでて、祭壇の前に跪いた。
顔に聖油を塗り、優雅に
石床を鳴らし、アデイルバッハはアッサラームの歴史を重ねた水晶の宝冠を、彼の頭上に与えた。更に金色の
皇帝自ら手を取りアースレイヤを立たせると、その背を押して皆の前に立たせた。
「新皇帝――アースレイヤ・ダガー・イスハーク」
今この瞬間、最高権威はアースレイヤに委譲された。
列席する各国の名士、
厳かな空気は、数々の神事に参列してきたアメクファンタムにも、緊張をもたらした。
「アメクファンタム・ダガー・イスハーク」
名を呼ばれて、アメクファンタムは感情が昂るのを覚えた。きた――いよいよその瞬間、継承の瞬間が訪れたのだ。
安息香に包まれた祭壇へ上がる時、石畳に刻まれた、幾世代もの足音が聞こえた気がした。
心臓は早鐘を打っている。くらりと眩暈を堪えて仰ぎ見ると、新皇帝と目が遭った。
血統に支えられてきた
「アメクファンタム様、もう少し前へ」
サリヴァンに小声に囁かれて、慌てて数歩を調整した。
「アメクファンタム・ダガー・イスハークの成人を認め、皇太子として遇することを、シャイターンに誓って宣言する」
アースレイヤが告げると、成人の象徴である黒牙のサーベルを、サリヴァンは両手で差しだした。鞘に納められた刀身には、青い星の御使いが手ずから彫った双竜が意匠されている。
「命ある限り、皇家の責務を負い、アッサラームに仕えることを誓いなさい」
「はい、我が陛下」
全身を緊張させながら、戴冠したアースレイヤに最高位の敬称で応えた。
幸せな皇子時代は終わった。これからは皇太子として、この国を見据えていかねばならない。
皇家が揃って露台に姿を見せると、眼下に集まる群衆から、割れんばかりの喝采が送られた。
灰青色の衣を着た少年聖歌隊が、清らかなる澄んだ声で“
遠く――
金色の陽に照らされ、尖塔の輪郭は
満ちる熱気と祈りの波動を肌に感じながら、アメクファンタムは瞳を閉じた。
アッサラームを讃える大歓声が、聞こえる。
新しい御世が始まる。
時が満ちれば、連綿と続く歴史の後衛に、アメクファンタムも名を連ねるのだ。
神の御心に従う魂が続いていく限り、この国の栄光は亡びない。
青い星に帰すとも、魂は朽ちることなく砂漠に宿り、シャイターンの守護大地たる西全土に
ふたたび目を開けると、手を挙げて歓声に応えた。
権威に怯まず、奢らず、長い道のりに屈することなく、歩んでいこう――その先にきっと、未来がある。