アッサラーム夜想曲

血統 - 1 -

 アメクファンタムは四歳の誕生日に、父であるアースレイヤ皇太子から、美しい一角馬を授かった。
 全身が灰銀色の珍しい牝馬で、天鵞絨びろうどのような毛並みをしている。彼女を、ランツァと名付けた。
 アッサラームに生をけたなら、男も女も、五歳にもなれば馬に乗る。棕櫚しゅろの木の鞍に抱きあげられ、手綱を持てといわれるのだ。
 揺られるうちに体感を掴み、幾日か繰り返せば、さぁいっておいで! と送りだされる。更に日が経つと、砂の海に向かって駆けだせるようになる。
 風を切って、馬と一体になって、跳ねあがるような焔の高揚と共に、最大速度に挑戦するのだ。
 あの頃、ランツァに夢中だった。
 宮殿を飛びだして、砂の大海原、いつまでも沈まぬ夕陽に向かってどこまでも駆けたものだ。
 黄昏になると、黄金に染められた空と砂は渾然一体となり、息を呑むほど美しい。
 無限に続く砂漠のなかのオアシス。水と緑に恵まれし、金色こんじきの聖都アッサラーム。
 祝福されし悠久の国に、輝かしい皇家に生まれたことが誇りであった。“遠征王”と呼ばれる皇帝、父であり次期皇帝であるアースレイヤ、母であり公宮の花と讃えられる、美しいリビライラ。
 世界は明るく輝いていて、希望に満ちている。
 約束された幸福。それが、アメクファンタムの未来だ。
 五歳になると、家族の肖像画を新しくした。
 愛する家族は多忙なので、画家の前に一斉に並ぶことは一度しかなかったが、その一度が嬉しかった。
 嬉しいけれど恥ずかしくて、恥ずかしいけれど嬉しくて……じっとしていることは困難であった。
 本当は、ランツァも一緒に描いて欲しかったのだが、残念ながら駄目だといわれた。
 六歳の頃、アースレイヤの姫が身籠り、室を賜った。四貴妃――南妃ピアランに昇格したが、間もなく姿を消した。
 行き場のない公宮で?
 謎の多い不思議な失踪には、リビライラの名を囁く声が、幼いアメクファンタムの耳にも聞こえてきた。
 そして知る、皇家の血塗られた系譜……
 ダガー・イスハーク家は、輝かしい栄光と智恵と善意だけで築かれてはいない。
 後衛に名を連ねる現皇帝も次期皇帝のアースレイヤも、繊細佳人なリビライラですら、非情なまでに残忍な側面を持っていた。公宮を維持する為に、彼女は幾度も手を血に染めていたのだ。
 信じていた未来に、初めて影が射した。
 血は繋がっているはずなのに……彼等の非情が判らない。自分もそうあるべきなのだろうか?
 恐ろしくて、苦しくて、ランツァに寄りそいながら泣き伏した夜もある。
 行く末に不安を覚えながら、七歳を迎えた。
 聖戦の終結。
 国を揺るがす聖戦にアッサラームは耐え抜いた。劣勢の危ぶまれた、三年にも及ぶ侵攻を防衛しきったのだ。
 砂漠の英雄は、花嫁ロザインを連れて凱旋を果たした。
 その華々しい光景を、アメクファンタムはリビライラと並んで貴賓席から眺めていた。信心深い家系に育ったアメクファンタムは、青い星の御使いに初めから崇敬の念を抱いていた。
 彼と初めて言葉を交わしたのは、その年の暮れの合同模擬演習である。
 穏やかな夜のように、艶のある澄明ちょうめいな黒い瞳の持ち主だった。
 血統の重みに苦しみ、猜疑心にさいなまされるアメクファンタムの瞳にも、彼の笑みは清らかに映った。
 尊い御方。己とは縁遠い御方――離れたところから鑑賞するような印象を抱いていたが、間もなく、唯一無二の恩人へと昇華する。
 八歳になる頃、尊い天上人は暗殺の危ぶまれていたサンベリアを救いあげたのだ。
 彼女が産み落とす子は、いずれリビライラか、或いは己が手にかけることになるのかと、密かに恐怖していたのだ。
 知らせを聞いた時、冷たい恐怖は春風に吹かれて、凍える指先に血が通いだしたことを覚えている。
 それからほんの数日のうちのある黄昏。
 安息香の焚かれた祭壇に跪き、感謝を捧げるアメクファンタムの隣に、アースレイヤがやってきた。
 祈りは聖者の務めだ。互いに日課なので、ここで会うことは、めずらしくない。会話もなく、ただ静かな沈黙を共有する。
 しかしこの日は、ややながい沈黙のあとで、アースレイヤが囁くように訊ねた。
「何を熱心に祈っているの?」
「え?」
 声をかけられたことが意外で、思わず呆けた返事をしてしまった。隣を仰ぎ見ると、アースレイヤは、敬虔な信者のように瞼を固く閉ざしていた。
 どう答えようかアメクファンタムは迷ったが、正直に話すことにした。恐る恐るサンベリアの話を打ち明けると、
「血統が厭になったかい?」
「……いえ」
「隠す必要はないよ。皇家に生まれた以上、誰しも通る道だから」
「……」
 気まずくて、アメクファンタムはしたを向いてしまう。
「ただ、宝冠を戴く身であっても、傍に置く者を選ぶことはできるよ」
 穏やかな声には、千鈞せんきんの重みがあった。アースレイヤは血を分けた実弟が健在のまま、即位を迎えようとしている。それ以外の兄弟が全員倒れ伏しても、彼とその弟だけは生き抜いたのだ。
 彼が祈りを捧ぐ姿を見るのは、今日が初めではない。毎日の典礼儀式に列席しているし、黄昏たそがれには静寂と安らぎの空間で祈りを捧げていることを知っている。
 しかし、見慣れた日常の祈りの光景に、今日初めてアースレイヤの幼い頃に想いを馳せた。
 もしかしたら、神と語らい心を解放することで、束の間の安らぎを得ているのだろうか。幼い頃からずっと……
「僕は、陛下のようにも、父上のようにもなれる気がいたしません……」
 心細い気持ちになって弱音をこぼすと、アースレイヤは微笑した。
「同じ道を歩む必要はないさ。事実、私は陛下と違って遠征を推し進めはしないからね」
 きっぱりとした口調に、アメクファンタムは目を瞠る。
 東西大戦は目前に迫っているが、今の口ぶりからは否定的な感情が窺えた。
「人は歴史に学べない。幾年月、東西の衝突で苦渋を舐めても、東西統一を聖戦と崇め、国境に攻め入る。この国の宿痾しゅくあだ」
「ですが……先日、かの御方に行軍の意志を確認されたとお聞きしましたが……」
「東西の戦いが避けられないことは、もはや明白だからね。勝機をあげる為にも、青き星の御使い自ら、遠征に発つと告げることが肝心なのだよ」
 では、功を奏したのだろうか。彼は国門への従軍を自ら進言したと聞いている。
「あの御方は、尊い御身にどれだけの力があるか理解されていなかった。それは力の放棄に等しい」
 静かな言葉は、アメクファンタムの胸に突き刺さった。
 皇家の、それも皇太子に最も近いと目されながら、我が身に降りかる権威に怯えているのだから……
 叱られた心地で押し黙ると、ささめくような、愉しげな笑い声が耳に届いた。
「落ちこむには早過ぎる。見こみはあるから、精進しなさい」
 柔和な眼差しに見つめられて、アメクファンタムの胸は高鳴った。父からの励ましの言葉は珍しいのだ。
「はい!」
 気合の入った返事をすると、くしゃっと髪を撫でられた。
 嬉しさのあまり声をあげて笑ってしまい、厳かな天蓋に思いのほか反響して、慌てて口を閉じた。