アッサラーム夜想曲

栄光の紋章 - 10 -

 期号アム・ダムール四五七年。一月五日。聖霊降臨日。
 四十雀しじゅうからは祝福をさえずり、神代の古来からザインに伝わる優しい弦の音色は、一月の天空に響き渡った。
 隊商宿キャラバン・サライの一室では、ナフィーサの指示で、光希の代わりを務める少年兵の準備が整えられようとしていた。頭から長い薄紗ヴェールをかけて、肌の見えぬ衣装に手袋を着ければ、傍目に光希であるかどうかは判らない。
 その様子を、光希は部屋の隅で静かに眺めている。不満そうではないが、どこか寂しそうだ。
 彼のことが気懸かりで、ジュリアスがなかなか部屋をでていけずにいると、光希は思慮深い微笑を浮かべた。
「待ってるよ。いってらっしゃい」
 そういって送りだしてくれる。
 最初は渋っていた光希も、最後は代役を立てることに同意してくれたのだが、それでジュリアスは満足なのかと訊かれたら、そうでもなかった。
 宿をでた後も、窓辺に立っているであろう光希を、仰ぎ見たい衝動に駆られた。そんな真似をすれば、周囲に不自然に思われてしまうので我慢するしかないのだが、彼を見ていたかった。彼の安全のためだと己にいい聞かせても、光希をおいていくように感じられてならなかった。
(この賑々にぎにぎしい光景を、光希にも見せてあげたかった)
 ありとあらゆる商店、とりわけ巡礼洋品店は賑わいを見せている。街中の人が聖殿に向かって大移動をしていた。
 ここへ到着した日、閑散としていた通りからは想像もできない盛況ぶりである。
 ジュリアスと光希の影武者を乗せた馬車は、市内を軽快に走り、間もなく蓮花はすの聖殿が見えてきた。
 大都に暮らす大勢の人々が、清らかな装いで集まっている。三家も揃い、西に名を馳せる名士、族領の姿もある。
 続々と車が続くなか、アッサラームの象徴、青い双竜と剣の紋章旗が翻ると、集まった群衆から一際大きな歓声があがった。
 アッサラーム・ヘキサ・シャイターン軍の総大将、ジュリアス・ムーン・シャイターン、その花嫁ロザインを乗せた天蓋のついた豪奢な二輪装甲車が通過する際には、少しでも近くで見ようと、前にでようとする群衆を警備隊が整備するほどであった。
 恭しい手つきでジュリアスは花嫁ロザインの――光希の代役を務める若い兵の手を取った。
 ナフィーサに指導を任せただけあり、彼の演技は様になっていた。
 屋内で座す時はナフィーサを使うが、歩く姿を見せる時には、背格好の似ている子供を採用している。
 偽物と知らぬ人々は、崇敬の眼差しで花嫁ロザインを仰ぎ、瞑想に耽った。
 やがて――
 神官が祝詞を詠みあげると、超常の神秘が始まった。
 蝋燭の灯された祈祷台には、砂で果てた竜の骨が、供物として捧げられている。大地に宿るシャイターンの神秘を借りて、竜は霊的に再生するのだ。
 静けさが満ちて、信徒は沈黙の祈祷いのりを捧げる。
 聖霊に満たされた骨の抜け殻は、霊の言葉を語りかける。星の廻りを見極め、道を示す。

“領主は、リャン・ゴダールに”

 広大に響き渡るは、神のごとく!
 新たなグランディエ公は、十年保有していたザインの御旗を、次なる領主、リャン・ゴダールへと手渡した。
 割れんばかりの喝采が鳴り響いた。革命軍の若者も、笑顔で壇上のリャンを仰いでいる。八面六臂はちめんろっぴの活躍をしたヘガセイア・モンクレアなどは、感涙に咽び泣いていた。
 儀式の大部分は終わったが、聖霊降臨日の祝福は一日続く。
 この後、供物や祈祷具を手に持った参列者は、ザインに点在する礼拝堂を巡りながら練り歩くのだ。その光景はもはや国民大移動である。
 アッサラームの代表として、ジュリアスも参列を求められたが、ナディアに任せて早々に引きあげた。
 ひっそり静まった隊商宿キャラバン・サライに戻ると、光希は紅茶を飲んで寛いでいた。
「お帰り」
 朗らかな笑みに安堵し、傍へ寄ると、楽しそうに瞳を輝かせてジュリアスを見つめてきた。
「どうだった?」
「リャンが選ばれて、領民は喜んでいましたよ」
「そっかー! 見たかったなぁ」
 晴れやかな笑みを浮かべ、少し悔しそうに呟いた。
 後ろめたさがこみあげてジュリアスが黙すると、光希は苦笑を浮かべた。
「いいよ、もう」
 いつもの口癖にしては、声が柔らかい。ジュリアスが意味を計りかねていると、光希は眼差しを和らげ、淡くほほえんだ。
「アッサラームに帰る前に、飛竜に乗って散歩したいな」
「もちろん、構いませんよ」
 快諾したものの――用事が重なり、実現するには日を要した。

 出発前夜である。
 飛竜の背に光希を乗せて、ジュリアスは空を翔けていた。穏やかな風に任せて、静かに滑空する。
 大都から遠く離れたあたりで砂漠におりると、肩を並べてじっと青い星を仰いだ。
 頭上には、幾つもの彗星が飛来している。神々が遠くへ旅立とうとしているのだ。
「綺麗だねぇ……」
「どこにいても、星明かりは変わりませんね」
 目が眩むような星空……まるで、光希のようだ。
「そうだねぇ……どこにいても、青い星を仰げるね。向こうから見たら、この星はどんな風に見えるのかな?」
 不思議な問いかけに、ジュリアスは僅かに首を傾けた。
「あるがままに、見えるのでしょう。わが神には全てお見通しでしょうから」
 光希は、淡い笑みを浮かべた。澄んだ眼差しでジュリアスを見つめた後、一途な眼差しを天空に向ける。
「……僕が昔いた国では、自分たちの立っている星の青さを知ったのは、長い歴史のずっと後だったんだ。はるか天空の彼方まで旅した人が、“地球は青かった”って伝えたんだよ」
 チキュウ――
 彼の口から時々こぼれる、青い星の名だ。我々がヴァールと崇める星を、光希は出会った頃から、違う名で呼ぶ。
 腕を引いて抱き寄せると、黒い瞳はジュリアスを映して、幸せそうに細められた。
「好きだよ」
 瞬く間もなく、彼の方から唇に触れるだけの口づけを与えられた。波紋のように、歓びがジュリアスの全身に広がっていく。
「私も、好きです。聖霊降臨日に、寂しい思いをさせてすみませんでした」
「いいよ……僕も判ったから」
 顔を覗きこむと、目があうことを避けるように、光希は照れ臭げに視線を伏せた。
「演技と知っていても、僕じゃない誰かを花嫁ロザインと呼んで、恭しく振る舞うジュリの姿を見るのは、辛かった」
「光希……」
 嫉妬してくれたと知り、歓びが芽生えた。見つめていると、光希は、はにかんだ笑みでジュリアスを見た。
「変わらずに今も、ジュリだけの僕だよ」
「光希!」
 この間の夜は聞けなかった告白に、ジュリアスは感激した。
「そろそろ、帰る?」
 照れ隠しに、ぱっと立ちあがろうとする光希を、思わず腕を引いて抱きしめた。
「どうか、もう少しこのまま」
 腕のなかの温もりに幸せを感じていると、光希はぽりぽりと頬を掻いた。
「……僕を好きでいてくれて、ありがとうね」
「それは、私の台詞です」
「想い続けるって、難しいと思うんだ。両想いになれることが奇跡だし、恋人になれても、気持ちが変わることもあるから……」
「そんなこと――」
「あるんだよ、普通は。でも、ジュリと一緒にいて、そういう不安は感じたことがない。すごいことだと思う」
「当たり前です。幾千の夜が過ぎても、変わらずに光希だけを愛しています」
 この想いが褪せる日など、永遠にこないだろう。初めて贈る言葉ではないのに。耳の先まで赤く染まる様子に、思わず笑みが零れた。
「……ジュリにフラれたら、僕は立ち直れないだろうな」
「ありえません」
「ジュリは僕にフラれたら、泣く?」
 泣くくらいで、済むはずがない。
 たとえ、光希の気持ちが離れたとしても、拒まれたとしても、光希を離せないだろう。今も、想像しただけで心臓を鉄の輪で締めつけられた。
「……考えさせないでください」
 人の気も知らないで、光希は悪戯が成功したような顔で、愉しげに笑った。

 翌日。
 ザインの人々の見送りを受けて、アッサラーム軍は荘厳な楼門をくぐり抜けた。
 砂漠の野営地も撤収完了し、隊伍たいごを整えたジュリアスが号令をかけようとするところへ、単騎でリャン・ゴダールが駆けてきた。
 用向きを訊ねようとする騎士を無視して、好き勝手に走っている。ジュリアスが嫌な予感を覚えたとき、リャンと目が遭った。
「何の用ですか?」
 ついにジュリアスの前に立った青年を睨むと、屈託のない笑みを浮かべた。
「お見送りにきました」
 そういいながら、彼の目はジュリアスの後ろに注がれている。光希は一兵卒に変装しているが、この男には顔を知られているので、意味はない。
「殿下、心から感謝しております。この気持ちは、とても言葉ではいい尽くせません……!」
 足元に跪くリャンを見て、光希はおずおずと進みでた。
「貴方が無事で良かった」
 小声で光希が囁くと、リャンの瞳がぱっと輝いた。
「必ず、治安は良くなります。どうか、その時にまたいらしてください」
「はい。話に聞いていた通り、風光明媚な街でした。いつかまた、ゆっくり見てみたいと思います」
 その言葉に、リャンは感極まったように言葉を詰まらせた。光希はリャンの額に手を伸ばした。
「光希――」
 ジュリアスは止めようとしたが遅かった。
「健やかな心の、救われし幸いな者よ。この先、百年、千年……シャイターンの守護が続きますように」
 短く言祝ことほぎ、祈りを捧げた。
 跪いた男は、潤んだ瞳で光希を仰いでいる。感動の余り、声もでないらしい。
 ――面白くない。全く腹立たしい。光希の不興を買ってまで、聖霊降臨日に身代わりを立てた苦労が水の泡だ。
「もういいでしょう。いきますよ」
 ジュリアスはうんざりしつつ、見つめあうふたりを引き離した。
 慌ただしく飛翔した後も、しばらく不満な気持ちは後を引いた。
「許してよ、精霊降臨日にいえなかった分、祝福したかったんだ」
「……」
 責める口調ではなかったが、承服しかねてジュリアスは口を閉ざした。
 しばらく、飛竜の背で沈黙が流れていたが、遠洋まで飛ぶ渡り鳥の群れに遭遇し、沈黙は破られた。
「わぁ――」
 心底感動したように、光希は目を輝かせて歓声をあげた。
「すごい。なんて数! アッサラームに向かって飛んでいる!」
 数千と群れ飛ぶ鳥の大移動は、雄大で美しい。てらいのない笑顔を見たら、燻っていたわだかまりは自然に解けた。
「大陸の果てまで飛んでいく鳥です。しばらく眺められますよ」
「アッサラームに帰れるんだね……」
 その声には、憧れの響きがあった。共に金色の聖都に帰れる幸せを、ジュリアスもようやく噛みしめた。