アッサラーム夜想曲
栄光の紋章 - 2 -
黄昏が翳るなか、覆面を外したジュリアスは、アッサラーム軍として正式にザインへ入った。
目くらましのため、光希に偽装した隊士を隊商宿 に送り届けた後、ナディアと共にジャムシード・グランディエ公の屋敷に向かった。
雲間からもれた最期の残照が、赤銅色の煉瓦を焔のように照り赫 かせている。
繁栄を続けてきた一門らしく、蒼古でありながら、手入れの行き届いた壮麗な屋敷で、重厚な玄関の左右に七弦琴 を意匠された紋章旗が飾られていた。
件
のジャムシード・グランディエ公は、柔和な笑みを浮かべてジュリアスらを迎えた。
「慌ただしいお出迎えとなってしまい、申し訳ありません」
「構いません。ゴダール公とドラクヴァ公はきていますか?」
ジャムシードの表情が翳った。
「ゴダール公はお見えになっておりますが、ドラクヴァ公からは欠席すると、先ほど知らせがありました」
「我々がくることを、ご存知ではないのですか?」
ナディアが訊ねると、ジャムシードは顔に罰の悪い表情を浮かべた。
「お伝えしたのですが、今朝の一件で気が昂っているご様子でして、ゴダール家の人間と同じ席につくのは嫌だと……」
歯切れの悪い口調でジャムシードが答えると、ナディアは呆れたような眼差しで応えた。
確かに子供じみているが、アッサラームの不興を買うことは判っているはずだ。その上で判断したのだとしたら豪胆ともいえる、ジュリアスは思った。
案内された応接間には、矍鑠 とした男が立っていた。
彼が、バフムート・ゴダール公爵だろう。年は八十を越えると聞いているが、鋭い眼光に衰えは感じられない。
「お会いできて光栄に存じます」
礼儀正しく頭を垂れるゴダール公に、ジュリアスは手をあげて応えた。
客人たちを見回して、ジャムシードはにこやかにいった。
「ささやかながら、祝宴の席をもうけさせていただきました。さぁ、おかけになってください」
絹のかけられた長卓に全員が腰を落ち着けると、すぐに湯気のたつ豪勢な食事が振る舞われた。傍に見目良い酌人 がやってきて、どうぞ、と勧めてくる。
「長の旅路でお疲れでしょう。遠慮はいりません。どうぞ、お寛ぎください」
主人が手を鳴らすと、心得たように弦琴 を抱えた楽士が入ってきた。紋章旗に意匠されていたものと同じ、七弦を張った古来から伝わる琴だ。
彼等が腕の立つ奏者であることは、すぐに証明された。高雅で優美な旋律が部屋を満たし、ナディアに至っては称賛の目で眺めている。
「丁重なもてなしに感謝いたしますが、今は時間が惜しい。詳しい状況を教えていただけますか?」
ジュリアスは早速本題に入った。
「お聞きください! ドラクヴァはゴダールの仕業とぬかしとりますが、駄法螺 です。我々は今回の件も、その前の公爵暗殺にも全く関わっていないのです」
待ち構えていたように口を開いたのは、ゴダール公だ。
「しかし、今朝の件、残された武器にゴダールの紋章が入っていたと聞いていますが?」
「濡れ衣です! ドラクヴァの自演に決まっとります。聖霊降臨儀式が迫り、難癖をつけて我がゴダール家を滅ぼしたいのでしょう」
バフムートは荒い語気で吐き捨てた。長舌鋒は止まらず、景気よく杯を空けながら、滔々 と話し続けた。
初見では寡黙 な人物に見えたが、よほど不満が溜まっていたと見える。
一方、宥めるように酒を勧めるジャムシードは、柔和な笑みを崩さず、言葉をあまり発しない。
「ジャムシード公爵。混乱があるようですが、予定通り、聖霊降臨儀式に臨めますか?」
問いかけると、男は柔和な笑みで頷いた。
「難しい状況ですが、大切な神事を延期するわけには参りません。年明け、必ず蓮花 の聖殿で行います」
迷う素振りは一切見せず、ジュリアスの目を見ていい切った。
「今朝の襲撃で、その儀式を司る神官も倒れたと聞いています。適任者は決まっているのですか?」
「再選をしております。ザインの威信にかえて、必ずや遂行してみせます」
「心意気は立派ですが、この状況では、日を改めた方が良いのではありませんか?」
予定通りに行えば、十年謳歌した領主の権威を、年明けに返上することになる。欠片も惜しくはないのだろうか?
ジュリアスはジャムシードの顔に目を注ぎ、その肚 の裡を読みとろうとしたが、顔にはなにもあらわれていなかった。
ジャムシードは思慮深い微笑を浮かべ、指を天に向けた。
「天井をご覧ください」
その言葉に、全員が顔をあげた。
広い天井には、今にも降ってきそうな星々と、精緻なシャイターンの絵画で飾られている。ジュリアスも部屋に入った時から、胸の裡で密かに賞賛していた。
「聖霊降臨日の様子を描かせたものです。まほろばの天界に憩う神が、源泉となる光を、地上に届けてくださる」
ナディアの唇から賛嘆のため息が漏れ、ゴダール公爵にも波及した。
「目を奪われてしまいます。本当に美しい絵画ですね」
高雅な趣味をもつナディアは、心からの賛辞を贈った。激昂をみせていたゴダール公爵も、感慨深げに黙りこみ、じっと天井を眺めている。
「ザインに眠る古い聖霊が地上に再生する、世俗からは想像もつかぬほど尊い日なのです。我々の都合で、妨げるようなことがあってはなりません」
穏やかだが確固たる口調には、確かな信仰心が窺えた。
「儀式の日まで、どうぞ安心してこの屋敷でお寛ぎください。野営の補給や、必要なものがあれば、ご遠慮なくお知らせください。全て用意いたしましょう」
「ありがたく」
歓待を受ける気はないが、補給の申しではありがたかった。
温厚なジャムシードの話術は巧みで、広汎 な知識を披露した。ジュリアスが穿 った質問を投げても、必ず即答してみせる。
十年間、ザインを導いた経綸 手腕は本物のようだ。
ただ、この評判通りの好漢を、なぜか額面通りに受け入れる気になれない。違和感というよりは、嫌悪を覚えるのだ。
原因が判らず思案していたが、会話の途中に閃いた。
なるほど、宮殿でしばしば顔をあわせる、貼りつけたような笑みの、あの男 に似ているのだ。
夜も更けて、暇 を告げるジュリアスを、ジャムシードは当然のように引き留めた。
会議があるからと断り文句を口にしたところで、奥の回廊から獣じみた呻き声が聞こえてきた。正体不明に思えたが、どうやら老人の声らしい。
駆け寄る召使の足音が幾つも続き、間もなく声は止んだ。
ふとジャムシードを見ると、濁った目で回廊の奥を見つめていた。柔和な表情も剥がれ落ちている。ジュリアスの視線に気がつくと、無表情を溶かして微笑を浮かべた。
「病の家人がおりまして……大変、失礼いたしました」
「いえ、お大事に」
「お気遣いありがとうございます。聖霊降臨日にお会いできることを、楽しみにしております」
穏やかな表情は元通りだが、光を失った瞳の印象は、ジュリアスのなかに強く残った。
目くらましのため、光希に偽装した隊士を
雲間からもれた最期の残照が、赤銅色の煉瓦を焔のように照り
繁栄を続けてきた一門らしく、蒼古でありながら、手入れの行き届いた壮麗な屋敷で、重厚な玄関の左右に
「慌ただしいお出迎えとなってしまい、申し訳ありません」
「構いません。ゴダール公とドラクヴァ公はきていますか?」
ジャムシードの表情が翳った。
「ゴダール公はお見えになっておりますが、ドラクヴァ公からは欠席すると、先ほど知らせがありました」
「我々がくることを、ご存知ではないのですか?」
ナディアが訊ねると、ジャムシードは顔に罰の悪い表情を浮かべた。
「お伝えしたのですが、今朝の一件で気が昂っているご様子でして、ゴダール家の人間と同じ席につくのは嫌だと……」
歯切れの悪い口調でジャムシードが答えると、ナディアは呆れたような眼差しで応えた。
確かに子供じみているが、アッサラームの不興を買うことは判っているはずだ。その上で判断したのだとしたら豪胆ともいえる、ジュリアスは思った。
案内された応接間には、
彼が、バフムート・ゴダール公爵だろう。年は八十を越えると聞いているが、鋭い眼光に衰えは感じられない。
「お会いできて光栄に存じます」
礼儀正しく頭を垂れるゴダール公に、ジュリアスは手をあげて応えた。
客人たちを見回して、ジャムシードはにこやかにいった。
「ささやかながら、祝宴の席をもうけさせていただきました。さぁ、おかけになってください」
絹のかけられた長卓に全員が腰を落ち着けると、すぐに湯気のたつ豪勢な食事が振る舞われた。傍に見目良い
「長の旅路でお疲れでしょう。遠慮はいりません。どうぞ、お寛ぎください」
主人が手を鳴らすと、心得たように
彼等が腕の立つ奏者であることは、すぐに証明された。高雅で優美な旋律が部屋を満たし、ナディアに至っては称賛の目で眺めている。
「丁重なもてなしに感謝いたしますが、今は時間が惜しい。詳しい状況を教えていただけますか?」
ジュリアスは早速本題に入った。
「お聞きください! ドラクヴァはゴダールの仕業とぬかしとりますが、
待ち構えていたように口を開いたのは、ゴダール公だ。
「しかし、今朝の件、残された武器にゴダールの紋章が入っていたと聞いていますが?」
「濡れ衣です! ドラクヴァの自演に決まっとります。聖霊降臨儀式が迫り、難癖をつけて我がゴダール家を滅ぼしたいのでしょう」
バフムートは荒い語気で吐き捨てた。長舌鋒は止まらず、景気よく杯を空けながら、
初見では
一方、宥めるように酒を勧めるジャムシードは、柔和な笑みを崩さず、言葉をあまり発しない。
「ジャムシード公爵。混乱があるようですが、予定通り、聖霊降臨儀式に臨めますか?」
問いかけると、男は柔和な笑みで頷いた。
「難しい状況ですが、大切な神事を延期するわけには参りません。年明け、必ず
迷う素振りは一切見せず、ジュリアスの目を見ていい切った。
「今朝の襲撃で、その儀式を司る神官も倒れたと聞いています。適任者は決まっているのですか?」
「再選をしております。ザインの威信にかえて、必ずや遂行してみせます」
「心意気は立派ですが、この状況では、日を改めた方が良いのではありませんか?」
予定通りに行えば、十年謳歌した領主の権威を、年明けに返上することになる。欠片も惜しくはないのだろうか?
ジュリアスはジャムシードの顔に目を注ぎ、その
ジャムシードは思慮深い微笑を浮かべ、指を天に向けた。
「天井をご覧ください」
その言葉に、全員が顔をあげた。
広い天井には、今にも降ってきそうな星々と、精緻なシャイターンの絵画で飾られている。ジュリアスも部屋に入った時から、胸の裡で密かに賞賛していた。
「聖霊降臨日の様子を描かせたものです。まほろばの天界に憩う神が、源泉となる光を、地上に届けてくださる」
ナディアの唇から賛嘆のため息が漏れ、ゴダール公爵にも波及した。
「目を奪われてしまいます。本当に美しい絵画ですね」
高雅な趣味をもつナディアは、心からの賛辞を贈った。激昂をみせていたゴダール公爵も、感慨深げに黙りこみ、じっと天井を眺めている。
「ザインに眠る古い聖霊が地上に再生する、世俗からは想像もつかぬほど尊い日なのです。我々の都合で、妨げるようなことがあってはなりません」
穏やかだが確固たる口調には、確かな信仰心が窺えた。
「儀式の日まで、どうぞ安心してこの屋敷でお寛ぎください。野営の補給や、必要なものがあれば、ご遠慮なくお知らせください。全て用意いたしましょう」
「ありがたく」
歓待を受ける気はないが、補給の申しではありがたかった。
温厚なジャムシードの話術は巧みで、
十年間、ザインを導いた
ただ、この評判通りの好漢を、なぜか額面通りに受け入れる気になれない。違和感というよりは、嫌悪を覚えるのだ。
原因が判らず思案していたが、会話の途中に閃いた。
なるほど、宮殿でしばしば顔をあわせる、貼りつけたような笑みの、
夜も更けて、
会議があるからと断り文句を口にしたところで、奥の回廊から獣じみた呻き声が聞こえてきた。正体不明に思えたが、どうやら老人の声らしい。
駆け寄る召使の足音が幾つも続き、間もなく声は止んだ。
ふとジャムシードを見ると、濁った目で回廊の奥を見つめていた。柔和な表情も剥がれ落ちている。ジュリアスの視線に気がつくと、無表情を溶かして微笑を浮かべた。
「病の家人がおりまして……大変、失礼いたしました」
「いえ、お大事に」
「お気遣いありがとうございます。聖霊降臨日にお会いできることを、楽しみにしております」
穏やかな表情は元通りだが、光を失った瞳の印象は、ジュリアスのなかに強く残った。