アッサラーム夜想曲
名もなき革命 - 1 -
期号アム・ダムール四三八年二月一日。
エステルは、聖歌隊に入るために、五歳で親元を離れ大神殿に預けられた。
最初は心細い思いもたくさんしたし、色々と苦労が耐えなかったが、次第に神殿暮らしに馴染んでいった。
そうして四年が過ぎた頃、声の才を見出された戦災孤児のカーリーが、聖歌隊にやってきた。三つ年下の小さな子で、大きな瞳には不安がいっぱい。守ってあげなくては……そう思わせる子供だった。
それからは、いつでも一緒にいた。
黎明に歌う時も、昼に掃除をする時も、夜に食事をする時も、晩祷を捧げる深夜にも……
厳しい戒律に挫けそうな夜は、躰を寄せあい、同じ寝台で眠りについた。
共に学び、成長してゆく――
同じ時間を共有しながら、カーリーの一歩前を進むことが、あの頃、エステルの誇りであった。
後ろを振り向いては、追い駆けてくる一途なカーリーの姿を見るのが好きだった。幼い彼の目に、自分の姿が英雄のように映ることが嬉しかったのだ。
けれど――
玻璃のような声だと、誉めそやされる己以上に、カーリーは天才であった。才能を花開かせ、聖歌隊の次代を担う歌手として、誰からも注目を浴び始める。
絶対不変と思っていた二人の関係は、綻んだ。
成人が近づくと共に、聖歌隊の引退も近づき、エステルは次第に卑屈になった。
昔は、後ろを振り向いてまで確かめていたのに、いつの間にか、追い駆けてくるカーリーを疎ましいと思うようになってしまった。
離れた所でしょぼくれて、哀しそうにエステルを見るカーリーを見る度に、このままではいけない、優しくしてあげなくては――何度も自分にいい聞かせた。
けれども、傲慢で幼い虚栄心が邪魔をする。
エステルが聖歌隊の制服を脱ぐ時、カーリーはまだ十歳。彼は、これから聖歌隊の歌手として、全盛期を迎えるのだ。
妬ましかった。
中庭で一人で泣く姿を見ても、思い遣るより、同情を買いたいのかと、苛立ちが勝ってしまう。そんな醜い心を知る度に、胸は潰れそうなほど軋んだ。
あんなに大好きだった少年を、一方的に、嫌いになってしまった。
こんなに貧しい心の自分には、天罰が下るに違いない。
祈りを捧げながら、雷に打たれやしないかと怯えていた。
出口の見えない迷路で途方に暮れていたある日、転機が訪れた。初めて観戦を許された、花嫁 が貴妃席に立つ暮れの合同模擬演習である。
優雅で力強い剣の閃きに、エステルの目は釘づけになった。
今でも忘れない。
優勝したユニヴァース・サリヴァン・エルムは、最終演目で偉大な砂漠の英雄、ジュリアス・ムーン・シャイターンに挑んだのだ。
青い閃き。戛然 と響く、目にも止まらぬ鋼の応酬。触れあう刃は、苛烈な火花を散らした。
シャイターンの振るう圧倒的な神力を目の当たりにして、エステルは感動に打ち震えた。
だが、何よりもエステルの胸を打ったのは、強大な相手を前に、恐れず、何度でも立ち向かう、ユニヴァースの雄姿だった。
決着がついて、大歓声に包まれた途端、倒れてしまうんじゃないかしらと思うほど、エステルの心臓は激しく鳴っていた。
天上人である花嫁 は、抱えるほどの花束を英雄に贈る。感動的で、胸がいっぱいで、清々しい歓喜が、爪先から頭のてっぺんまで駆け抜けていった。
もう一人の英雄――仰向けに倒れて動かないユニヴァースをじっと見つめていると、彼はちゃんと立ちあがり、シャイターンに頭をさげた。
その姿を見た瞬間、心に大旋風が吹き荒れた。我が身に、革命が起きたのである。
彼の清廉さに比べて、自分はどうだ。
彼の振り絞った勇気に比べて、自分はどうだ。
傷ついてなお、彼は勝者に頭をさげた。自分はどうなのだ。
涙が溢れた。
身の裡 に掬 っていた、黒くて醜い感情は、涙と一緒に流れていった。
肩を支えられて会場をおりてゆく、遠ざかる彼の背中を、滲む視界を何度も擦りながら、最後まで見守った。
その時、澄明 な空に誓った。
立ち止まるのを止めよう。
幼い日々に卒業しよう。
彼の背中を目標に励み、いつの日か、彼のように闘技場に立ちたい。
その日を境に、固執していた聖歌隊への未練は、すっぱりと消えた。心は澄み渡り、歌声からも迷いが消えた。
避けていたカーリーに、今更どう声をかけようか……迷っているうちに、典礼儀式で、花嫁 の前で歌う栄誉を与えられた。
誇らしく、胸を高鳴らせたものだ。
名声を欲する時には、なにごとも上手くいかなかったが、苦悩から解放されてからは、進む道が明らかになり、幸せだと感じることが増えた。
迷うことなく、成人と共にアッサラーム軍へ入隊した。
報告の機会を窺っていると、花嫁 に慰められ、中庭で涙するカーリーの姿を見つけた。
緊張しながら声をかけると、カーリーは目を丸くしてエステルを仰いだ。素直なカーリーの目には、エステルへの変わらぬ愛が浮かんでいた。
「ずっと、冷たくして、ごめんね」
罰の悪い思いで謝罪すると、カーリーは顔をくしゃくしゃにして、涙を散らしながら首を左右に振った。
「殿下と、何をお話ししていたの?」
何気ない口調で尋ねたが、カーリーは怯んだ。声をかけられた嬉しさと、エステルの機嫌を損ねるのではという恐怖が、同居している顔であった。
屈託のない笑みを浮かべていた子が、こんなにも悲壮な顔をするようになってしまった。
そうさせたのは、エステルだ。カーリーにとってエステルは、恐らくまだ世界の全てなのだ。
「ごめんね。大好きだよ!」
抱き寄せると、カーリーは肩を戦慄 かせて、強い力でしがみついてきた。
「……っ、ぼ、僕も、エステルが、だいすき……っ!!」
絞りだすような声でいったあと、カーリーは大声で泣いた。あれほど大泣きするカーリーを見たのは、後にも先にも、あの時だけだ。
仲直りをした数日後、神殿の主身廊をエステルはカーリーと手を繋いで歩いていた。
外へでようと扉を開くと、いと高貴な黒髪の青年と鉢あわせた。
僥倖 に胸を高鳴らせ、間もなくアッサラーム軍に入隊することを少々誇らしく思いながら報告すると、
「……そっか。なら、もうすぐ仲間になるんだね。よろしくね」
彼はどこか寂しげな表情で、微笑した。
幽 かな違和感を覚えても、黒い双眸に映る誇らしさと、喜びの方が強かった。
あの当時、ベルシアとの和議に彼が苦悩していたことを知らないエステルは、仲間と呼びかけられたことが純粋に嬉しかったのだ。
四年後。エステルは花嫁 の武装親衛隊に抜擢される。
エステルは、聖歌隊に入るために、五歳で親元を離れ大神殿に預けられた。
最初は心細い思いもたくさんしたし、色々と苦労が耐えなかったが、次第に神殿暮らしに馴染んでいった。
そうして四年が過ぎた頃、声の才を見出された戦災孤児のカーリーが、聖歌隊にやってきた。三つ年下の小さな子で、大きな瞳には不安がいっぱい。守ってあげなくては……そう思わせる子供だった。
それからは、いつでも一緒にいた。
黎明に歌う時も、昼に掃除をする時も、夜に食事をする時も、晩祷を捧げる深夜にも……
厳しい戒律に挫けそうな夜は、躰を寄せあい、同じ寝台で眠りについた。
共に学び、成長してゆく――
同じ時間を共有しながら、カーリーの一歩前を進むことが、あの頃、エステルの誇りであった。
後ろを振り向いては、追い駆けてくる一途なカーリーの姿を見るのが好きだった。幼い彼の目に、自分の姿が英雄のように映ることが嬉しかったのだ。
けれど――
玻璃のような声だと、誉めそやされる己以上に、カーリーは天才であった。才能を花開かせ、聖歌隊の次代を担う歌手として、誰からも注目を浴び始める。
絶対不変と思っていた二人の関係は、綻んだ。
成人が近づくと共に、聖歌隊の引退も近づき、エステルは次第に卑屈になった。
昔は、後ろを振り向いてまで確かめていたのに、いつの間にか、追い駆けてくるカーリーを疎ましいと思うようになってしまった。
離れた所でしょぼくれて、哀しそうにエステルを見るカーリーを見る度に、このままではいけない、優しくしてあげなくては――何度も自分にいい聞かせた。
けれども、傲慢で幼い虚栄心が邪魔をする。
エステルが聖歌隊の制服を脱ぐ時、カーリーはまだ十歳。彼は、これから聖歌隊の歌手として、全盛期を迎えるのだ。
妬ましかった。
中庭で一人で泣く姿を見ても、思い遣るより、同情を買いたいのかと、苛立ちが勝ってしまう。そんな醜い心を知る度に、胸は潰れそうなほど軋んだ。
あんなに大好きだった少年を、一方的に、嫌いになってしまった。
こんなに貧しい心の自分には、天罰が下るに違いない。
祈りを捧げながら、雷に打たれやしないかと怯えていた。
出口の見えない迷路で途方に暮れていたある日、転機が訪れた。初めて観戦を許された、
優雅で力強い剣の閃きに、エステルの目は釘づけになった。
今でも忘れない。
優勝したユニヴァース・サリヴァン・エルムは、最終演目で偉大な砂漠の英雄、ジュリアス・ムーン・シャイターンに挑んだのだ。
青い閃き。
シャイターンの振るう圧倒的な神力を目の当たりにして、エステルは感動に打ち震えた。
だが、何よりもエステルの胸を打ったのは、強大な相手を前に、恐れず、何度でも立ち向かう、ユニヴァースの雄姿だった。
決着がついて、大歓声に包まれた途端、倒れてしまうんじゃないかしらと思うほど、エステルの心臓は激しく鳴っていた。
天上人である
もう一人の英雄――仰向けに倒れて動かないユニヴァースをじっと見つめていると、彼はちゃんと立ちあがり、シャイターンに頭をさげた。
その姿を見た瞬間、心に大旋風が吹き荒れた。我が身に、革命が起きたのである。
彼の清廉さに比べて、自分はどうだ。
彼の振り絞った勇気に比べて、自分はどうだ。
傷ついてなお、彼は勝者に頭をさげた。自分はどうなのだ。
涙が溢れた。
身の
肩を支えられて会場をおりてゆく、遠ざかる彼の背中を、滲む視界を何度も擦りながら、最後まで見守った。
その時、
立ち止まるのを止めよう。
幼い日々に卒業しよう。
彼の背中を目標に励み、いつの日か、彼のように闘技場に立ちたい。
その日を境に、固執していた聖歌隊への未練は、すっぱりと消えた。心は澄み渡り、歌声からも迷いが消えた。
避けていたカーリーに、今更どう声をかけようか……迷っているうちに、典礼儀式で、
誇らしく、胸を高鳴らせたものだ。
名声を欲する時には、なにごとも上手くいかなかったが、苦悩から解放されてからは、進む道が明らかになり、幸せだと感じることが増えた。
迷うことなく、成人と共にアッサラーム軍へ入隊した。
報告の機会を窺っていると、
緊張しながら声をかけると、カーリーは目を丸くしてエステルを仰いだ。素直なカーリーの目には、エステルへの変わらぬ愛が浮かんでいた。
「ずっと、冷たくして、ごめんね」
罰の悪い思いで謝罪すると、カーリーは顔をくしゃくしゃにして、涙を散らしながら首を左右に振った。
「殿下と、何をお話ししていたの?」
何気ない口調で尋ねたが、カーリーは怯んだ。声をかけられた嬉しさと、エステルの機嫌を損ねるのではという恐怖が、同居している顔であった。
屈託のない笑みを浮かべていた子が、こんなにも悲壮な顔をするようになってしまった。
そうさせたのは、エステルだ。カーリーにとってエステルは、恐らくまだ世界の全てなのだ。
「ごめんね。大好きだよ!」
抱き寄せると、カーリーは肩を
「……っ、ぼ、僕も、エステルが、だいすき……っ!!」
絞りだすような声でいったあと、カーリーは大声で泣いた。あれほど大泣きするカーリーを見たのは、後にも先にも、あの時だけだ。
仲直りをした数日後、神殿の主身廊をエステルはカーリーと手を繋いで歩いていた。
外へでようと扉を開くと、いと高貴な黒髪の青年と鉢あわせた。
「……そっか。なら、もうすぐ仲間になるんだね。よろしくね」
彼はどこか寂しげな表情で、微笑した。
あの当時、ベルシアとの和議に彼が苦悩していたことを知らないエステルは、仲間と呼びかけられたことが純粋に嬉しかったのだ。
四年後。エステルは