アッサラーム夜想曲

名もなき革命 - 2 -

 十二歳の終わりに、合同模擬演習でユニヴァースの勇姿を見てから四年。
 軍隊に入り、必死に彼を追いかけて、ついにエステルは精鋭揃いの第一騎馬隊へ配属された。
 暮れの合同模擬演習の出場隊士として、第一騎馬隊からはエステルの名が候補にあげられたが、迷った末に辞退した。それよりも、シャイターンや花嫁ロザインと共に、ザインに従軍することを選んだのである。
 幸運にも、ザインに向けて編成される武装親衛隊に選ばれた。かつてユニヴァースも務めた栄えある任務に、エステルが二つ返事で了承したことはいうまでもない。
 ザインへ発つ二日前、護衛対象である花嫁ロザインに呼ばれた。武装親衛隊のなかでも、最後衛だろうと思いこんでいたエステルであったが――
「アージュは、僕の護衛隊長なんだ。判らないことは、彼に聞いて」
「は、はい!」
 なんと、筆頭護衛騎士であるローゼンアージュに引きあわせられた。恐れ多くも、彼と同じ側近の一人に選ばれたのだ。
「アージュも、いろいろ教えてあげてね」
「はい」
 表情の剥落はくらくした人形めいた青年は、淡々と頷いた。
 この繊細美妙びみょうなる麗人は、外見にそぐわぬ凄まじい剣技の持ち主で、シャイターンの覚えも明るく、公宮の首級たる花嫁ロザインを迎えた時から武装親衛隊を務めている。
 そうして、あるじの絶対的な信頼を勝ち得て、彼の右腕にのしあがったのだ。
 見目麗しい容姿も彼を助けたろうが、戦争孤児という出自に関係なく活躍の場を与えられたのは、実力重視のアッサラーム軍の気質といえる。
 長く上等兵に留まった謎の人でもあったが、今では、武装親衛隊長ならびに、ユニヴァースと同じ少尉の階級に就く青年士官である。
「よろしくお願いいたします」
 丁重に敬礼するエステルを、ローゼンアージュは無言で見つめてきた。およそ温度の感じられない眼差しに、顔が強張りそうになる。
 気圧されてどうする――心胆しんたんを強く、意地をこめて見つめ返した。根比べというわけではないが、ふいと彼の方から視線をはずした。
 ザインへの御幸みゆきは、新たな世界へふみだしていく不安と昂ぶりがあった。
 いと高貴な黒髪の青年は、相変わらず気さくな人柄で、奢侈しゃしにもこだわらず、行軍の不便にも不満一つ零さなかった。
 彼の朗らかさに感謝しつつ、気を引き締めて護衛任務につくのだが、天幕をはる時などは頻繁に声をかけられた。
「二人共、休憩にしない?」
 と、暇潰しを見つけたような顔で、エステルとローゼンアージュを誘ってくる。
「いえ、私は……」
 辞退しようとするエステルの横で、ローゼンアージュは、何の躊躇いもなく天幕のなかへ入っていった。
「お菓子あるよ。エステルもおいでよ」
「は、はい」
 二度も誘われて断るのもいかがなものかと思い、エステルは緊張しながら天幕のなかへ入った。
 蜂蜜と紅茶の、なんとも良い香りがした。
 傍仕えのナフィーサが給仕する横で、筆頭護衛騎士は旨そうに、乳酪バターと蜂蜜を塗った麺麭パンを頬張っている。もう片方の手にオリーブを摘まんで……
 あらゆる面で、エステルは彼を尊敬しているが、恐らく彼の方はエステルなど空気も同然に思っているだろう。
 並んで護衛についていても、彼から連携や分担、注意点といった話は、一度もされなかった。
 ――というより、会話がない。
 それはエステルに対してだけではなく、彼は基本的に、誰に対しても殆ど口を利かない。会話する相手といえば、己が仕える主人くらいなものだ。
 もう少し打ち解けられたらと思うが、エステルも社交が得意な性質ではないので、難しいかもしれない。
 なにはともあれザインまでの行軍は順風満帆だったが、到着すると状況は一変した。
 到着したその日に、三大公爵家の一つ、ドラクヴァ家が襲撃を受けたのだ。この事態を重く捉えた総大将は、花嫁ロザインの影武者を連れてザインに入ることを決めた。
 ふたりの別れの様子を、エステルは目の前で見ていた。表情にこそださなかったが、内心では驚嘆の声をあげていた。
 伴侶である総大将の身を案じたあるじが、思わずといった風に袖を掴んで引き留めれば、総大将は、普段の彼からは想像もつかぬほど優しく愛おしそうな眼差しで見つめ返した。
 なんと一途に見つめるのだろう。
 万軍を率いて敢然かんぜんと立ち向かってゆく英雄が、白い手を剥がせずにいる。時間がないと知っていても、引きとめる伴侶を無下にできないのだ。
(衝撃だ……)
 これだけエステルが注視していても、一途な視線は花嫁だけに注がれている。
「どうか気をつけて」
「光希も……」
 総大将は、名残惜しげに離れていく手を取り、恭しく指先にくちづけた。一枚の絵のような美しさがあり、知らずエステルは見入っていた。
 と、鋭い眼差しが突然こちらを見た。
 甘さの欠片もない視線は、雄弁だ。何があってもあるじを護れ――そう命じている。
 凍てつくような覇気に思わず仰け反りかけたが、隣に立つ親衛隊長は、心得たように一揖いちゆうした。エステルも慌てて最敬礼で応える。
 一角馬に騎乗した総大将――シャイターンは、雄々しくも美しかった。
 貴公子のような佇まいからは想像もつかないが、彼こそはアッサラームの誇る驍勇ぎょうゆうの獅子だ。闘えば負けなし、連戦連勝の光彩陸離こうさいりくりたる軍事天才である。
 彼は最後に野営を一瞥すると、はっと鋭いかけ声を発して手綱を引いた。麾下きかを率いて、砂を散らしながら駆けていく。
「……殿下、天幕のなかへ」
 いつまでも見送るあるじの背中に親衛隊長が声をかけると、彼は小さく頷いて、静かに天幕に戻った。