アッサラーム夜想曲
神の系譜 - 3 -
穏やかな陽の光で光希は目を醒ました。
覚醒すると同時に、気分は沈んだ。何一つ解決していない現状が、重たく圧しかかってくる。
荒んでいた心は静まったものの、憂鬱が晴れたわけではない。昨夜のいい争いを繰り返すのかと思うと、朝から気が滅入ってしまう。ジュリアスのいう通り、時間を空けたところで、苦しみを長引かせただけなのかもしれない……
宙にただよう塵埃 を漠と眺めながら、のろのろと着替えを済ませた。
処刑場に向かう心地で階段をおりていくと、紅茶を運ぶナフィーサと鉢あわせた。
「お早うございます、殿下」
「お早う……」
穏やかな笑みに、光希の張り詰めた心は幾らか和らいだ。
十六歳を迎えたナフィーサは、声変りを経て男らしくなった。
出会った頃は、光希の胸までしかなかった背丈も、今では見おろされるほどだ。天使のようにあどけなかった容貌も大人びて、清廉とした美貌へと変わった。
腰まで届くまっすぐな髪を、後ろで高く結いあげてきりりと。白を基調とした聖衣に、光希が自ら手掛けた素馨 を意匠されたサーベルを佩 く姿は凛々しく、気品をそなえた騎士そのものだ。
「沈んだお顔をなさらないでください。シャイターンが一日千秋の想いでお待ちですよ」
「はぁ……」
光希が物憂げに深い溜息をつくと、ナフィーサは微苦笑を浮かべた。
茶器を運ぶ彼に並んで、光希も仕方なく重たい足を動かした。
陽の射す居間は、冷たい緊張感を帯びた静けさに包まれていた。
窓辺で寛ぐジュリアスを認めた途端に、胃は鉛を流しこんだように重たくなる。護衛に立つルスタムが恭しく一揖 してくれるが、挨拶を返す心の余裕はなかった。
「う――……気まずい。会いたくないなぁ」
「殿下……」
気遣わしげに足を止めるナフィーサの腕を軽く叩き、光希は気合いと共に部屋に足を踏み入れた。
悠然と絨緞で寛ぐジュリアスが、光希を捉えた。落ち着いた青い瞳でまっすぐに光希を見つめる。
「お早う、光希」
「お早う」
不自然に映らぬよう気をつけながら、ジュリアスの傍に腰を落ち着けた。傍でナフィーサが、慣れた手つきで給仕を始める。
「ご機嫌いかがですか?」
皮肉な挨拶に、頬が引きつりかけた。気分は溌剌とはほど遠いが、昨夜約した通りに、どうにか笑顔を拵 えてみせる。
光希を見るジュリアスの瞳がきらりと光った。
唐突に腕を引かれ、傍にナフィーサがいるというのに、唇を奪われた。
「んんっ!」
咄嗟に拒めず、緩んだ唇の合間から、容赦なく舌を挿し入れられた。顔を背けようとしても、頭部を固定されて動けない。音が立つほど、激しく舌を吸われる。
執拗なキスからは、苛立ちしか伝わってこない。光希は渾身の力を振り絞って、ジュリアスを突き飛ばした。
「嫌だ!」
本気で怒鳴ると、ジュリアスは眉をひそめたものの、光希を離した。
さっと周囲に視線を走らせると、ナフィーサを始め、給仕の召使いたちは既に姿を消していた。文句をいってやろうと、抗議の視線を再びジュリアスに戻すと、彼もまた強い視線で光希を射抜いた。
「一夜で何が変わったというのです」
「人前ではやめてと、いつもいってる!」
荒い語気でやり返すと、ジュリアスは厭わしげに眉をひそめた。
「私を遠ざけ、機嫌を直してくださらない」
「ジュリが怒らせるからだよ」
「“会いたくない”など、貴方の口から聞きたくない!」
吐き捨てるような口調に、光希は息を呑んだ。さっきの何気ない言葉を、彼は耳にしていたのだろうか。
「……すみません、声を荒げて」
「さっき……」
声が震えてしまう。
「私は、遠ざけられている間も、光希のことしか考えられませんでした」
「ごめん。気まずくて、つい……」
罰の悪い思いで、光希は視線を伏せた。あれは聞かせるつもりはなかった、言葉の切れ端だ。
狼狽える光希を見つめて、ジュリアスも伏目がちに吐息を零した。
「仲直りをしてください。心がすれ違っていては、たったの一晩でも拷問でした」
光希は当惑した表情を浮かべながらも、頷いた。
「僕もだよ……でも、典礼儀式もあるし……話は帰ってからにしない?」
「いいえ。どうせ気になって、何も手につきやしませんよ」
憮然とした表情でジュリアス。
ふぅっと息を吸い、光希は苛立ちを抑えこもうとした。
彼の真っ直ぐな想いは、もちろん嬉しいのだが……融通が利かないったら。はぐらかすとか、とりあえずとか、後回しといった言動は、ジュリアスに限っては通用しない。
「ため息をつかないでください」
どこか拗ねたような口調で請われ、光希はあわやつきかけた重いため息を、どうにか堪えた。
覚醒すると同時に、気分は沈んだ。何一つ解決していない現状が、重たく圧しかかってくる。
荒んでいた心は静まったものの、憂鬱が晴れたわけではない。昨夜のいい争いを繰り返すのかと思うと、朝から気が滅入ってしまう。ジュリアスのいう通り、時間を空けたところで、苦しみを長引かせただけなのかもしれない……
宙にただよう
処刑場に向かう心地で階段をおりていくと、紅茶を運ぶナフィーサと鉢あわせた。
「お早うございます、殿下」
「お早う……」
穏やかな笑みに、光希の張り詰めた心は幾らか和らいだ。
十六歳を迎えたナフィーサは、声変りを経て男らしくなった。
出会った頃は、光希の胸までしかなかった背丈も、今では見おろされるほどだ。天使のようにあどけなかった容貌も大人びて、清廉とした美貌へと変わった。
腰まで届くまっすぐな髪を、後ろで高く結いあげてきりりと。白を基調とした聖衣に、光希が自ら手掛けた
「沈んだお顔をなさらないでください。シャイターンが一日千秋の想いでお待ちですよ」
「はぁ……」
光希が物憂げに深い溜息をつくと、ナフィーサは微苦笑を浮かべた。
茶器を運ぶ彼に並んで、光希も仕方なく重たい足を動かした。
陽の射す居間は、冷たい緊張感を帯びた静けさに包まれていた。
窓辺で寛ぐジュリアスを認めた途端に、胃は鉛を流しこんだように重たくなる。護衛に立つルスタムが恭しく
「う――……気まずい。会いたくないなぁ」
「殿下……」
気遣わしげに足を止めるナフィーサの腕を軽く叩き、光希は気合いと共に部屋に足を踏み入れた。
悠然と絨緞で寛ぐジュリアスが、光希を捉えた。落ち着いた青い瞳でまっすぐに光希を見つめる。
「お早う、光希」
「お早う」
不自然に映らぬよう気をつけながら、ジュリアスの傍に腰を落ち着けた。傍でナフィーサが、慣れた手つきで給仕を始める。
「ご機嫌いかがですか?」
皮肉な挨拶に、頬が引きつりかけた。気分は溌剌とはほど遠いが、昨夜約した通りに、どうにか笑顔を
光希を見るジュリアスの瞳がきらりと光った。
唐突に腕を引かれ、傍にナフィーサがいるというのに、唇を奪われた。
「んんっ!」
咄嗟に拒めず、緩んだ唇の合間から、容赦なく舌を挿し入れられた。顔を背けようとしても、頭部を固定されて動けない。音が立つほど、激しく舌を吸われる。
執拗なキスからは、苛立ちしか伝わってこない。光希は渾身の力を振り絞って、ジュリアスを突き飛ばした。
「嫌だ!」
本気で怒鳴ると、ジュリアスは眉をひそめたものの、光希を離した。
さっと周囲に視線を走らせると、ナフィーサを始め、給仕の召使いたちは既に姿を消していた。文句をいってやろうと、抗議の視線を再びジュリアスに戻すと、彼もまた強い視線で光希を射抜いた。
「一夜で何が変わったというのです」
「人前ではやめてと、いつもいってる!」
荒い語気でやり返すと、ジュリアスは厭わしげに眉をひそめた。
「私を遠ざけ、機嫌を直してくださらない」
「ジュリが怒らせるからだよ」
「“会いたくない”など、貴方の口から聞きたくない!」
吐き捨てるような口調に、光希は息を呑んだ。さっきの何気ない言葉を、彼は耳にしていたのだろうか。
「……すみません、声を荒げて」
「さっき……」
声が震えてしまう。
「私は、遠ざけられている間も、光希のことしか考えられませんでした」
「ごめん。気まずくて、つい……」
罰の悪い思いで、光希は視線を伏せた。あれは聞かせるつもりはなかった、言葉の切れ端だ。
狼狽える光希を見つめて、ジュリアスも伏目がちに吐息を零した。
「仲直りをしてください。心がすれ違っていては、たったの一晩でも拷問でした」
光希は当惑した表情を浮かべながらも、頷いた。
「僕もだよ……でも、典礼儀式もあるし……話は帰ってからにしない?」
「いいえ。どうせ気になって、何も手につきやしませんよ」
憮然とした表情でジュリアス。
ふぅっと息を吸い、光希は苛立ちを抑えこもうとした。
彼の真っ直ぐな想いは、もちろん嬉しいのだが……融通が利かないったら。はぐらかすとか、とりあえずとか、後回しといった言動は、ジュリアスに限っては通用しない。
「ため息をつかないでください」
どこか拗ねたような口調で請われ、光希はあわやつきかけた重いため息を、どうにか堪えた。