アッサラーム夜想曲

神の系譜 - 1 -

 瑞々しい今日一番の陽の光が、聖都アッサラームに射しめる。
 幾星霜を経た綱をしっかと握りしめ、今朝も、老僧がカリヨンを打ち鳴らす。清らかに澄み渡る暁の空に、澄んだ鐘の音色を響かせるのだ。
 典礼儀式に参列している光希は、内陣に座り目を閉じていた。静かに黙祷を捧げるうちに、今朝も瞼の奥処おくかに、不思議な光景が閃いた。
 南西に栄えるいにしえの大都――ザイン。
 抗争に脅かされる街。
 木蔦のからまる、煉瓦の建物。
 有刺鉄線の向こう、すすけた壁の傍には、うち捨てられた木工の作業台。縮れた織糸、褪せた絨緞。頭布を巻いた咎人たちが、はたを織っている……
 死の匂い立つ昏い建物。
 その奥深く、血のこびりついた部屋に、倒れ伏す男がいる。
 恐ろしくて、目を背けようとすると、シャイターンはしきりに“見ろ”と囁く。
 顔はよく見えない。薄暗い部屋のなか、彼の額の辺りだけが、青白く輝いて見える。まるで“宝石持ち”を暗示するように。
 彼は瀕死で、とても弱っている。衰えた四肢は鎖に繋がれ、自力で抜けだせそうにない。昏くて汚穢おわい満ちた場所に、酷い状態で閉じこめられている。
 味方はいないのか。
 いや、助けようとする者がいる。
 砂漠に立つ、覆面をつけた男。顔を覆う厚布の隙間から、灰青色の瞳が覗く。左目の下に、ほくろが一つ。
 やがて砂漠は消え――
 豪華絢爛なお屋敷、神聖な礼拝堂が視えた。
 明かり窓から射しこむ陽に照らされ、敬虔なる人々が祈りを捧げている。祭壇の傍に、杯と葡萄を意匠されたドラクヴァ家の紋章旗が飾られている。
 神聖な祈りの場に、音もなく忍び寄る影。兇手の持つ短剣には、月桂樹の紋章――ゴダール家の紋章が意匠されている。
(――殺されてしまう!)
 逃げろといいたくとも、幻影相手には届かない。結末を見届ける前に、視界が霞んでいく。
 いつもこうだ。彼等が無事に逃げおおせるのかどうか、予見では判らない。現実に起きることなのかどうかも。
「……光希?」
 訝しげなジュリアスの声に、意識は現実へ呼び戻された。
 聖水を配る幼い神官が、不安そうな顔で光希の前に立っていた。
「あ、ごめんね」
 慌てて杯を受け取ると、少年はほっとしたように頬を緩めた。恭しく辞儀を返して、次なる信徒に杯を授ける。
「行きましょうか」
 差し伸べられた手を見て、光希は重ねることを躊躇した。中途はんぱに持ちあげた手を、ジュリアスの方から握りしめた。
 思わずため息をつきそうになるが、どうにか自制した。この後に待ち構えている宮殿議会を思うと、気が重たくて仕方なかった。
 憂鬱そうな光希の顔を見て、ジュリアスもまた頬を固くした。その様子には気づかず、光希はジュリアスと並んで大神殿を後にした。
 ザインへ促すシャイターンの啓示は、日々繰り返されるのだが、ジュリアスは光希の懸念を聴きれようとしない。
 年明けにザインで行われる聖霊降臨の儀式に、アッサラームを代表して列席するジュリアスは、光希を連れていくことに激しく反対していた。
 対する光希は、同行を主張している。
 平行線をたどる攻防に、心身は疲弊する一方だ。お互いに疲れた顔をしている。早く重荷から解放されたいが、なかなか解決の糸口を見つけられずにいる。
 案の定、宮殿会議は、和やかな雰囲気とはほど遠かった。
 彼等を説得しようと躍起になることに、光希は疲れ果ててしまった。もうこれ以上ザインのことで気を揉むのは厭だった。
 気落ちした光希は、クロガネ隊へ直行せず、気分転換に中庭を訪れた。
 石畳に座りこみ、らちもない思いにふけっていると、草叢くさむらの合間に、黄金色の鱗が光った。
 顕れたのは大きな蛇だ。
 優美に鎌首をもたげて、叡知を湛えた蒼い眸で光希を見つめる。語りかけるように、先の割れた赤い舌を覗かせた。
 無言で殺傷しようとするローゼンアージュを、光希は手で制した。不思議と恐怖はなかった。
 龍の尾のような、錦の蛇。あれは、シャイターンの化身だ。光希を見つめて、無言で語りかける。
「殿下! おさがりください」
 近衛が危ぶむ声を発した。剣を構える彼等を、光希は今度も手で制した。唇に指を当てて、静かにと合図する。
 魔性の蛇と目をあわせた一刹那いちせつな眼裏まなうらに稲妻が閃いた。
 未来が視える。
 ザインの支柱はひび割れ、わざわいの雨が降る。
 翳った空に翻る、ゴダール家とドラクヴァ家の紋章旗。
 残酷で非情な抗争が起こり、垂直に降るつぶてのような雨は、石畳を穿うがち、彼等の血で河を作る。
 雨滴の伝う、鈍色の絞首刑具。
 絞首刑執行人が、目隠し布をされた男に縄をかける。留金でとめた鉄輪に吊るそうと……!
 恐ろしい未来に、立ち向かう者がいる。
 白い鳥を意匠した旗を掲げる、革命軍だ。先頭に立つ男の、左目の下にはほくろが一つ――
「殿下?」
 訝しむローゼンアージュの声に、我に返った。
 蛇は、光希を泰然と見据えて、舌を覗かせている。声なき声で“行きなさい”と囁くように。
「はぁ――……判ったよ……」
 光希が諦めたように返事をすると、蛇は満足そうに丸い頭を巡らし、長い胴体をくねらせながら、草叢をかき分けて消えていった。
 しかし、ザインへの同行をジュリアスは認めようとしない。アースレイヤも乗り気ではないし、光希の劣勢は明らかである。
 思い悩んだ光希は、サリヴァンに相談した。彼はいつでも明晰に答えてくれる。
 老師にアデイルバッハ皇帝への直訴を暗に勧められ、光希は躊躇った。実は、何度か考えたことはあるのだが、ジュリアスを激怒させるであろうことを思うと、行動に移せなかったのだ。
 しかし――それしか方法はなさそうだった。
 意を決して皇帝に話すと、渋りはしたが、シャイターンの啓示だと説く光希を、最終的に受け入れた。
 その日のうちに、権威の頂点からジュリアスに勅命が下り、彼は不機嫌も露わにクロッカス邸に戻ってきた。
 居間の絨緞でくつろいでいる光希を見つけるや、まなじりを釣りあげて速足に寄ってくる。
「納得したはずでは?」
 挨拶もなく、棘のある声が頭上に降る。
 氷の彫刻めいた美貌に冷たく見下ろされ、光希は怯みかけた。覚悟はしていたが、怒っているジュリアスは恐ろしい。
「……しているわけないよ」
「陛下に進言するとは、卑怯ですよ」
 苛立ちを秘めた声でいわれて、光希もむっと顔をしかめた。
「大勢の前で、僕をやりこめたジュリに比べたら、マシじゃない?」
「やりこめた?」
 青い瞳の光が凄味を増す。光希は、まずい、と思った。肌が粟立つのを感じながら、それでも負けじと睨み返した。
 今朝の宮殿会議には、光希も腹を立てていた。
 皆を説得できるものならとジュリアスがいうから、注目に耐えて会議に臨んでいるのに、あの態度はなんだ。皆の前で、光希の意志をへし折りたかっただけではないのか?