アッサラーム夜想曲

偲ぶ夜の憩い - 2 -

 黒い帳に覆われた大神殿。
 サンベリアは、白漆喰をいた居間の、花苑かえんを意匠された絨毯のうえに腰をおろしていた。何をするでもなく、天窓の向こうを眺めている。
 ここはサンベリアのための住居で、公宮のような奢侈しゃしはないが、寝室には天蓋つきの寝台、木彫りの衣装箪笥と化粧台があり、部屋を居心地よく温めるに足る暖炉もある。
 この居間にも暖炉があり、おこした炭が赤く燃えている。
 既に夕餉も沐浴も済ませており、あとは眠るだけだ。寝台に入るまでの間、こうして天窓から星を眺めることはサンべりアの日課だった。
 澄んだ夜空に、数千那由他なゆたの玻璃珠と青い星が煌めいている。
 とても静かだ。
 妃の任をほどかれ、大神殿にきた日をもう随分と昔に感じる。
 夜啼鶯よなきうぐいすの声に耳を澄ませながら来し方を懐かしんでいると、扉を叩く音に意識を呼び戻された。
「母うえさま?」
 開いた扉の隙間から、日向に咲いた花のように明るい笑顔が覗いた。
 老女の召使いを従えて、小鹿のように歩み寄る我が子。息子のアルジュナに、サンベリアは自然と笑みを浮かべた。
「まだ眠っていなかったの?」
「申し訳ありません、姫様。どうしてもお会いになると、聞かなくて」
 マーサは困ったようにいった。その声には、アルジュナへの慈しみが溢れている。彼女はサンベリアが赤子の頃から傍で面倒を見てきた善良な女で、今でもサンベリアのことを姫と呼ぶ。
 足元までやってきた小さな躰を抱きあげると、アルジュナは悪戯好きの猫のように喉を鳴らして、サンベリアの首にしがみついた。サンベリアによく似た顔立ちは特別の美しさはないが、無垢な笑みは宝石のようだ。
「私の小さな愛し子。今日は何を学んだの?」
 濃い灰銀髪の癖っ毛を撫でてやりながら、サンべリアは優しく問いかけた。
「きょうてんを、読みました。二章まで覚えました!」
「偉いわね。よく励めば、徳のある神官になれますよ」
「がんばります!」
 無邪気に笑う我が子の頬を、サンベリアは愛しげに撫でた。
 この小さな神官の卵はいま、至高神の経典を綴る神聖語を学んでいる。神聖語は幾種もあり、なかでも神聖雅語は荘重華麗にして難解、文法も煩瑣はんさ複雑で習得は極めて難しいとされる。
 何十万語にも及ぶ、神聖雅語で記された聖典全巻を諳んじれる者は、やがて一位神官の資格を与えられる。
 幼少の頃から、類稀たぐいまれな才能と褒め称えられた、ナフィーサやナディア、シャイターンも成人儀式を待たずして資格を得ている。
 親の贔屓目かもしれないが、覚えの良い敏い子だからアルジュナもいずれ、後衛に名を連ねられるかもしれない。サンベリアは胸のうちに思った。
「はげめば……天使さまに、お仕えできますか?」
 おずおずと訊ねるアルジュナに、サンベリアは笑顔で頷いた。
「ええ、きっと」
「きよくて、おやさしい、天使さま?」
「そうよ。母様と貴方の命を、御救いくださった、尊くてお優しい御方なの。このご恩はいつか、今生でお返ししなくてはならないわ」
「はい、母うえさま」
 間もなくアメクファンタムは成人を迎え、この国の皇太子になる。
 覇権争いから退いたサンベリアに、変わらぬ美貌でリビライラは笑みかける。美しくも冷たい笑みに戦慄を覚えるが、母となった今、リビライラの炎のように苛烈な野心も少しは理解できる。
 彼女の野心の裏には、母としての愛も確かにあると思うから。
 神事の折に顔をあわせると、アメクファンタムは無邪気にアルジュナに声をかける。二面性を持つリビライラだが、見守る眼差しは母のそれであった。
 時間の流れと共に、状況も心情も移ろう。
 清し夜の、慎ましい団欒だんらん
 ずっと憧れていた、この安らぎを授けてくれたのは、かの青い星の御使いだ。牢獄のような公宮から、天使の御業みわざで救いあげてくださった。
「まだ起きているのなら、一緒にお祈りしましょうか」
「天使さまに?」
「そうよ。ザインへお発ちになった殿下のために……火を灯さなくてはね」
 サンベリアは七枝燭台の蝋燭に火を灯して、陶磁器の香炉にも火を点けた。間もなく馥郁たる素馨ジャスミンの香が漂い始める。
 祈祷の準備が整うと、サンベリアは絨毯のうえに膝をついて、アルジュナを振り向いた。
「さぁ、いらっしゃい」
 笑みかけると、幼い息子はいそいそと傍にやってきて、サンベリアの隣で膝をついた。胸の前で小さな手を交差し、敬虔に目を閉じる。
「天にまします神よ、星の御幸みゆきをどうかお護りください」
「おまもりください……」
 いとけない声が復唱する。
 母と幼い息子は熱心に、ザインへ発った御使いの無事を、至高神に祈り続けた。