アッサラーム夜想曲

偲ぶ夜の憩い - 1 -

 今でも、あの頃を夢に見る。
 桜草プリムラの庭を無邪気に駆けて、花冠かかんを編んだ幼い日。母や姉と鳴らした竪琴シタラの音。遠い日の愛しい記憶……
 十五歳。
 恐れかしこみ、足を踏みいれた。
 万華鏡のように、宝石箱のように煌めいて、目にも彩な春風駘蕩しゅんぷうたいとうたる公宮。
 けれどもサンベリアにとっては、索漠さくばくとした灰色の世界に過ぎなかった。  青褪めた愛が満ちる、欺瞞ぎまんと悲壮に満ちた絶望の世界。永久に抜けだせない万魔殿パンモデウム
 見えない鎖に繋がれて、もう二度と自由に走れない。
 燦爛さんらんたる皇太子の目に、美しく映らずとも一向に構わなかった。美しく咲く花々と、けんを競い、寵を競りあう気持ちは欠片も無い。見劣りする己の容姿に、安堵していたくらいだ。
 それなのに……どうしたことか、彼はサンベリアの元を度々訪れた。
 身籠れば、消される。
 お役目と判ってはいても、とぎは恐怖でしかなく、どれだけ甘く優しく抱かれようと、常に死への恐怖があった。
 叶うことならば、公宮を飛びだしたい。
 たった一度、決死の覚悟で挑んだことがある。火事を装い、逃亡を図ったのだ。
 誰もいなくなるまで隠れていようと、物陰に身を潜めるうちに、白煙に包まれ意識は遠のいた。
 あの時、曖昧模糊あいまいもこにぼやける意識の向こうで、心に棲むもう一人の私が優しく囁いた。

“死んでもいいのよ”

 それでもいいと思った。
 生き延びたところで、どうだというのだろう。寂寞せきばくの公宮で、変わらぬ恐怖を抱えて生きてゆくだけ……
 けれど、どこからか家人たちは集まり、物陰に身を潜めていたサンベリアを見つけだした。火は広がらず、間もなく消し止められた。
 あの時、死んでしまえば良かったと、後に何度も後悔することになる。
 懐妊。
 何よりも恐れていた事だった。腹に宿った命に、戦慄せずにはいられなかった。
「殺される……ッ」
 身体は恐怖にこごり、昏い思考のうちで「殺される」という、か細い己の声だけが何度も耳朶にこだました。
「あぁ、マーサ。どうか、誰にもいわないで……!」
「姫様、何をおっしゃいますか! 黙し通せるような場所ではありません。早く、お父君に知らせましょう。必ずバカルディーノ家に話を通してくださいます」
「駄目よ、駄目……あの方には、通用しないわ」
 弱々しく頭を振るサンベリアを、長いつきあいの侍女は優しく抱きしめてくれたが……それから先のことは、思い返すのも憂鬱な日々であった。
 生家は喜んだ。不自由ないようにと、細やかに差し入れをし、腕の立つ侍女を密かに送ってよこした。
 懐妊を知り、アースレイヤも喜んだ。疑心に満ちたサンベリアの目にも、澄んだ笑みに映ったくらいだ。
 しかし、リビライラを思う度に、心は悲鳴をあげそうなほど軋んだ。
「いけませんよ、大事な身体なんですから……きちんと食べないと」
「消化にいいものを運ばせましょう」
 合同模擬演習の席で、リビライラが横から果実を進めれば、反対側からアースレイヤも別のものを勧める。
 霜のように冷たい絶望と恐怖を目の端で見やりながら、震える手を伸ばした。滑稽なほど怯えるサンベリアを見て、残酷な二人は愉しんでいた。
 顔に綺麗な笑みを貼りつけていても、冷めた眸は真実を雄弁に物語る。
“貴方が邪魔なの。消えてくださる?”
 間違いなく、リビライラはそう思っていた。
“今にも倒れてしまいそうな、弱いひと。どうやって切り抜ける?”
 気遣うように、それでいて愉しげにアースレイヤが嗤う。
 歪な人たち。艶然えんぜんと笑みながら、人の弱さを暴くことを欠片も躊躇しない。
「僕も、いただいていいですか?」
 歪んだ視界を正してくれたのは、いとけない容姿の、青い天球から遣わされた天上人であった。
 公宮の頂点にありながら、少しも気取ったところのないたえなる人で、傍にいるとサンベリアの心は不思議と凪いだ。
 そして運命の日が訪れた。
 いつもと変わらぬ、清らかな陽光の降り注ぐ大神殿。
 典礼儀式の始まりを告げるカリヨンの音を待っていると、ふと内陣の影に、いつもは立たぬ神殿騎士の姿を見つけた。よく見渡せば、石柱のそちこちに護衛が立っている。
 違和感に気づくと、周囲に満ちる空気も、ぴんと張り詰めて感じた。水底のような不気味な静けさに、嫌な予感が芽生える……
 不吉の正体は不明のまま、澄んだ鐘の音色が鳴り響いた。
 目を閉じて、静かに祈りを捧げる。
 そうするうちに不安は消えてゆき、やがて無心になって、世界は自分と星辰せいしんの神秘だけになる。
 幾千夜と星空を仰いできた大神殿の壮大な石の堆積たいせきに溶けこんで、遥か彼方へと魂を彷徨わせる。
 群青の天蓋にあまね無窮の宇宙アルディーヴァランへと……
 黙祷を終えて目を開けると、不思議と世界が澄んで見えるよに思う。
 聖水を受けとろうとした瞬間、正面から駆けてきた花嫁に腕を取られた。思いもよらぬ衝撃に、手にした杯から聖水が零れた。
「サンベリア様、僕と一緒にきてください」
 いつになく緊張した面差しの彼に続くと、廊下へでるなり、堰を切ったように話し始めた。
「貴方は、このままだと殺されてしまいます。さっきは、毒殺の可能性がありました。権力を一切捨てる覚悟はありますか?」
 黒水晶のような眼差しに映りながら、一瞬、答えを躊躇った。サンベリア自身に未練はなくとも、家名を守る父や母を思うと、頷き兼ねたのだ。
 けれど――この先、馴染めぬ公宮で、忍び寄る暗殺に、敢然かんぜんと立ち向かってゆく自信などない。
 賞賛も栄誉も立場もいらない。ただ、怯えることなく、穏やかな日々を過ごしてみたい……!
 心に棲む、もう一人の私が背中を押した。
“選んでいいのよ”
 気がつくと、深く頷いていた。
 彼は、追い駆けてきたアースレイヤたちを前に、驚くべきことを口にした。
「彼女は私有財産を捨て、婚姻を破棄し、シャイターンに誓願を立てる必要があります。御子と共に神官宿舎に迎え入れてください」
 嗚呼、そうできれば、どんなに素晴らしいか!
 サンベリアよりも背は低いのに、厳かに啓示を口にする天上人の背中は、不思議と霊峰のように大きくそびえて見えた。
 四貴妃にありながら、神門に下る。
 前代未聞の異例に、さざなみのように周囲に動揺が走ったが、公宮の主であり御使いである彼の言葉は、神殿の重鎮たちを黙らせた。
 内陣へ戻ろうとすると、公宮の佳人、美しいリビライラと視線が絡んだ。
 彼女の、蒼氷色そうひいろの瞳が苦手であった。いつも少し視線を逸らして、直視しないよう調節しているくらいだ。
 けれど、あの瞬間――
 芽生えた感情に、名をつけるとしたら、何が相応しかったろう?
 妃として対峙するのは、これが最後になる。
 そう思うと、不思議と美しい眼差しを臆することなく見返せた。最初で最後の、視線が交錯する。
「サンベリア様。公宮をでてゆかれるのですね。寂しくなりますわ……」
 知己との別離を惜しむような口調に、サンベリアの胸中は複雑に揺れた。
 幾星霜の時代の重みを告げる神殿の中、周囲の景色は視界から失せ、二人きりで茫漠ぼうばくの砂の海に立っているような、そんな錯覚を覚えた。
 数千那由他なゆたの光景が胸をよぎる。
 薔薇と素馨ジャスミンに囲まれた花の茶会、この世の贅を尽くした楽園の宴。隅で縮こまるサンベリアを、このひとは連れ回しもしたけれど、欠片も愉しくなかったわけではない。
 時には、四阿あずまやのしたで静かに過ごし、穏やかな時間を共有したこともある。
 焦燥と疑心だけが、あのみやびな世界の全てではなかった。
 本当は、サンベリアの弱さが、常世の楽園を灰色に染めてしまったと知っている。
 畏怖の陰には、憧憬も確かにあった。
「殿下の御言葉通りにいたします。生涯、シャイターンにお仕えいたします」
 憧れていた――典雅な所作、銀細工のように美しい容姿もさながら、揺るがない、直視できぬほど強い、燃えるような眼差しに。
 交差していた視線は、どちらからともなく自然に外れた。静かに、言葉もなく内陣へと戻ってゆく。
 心のうちでひっそり、万感をこめて告げた。

 さようなら、リビライラ様。