アッサラーム夜想曲

天高く - 2 -

 アッサラーム軍が出発してから、数日後。
 軍舎の窓辺で頬杖をついて、カーリーは無聊ぶりょう紺碧こんぺきの空を仰いでいた。
 空は晴れ渡っているというのに、気持ちは今一つぱっとしない。
 花嫁ロザインの親衛隊としてザインへ発った親友を思うと、悔しいような誇らしいような……心に靄がかるのだ。
「はぁ……」
 何度目かのため息に気がついて、カーリーはかぶりを振った。六日に一度の休みだというのに、鬱々としていては勿体ない。
 空は久しぶりに晴れ渡っていることだし、気分転換にダリア・エルドーラ市場へ繰りだしてみようか。
 心を決めると、早速外へ飛びだした。
 馬車を経由して市場の前でおりると、たちまち賑やかな喧噪に包まれた。
 往来しげき通りの左右にずらりと露店が並び、大声で呼びかける商人や、値切ろうとする客、荷を引く家畜のいななき、わだちの音で溢れかえっている。
 目にも彩な織物店の山と積まれた絨毯、骨董見せの白磁や青磁たち。
 茶葉や様々な香料の匂い、華やかな素馨ジャスミンの薫りが鼻腔をくすぐる。
 なんとも色彩に富み、目移りするくらい賑々しい。
 気ままに露店を眺めていると、不意打ちで、ぽんと肩を叩かれた。
「ひゃあ!」
「わー、可愛い声」
 飛びあがらんばかりに振り向いた先には、にこやかに笑むランシルヴァの姿があった。
「こんにちは、ランシルヴァ様……」
 照れ臭げに咳払いをして、カーリーはお行儀よく会釈した。
 とうに成人したが、カーリーはまだ声変りをしていない。かつて席を置いた聖歌隊では、エステルの後任を務め、高音域を先頭で歌う立場にあった。
 その実力を、ランシルヴァはよく知っている。神殿で耳にしたカーリーの歌声に聞き惚れ、後日、道ゆくカーリーの背中に彼が声をかけたことから、二人は見かければ声をかける程度の知人となった。
 彼は、見る度に色彩に富んだ格好をしている。今日は、緩く波打つ長髪に、乙女のように可憐な花を挿しており、不思議と似合っている……
 優しげな風貌の通り、温厚で気さくな人柄だが、こう見えて彼は高名な詩人である。
 万象の神秘や懐疑を、言葉で語りかける詩人は、尊敬を集める。特に高名な彼等の墓所は故郷に建てられ、大勢の参詣者を集めるのだ。
 挨拶を終えた後、なんとなく、二人は並んで歩きだした。互いに市場には遊びにきており、急ぎの用もない。
「詩はどのようにして、作るのですか?」
 道すがら尋ねると、ランシルヴァは人差し指を顎に添え、視線を斜め上に動かした。
「んー……歩いていると、流星のように閃いて、口から飛びだしてくる感じかな」
「……」
 返す言葉もなく、カーリーは沈黙した。
 彼は、例えば胸を打つ美しい光景や音楽を、あるがまま紙の上に散らして、奇跡を顕現けんげんさせる人だ。
 思考錯誤により道を切り開く、およそ厳しい韻律や理念を追求する詩人とは対局にある、天性の詩人であった。
「ほら。ああいうものを見て、人は詩人になるんだ」
 彼が指さすままに空を仰ぐと、飛竜が編隊を組んで、悠々と翔けてゆくところだった。
 そうかと思えば、今度は雑貨屋に揺れる香炉を指して、いい匂いと笑い、大道芸人の風笛ガイタの演奏に耳を傾け、鼻歌をあわせる。
 カーリーよりずっと年上なのに、落ち着きがなく、天真爛漫で子供のような人だ。
 彼は、“宝石持ち”にして神殿の権威、高邁こうまいな賢者サリヴァンの息子としても名を知られているが、あまり宮殿には寄りつかない。しばしば年の近い弟のユニヴァースと並んで歩く姿を目撃されているが、それも宮殿の外と決まっている。
「ランシルヴァ様の見ている世界には、詩が溢れていそうですね」
「溢れているね!」
「思いついた詩に、手を加えたり、直したりはされないのですか?」
 迷いがないのかと思いきや、ランシルヴァは、いやと首を振った。
「いまひとつ精彩が足りないと思えば、寝かせることもあるよ」
「寝かせる?」
「そう。いったん忘れておいて、しばらくしてから眺めるんだ。それで、あ、こうしようと後から直して、完成することもある」
「へぇ……」
 相槌を打っていると、偶然目に入った書店に、まさしく彼の詩本が並べられていた。
 この霞を食べて生きていそうな不思議な人は、紙を使って何冊かの本もだしている。サリヴァンの息子、という肩書きは別としても、正真正銘、名の知れた詩人なのである。
「これをあげよう。新刊だよ」
「ありがとうございます……」
 詩本と思いきや、渡されたのは、いかにも女性の好みそうな情報誌であった。この本と、彼にどんな関係があるのだろう?
「記事を書いているんだ」
「えっ、この雑誌で?」
「女名を使って、流行情報を書いている」
「はぁ……」
 エステルは不得要領に頷いた。高雅な詩人であり、女性雑誌にも記事を書くとは。彼の頭の中は、一体どのようになっているのだろう?
「好きな詩人はありますか?」
「たくさんいるよ。特にルノーが好きかな」
 聞いたことのある名前に、カーリーも頷いた。全編殆ど、煙草と酒の、懐かしいアッサラームの古詩を書いた人だ。
「これだけは見ておいた方がいいよ。アッサラーム美術のすいを見ることができる」
 書店に立ち寄り、彼が絶賛したのは、アッサラームでも三指に入る、庭園建築家の手がけた庭の画集本であった。
「お詳しいですねぇ」
 感心して告げると、ランシルヴァは喉を鳴らして笑った。
「あのクロッカス邸の庭を手掛けた、著名人だよ」
「え、そうなんですか?」
 公宮に建つ、花嫁のお屋敷を見たことはないが、大変美しいと評判は耳にしている。
「ところで、君はどうして、しょんぼりしていたんだい?」
「あ、判るんですね……」
 意外な思いで、何気に失礼なことをカーリーは口走った。といっても悪気はなく、自由気ままで嫋々じょうじょうとした詩人には、常人の心の機微など無縁な気がしたのだ。
「小腹が空いたからね」
「はぁ」
 意味不明だが、大した抵抗もなく、カーリーは口を開きかけた。
「やや、あれはなんだい?」
 ……と、彼の好奇心は余所へ移った。
 美味しそうな匂いをさせている、饅頭屋を見つけて目を輝かせている。声をかける間もなく、脱兎のように屋台へ突撃してゆく。
 心変わりの激しい人だ……詩人とは、皆ああなのだろうか?
 目を白黒させているカーリーのところへ、ランシルヴァは燕のように舞い戻ると、どうぞ、とカーリーの分を一つ手渡した。
「美味しいねぇ」
 幸せそうに頬張る姿が、一瞬、カーリーよりもずっと年下に見えた。
 口に拡がる甘味は美味しく、加えて子供のように笑う彼を見ていると、自分が子供だと思い悩んでいたことが馬鹿馬鹿しく思えた。
「……ん? 何を話していたんだっけ?」
「美味しそうな饅頭だなぁって、話していたんですよ」
「そっかそっか」
 朗らかな笑みにつられて、カーリーも笑い声をあげた。
 玻璃のように澄んだ笑い声は、天高く響き、道行く人を少しばかり幸せにした。ランシルヴァも慈しむような眼差しで見下ろしている。
 彼は、カーリーが思う以上に、実はカーリーの声に大層惹かれており、度々詩を創る閃きに変えているのだが、本人はまるで気づいていなかった。