アッサラーム夜想曲

遠征王の追憶 - 2 -

 穏やかな昼さがり。
巧緻こうち華麗な一室。斜光を弾いて煌めく、青のタイルの美しい調べ。
 淡い銀髪のした、叡知を讃えた蒼氷色そうひいろの瞳で、アデイルバッハは麝香草ティミアンの香る中庭を見やった。
 その隣には、大神殿の権威であり、長年の知己でもあるサリヴァンがいる。成人にも満たぬ頃から傍にいるが、互いに目元に刻む皺は、随分と深くなった。
 穏やかな微風を頬に受けながら、砂漠の彼方を思う。
 退位が近づいているせいか、ふとした瞬間に、駆け抜けてきた日々を振り返ることが増えた。
 果敢に攻めた東への侵攻。渾身の制圧に耐え続けもした。アデイルバッハの治世を讃える者は多い。
 東西の決勝を評価する声が大半であるが、なかには反駁はんばくの声もあった。安寧の訪れたアッサラームを見て、画竜点睛がりょうてんせいを欠くと、嘆く者は少なからずいるのだ。
 砂漠の英雄がいて、その傍らに天上人である花嫁ロザインが寄り添う。知略に富む皇帝が治め、新たな悠久の御代が始まろうとしている。豊かな理想郷だ。
 しかし、東西の別は依然として健在なのである。
 四年前に交わしたサルビアとの和睦に、批判の声もあった。
 東に決勝したことで侵攻気風は高まり「遠征王ならば号令を発してくださる」と、昔を知る幾人かに責める眼差しを向けられた。
 なぜ、侵攻しなかった?
 様々な声を聞きながら、アデイルバッハは生まれた時から歩んできた、東西統一の覇道を降りた。
「神が黒暗淵やみわだを雷鳴で照らし、無名の土くれ、命無き粘土からアッサラームをお創りになり幾星霜……西を総べる聖都アッサラームを、私は強固にしたかったのだ」
 唐突に口を開くと、隣でサリヴァンが微笑した。
「強固でしたとも。陛下の御代こそ、史上の誉れ。繁栄の極地といえるでしょう」
「完璧ではない。仮初の平和を享受し、繁栄の極地にあってなお、東の脅威は消えなかった」
「東西戦争に、見事決勝したではありませんか」
「勝利だけなら幾度も納めてきた。劣勢にあっても捲土重来けんどちょうらいを期して、ムエザたちと幾夜も翔けたものよ。だが、どれだけ年月を賭けても、東の境界線を塗り替えるには至らぬ」
「その日々があったからこそ、アッサラームは栄華の極地にあるのですぞ」
「遠征のさなか、ファティマと皇子を立て続けに失った時は、神はこの地を照らすのを、お止めになったのかと思った」
「深い哀しみでしたな……」
 当時を知るサリヴァンの口調は静かで、アデイルバッハも視線はそのままに首肯した。
「御心に応えようと、全身全霊で尽くす私に、神はこれ以上何をお求めになると思った」
「天界に憩う星の輝きは、幾星霜を経ても変わりませぬ」
「あの時は、そうは思えなかった。私のなかで、かくと燃える信仰は一度死んだのだ」
「陛下……」
「征服を諦め、西の結束に目を向けてからの私は、見る者によっては、茫然自失と映ったであろうな」
「いいえ。貴方はいかなる時も、真の賢帝でしたよ」
 友の慰めに、アデイルバッハは首を振って応えた。
「ファティマを喪い、残りの生涯を一人で過ごすだろうと知った。どんな美姫にも心が動かぬ。じきに帝位を譲るのだと……公宮を維持する気も失せてしまった」
「ファティマ様……お懐かしいですなぁ」
 美しく、たおやかな女の面影が胸をよぎった。若くして去った彼女には、随分と苦労をかけたものだ。
「忘我に身をやつして初めて、花嫁を渇望するお主の境地を知ったのだ。もう遅いが……渋るお主に“宝石持ち”の義務だと説き伏せ、妻を娶らせてしまったな」
「いいえ、陛下。最後には必要な役目だと、理解しておりましたよ」
「お主には、頭がさがる」
 寛容な友と違い、この年になってなお癇癪も起こすし、時に自説は譲らない。古い知己が自分を語れば、寛容とは無縁と口にすることであろう。
「幸いにして、妻たちは私の良き理解者として支えてくれました。至上の秘蹟ひせきを手にすることは叶わなくとも、幸せは得られるものです」
 柔和に笑むサリヴァンを見て思う。出会った当初の虚ろな眼差しは、いつの間にか穏やかな双眸へと変化した。花嫁に巡りあわずとも、彼は絶望せずに道を進み、今もこうして傍で支えてくれている。
「永く重い帝位を、よく守られましたな」
「褒められると、悪い気はせぬな!」
 ふと愉快がこみあげ、アデイルバッハは哄笑こうしょうを漏らした。
「艱難辛苦の数十年を、お傍で見て参りました。陛下の御代に“宝石持ち”として生を授かったことを、心から感謝しておりますよ」
「花嫁に巡りあえずともか?」
「ええ」
「……全く、感服させられるわい。シャイターンを導くお主の姿は、私の目には聖者に映る」
「この境地には幾歳月が必要でしたから、彼との出会いが、どうにか成熟の橋が架かる頃で助けられました」
「正直だな」
「若き日の私が彼を見れば、妬みを感じたことでしょう。若者の弱みです、大目に見てくだされ」
 どこかおどけるような口調に、アデイルバッハは再び哄笑した。
「皇子たちも、ご立派になられましたな」
 友の言葉に、アデイルバッハは顎を撫でながら頷いた。
「アースレイヤは、猜疑心が強く酷薄な性格をしているが、人心掌握に長けている。帷幄いあくはかりごとをめぐらし、宮殿の遥か彼方で決勝する天賦てんぷの才にも恵まれた。アッサラームを良く守るだろう」
 自ら先陣を切って駆けた皇帝の言葉に、サリヴァンはたくまざる説得力を感じて頷いた。
「彼の施政には展望があります。陛下がお守りしたアッサラームの栄華に、お変わりはないでしょう」
「昔は東西統一をさかんに説いたものだが、今はそうも思えぬ。彼が導くアッサラームは、私の思想とは別のところにあって良いのだ」
 皇太子は評議会の操縦が巧みだ。反論がっても、輿論よろんを圧迫させるだろう。皇家の血統を自負しながら、自分自身の明晰めいせきな価値観を備えてもいる。
 古き良き君主ではこの混沌とした国を守れない。正確で、用心深く、磊落らいらくで、怜悧で、翳らぬ栄誉と権勢を保つ精神力がなければならない。例え弑逆しいぎゃくが試みられようとも、ほほえみを浮かべていられなければならない……だが、ルーンナイトは裏切らないだろう。王の剣として彼を支えるだろう。自分とサリヴァンのように。
 宝冠の重みを感じながら、アデイルバッハは彼方を見つめた。
「悔いはない」
 継承の時がきたのだ。
「そろそろ、休まれてはいかがですか?」
 労いの言葉に、隣に立つ知己を見た。お互いに、ごく自然な笑みを浮かべている。
「長い間、ご苦労だった」
「何をおっしゃる」
「労ってやろう。帝位を譲ったら、外洋を越えてエルノ島までゆこうか」
「美しい神の島ですなぁ」
 表情を綻ばせるサリヴァンを見て、アデイルバッハはにやりと笑んだ。
「傍にいよ! 老いらくの身につきあえ」
「身に余る光栄ですが、神にお仕えする身ですから」
「時には心身を休めるのも、勤めというもの。旅路から戻ったら、まとめて祈ればいい!」
 身勝手な持論をいい放つ皇帝を見、サリヴァンは目じりの皺を深めると苦笑で応えた。