アッサラーム夜想曲

遠征王の追憶 - 1 -

 鼻孔をくすぐる、仄かに甘い蜜蝋みつろうの香り。
 揺らめく灯を眺める度に、繰り返される遠征の記憶。一人捧げた晩祷を思いだす。
 数千那由他なゆたの青い燐光は砂を覆いつくし、蒼い空と渾然こんぜんとなった。
 星辰せいしんの輝きを仰ぐばかりであったが、この先、アデイルバッハもそう長くはないであろう。天命を終えたら、ようやく彼等に詫びることができる――
 思いふけっていると、衛兵からおとないの知らせを受けた。
 夜分に寝室を訪ねたきたアースレイヤ皇太子を、アデイルバッハは寝室着のまま迎え入れた。
「遅くに申し訳ありません」
「良い」
 美貌で知られた亡き皇妃、ファティマによく似た面差しの青年を、アデイルバッハは正面から見つめた。
 用件は判っている。
 シャイターンの花嫁ロザインに直訴されて、ザインへの同行を承認すると共に、アースレイヤに軍を発する指示をだした。早速、仔細の報告を持ってきたのだろう。
 杯に酒を注いで勝手に飲み始めると、アースレイヤは形の良い唇を開いた。
「明日には編隊を開始します。五日もすればザインへ発てるかと」
「うむ」
「なかなか忙しいですよ。陛下にお願いするとは殿下も粘りましたね……シャイターンには、私から正式に遠征の権限を与えても?」
「良い。兵は好きに使え、宗主国としての役目を果たせと伝えよ。有事の判断も、全てシャイターンに任せる」
「御意」
 聖霊降臨儀式を前に、大きな抗争が起きないとも限らない。その際は内乱鎮圧の指揮を執ってもらうことになる。
 間もなく雨期も明ける。乾期が訪れ、交易が活発化する前に鎮圧を終えるべきだ。
「聖霊降臨儀式に列席する首領にも、援軍要請の書状を送っておけ」
「はい。もう用意してあります」
「うむ」
 有事にアッサラーム主導で介入して解決してしまっては、他国の面目が立たない。体裁上の共同戦線である。
「ところで……近く、公宮を縮小することに決めました」
「ほぉ?」
 興を引かれて、アデイルバッハは杯を傾ける手を休めた。窓辺に寄ったアースレイヤは背を向けており、その表情は判らない。
「隠れ蓑はもう不要か?」
 背中に問いかけると、心を読ませない如才ない笑みで振り向いた。
「隠れ蓑だなんて。心地良い楽園ですよ。即位しても変わらず、足を運びますとも」
「施政はついでか」
「割と好きですけどね。ただ、凝り過ぎると肩も凝ります」
 軽く応える口調に、苦笑で応えた。まぁ、彼の持ち味だ。退位した後は煩くいうつもりもない。好きにすればいい。
「私は“遠征王”とは呼ばれないでしょう」
「好きにせよ」
 明言すると、アースレイヤは静かに頷いた。彼が遠征に乗り気でないことは、昔から知っている。
「東西統一に翔けた陛下を、心からお慕いしております。アッサラームにも感謝しています。けれど、子供の頃をどうしても忘れられない」
 本心を明かさぬ彼にしては、珍しいことだ。少々意外な思いで耳を傾けていると、彼はこう続けた。
「“倉に隠れておいで。ここは快適だから”と弟にいい聞かせ、床を鳴らす杖の音を耳にすれば、いつでも笑みを貼りつけ振り向いた。“ご機嫌いかがですか?”と私の顔に目を注ぐ男を、千の夜に渡って欺いた――とうに去った日々なのに、今でも“悟られてはいけない”と気を張る子供の私を夢に見ます」
 淡々とした口調は決して恨めしくはないが、深淵の響きが秘められていた。だが、同時にどこか愛しい記憶を懐かしむような響きもあった。
「……苦労をかけたな」
 甘いはずの酒をふと苦く感じていると、アースレイヤは、亡き妃によく似た顔に微苦笑を浮かべた。
「陛下は、慣例を緩めてくださった。これは……感謝や尊敬とは、別のところにある感情なのです」
 アデイルバッハ自身は、古い慣例に沿って、即位の際に脅威となる兄弟を全て処刑している。その重いごうを、アースレイヤにはルーンナイトに服従を誓わせることで免除していた。
「重圧を背負い、悲惨がこの身に浸透していくことが厭わしいのです。いかな権威にあっても、それらは全て周囲に撒いてしまいたい」
「お前らしい」
「アッサラームを導く手助けはしますが、主力は他の者であってもらわねば困ります」
「良い。思い描くようにすれば良い」
「……」
「他に、私の許しが欲しい案件は?」
 黙りこくるアースレイヤの顔が、ふと年相応の青年に見えて、アデイルバッハはくつくつと喉を鳴らした。
「そうそう。軍がザインへ発つ際には、陛下から号令をかけてくださいますか?」
「……そんなもの、お前がすれば良かろう」
 遅れた返事には、嫌そうな響きが滲んだ。
 長く続く行軍を、注目を浴びる檀上から起立して見送るのは、老いた身にはなかなか苦行なのだ。
「いえいえ、陛下でないと。私はまだ、皇帝ではありませんから」
 その通りなのだが……この会話の流れに、笑ったことへの仕返しを感じるアデイルバッハだった。